フーベルトゥス・フォン・プロイセン

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フーベルトゥス・フォン・プロイセン(Hubertus von Preußen, 1909年9月30日 - 1950年4月8日)は、プロイセン王国の王族。全名はフーベルトゥス・カール・ヴィルヘルムHubertus Karl Wilhelm)。最後のドイツ皇太子ヴィルヘルムの三男で、ヴィルヘルム2世の孫の一人。

フーベルトゥスは1909年9月30日、ヴィルヘルムとメクレンブルク=シュヴェリーン大公フリードリヒ・フランツ3世の娘ツェツィーリエ(1886年 - 1954年)の間に第三子としてポツダム大理石宮殿で生まれた。1918年ドイツ革命で帝政が廃止されると、フーベルトゥスは弟ともにシュレージエンのエルス(現ポーランドドルヌィ・シロンスク県オレシニツァ)へ移った。

1934年にフーベルトゥスはフランクフルト・アン・デア・オーダーへ配備された歩兵連隊に入隊し、1939年第二次世界大戦が勃発するとフーベルトゥスもポーランド侵攻に従軍した。しかし1940年に長兄ヴィルヘルムが戦死すると、元貴族たちから反発されることを避けたいアドルフ・ヒトラーPrinzenerlassを定め、これによってフーベルトゥスも兵役を免除され、除隊した。

フーベルトゥスは1941年12月29日に Maria Anna von Humboldt-Dachroeden (1916年 - 2003年)と結婚したが、1943年に離婚した。彼女との間に子供は生まれていない。彼は同年6月5日ハインリヒ36世・フォン・ロイスの娘マグダレーナ・フォン・ロイス(1920年 - 2009年)と再婚し、彼女との間に二女をもうけた。

1947年からフーベルトゥスはラインガウ地方でブドウ園の経営をはじめた。次いで1950年南西アフリカ(現ナミビア)へ移住して農園の経営を計画した。しかし彼は虫垂炎に罹り、1950年4月8日に南西アフリカのウィントフックで死去した。遺体はホーエンツォレルン城のSt. Michaels-Basteiに埋葬されている。