フーゴー・ファン・デル・グース

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ポルティナーリ祭壇画

フーゴー・ファン・デル・グースフラマン語Hugo van der Goes日本語表記揺れヒューホー・ファン・デル・フース、ほか。1440年頃 - 1482年)は、ヴァロワ=ブルゴーニュ家時代のフランドル伯の都市ヘント(現在のベルギーのヘント)生まれの画家初期フランドル派、第2世代の巨匠として知られる。

来歴

1467年、フーゴーは生まれ故郷であるヘント市の聖ルカ組合に加入した。のち組合の長老となった。長老の間、ブルゴーニュ公シャルル勇胆公マーガレット・オブ・ヨークの結婚を祝うヘント市の装飾を担当し、公爵夫妻から雇われることとなった。

ブリュッセルにあるジェリコのバラ聖母修道会の尼僧エリザベートは、フーゴーの絵画モデルを務めたことでも知られている(※彼女が絵画モデルを務めたフレスコ画『ダヴィデとアビガイル』は現存しない)が、フーゴーと彼女は心を通わせる関係にあったとされており、フーゴーが心を傷める一因になったと見られる。

40歳近くになったフーゴーはフランドル最大の巨匠としてその地位を揺るぎないものとし、1474年(もしくは1475年)には、画家組合長に就任することで国際的名声をますます高めていたが、同年、突如として世俗者としての全ての立場からの引退を宣言し、助修士となってブリュッセル近郊のローデンダーレ修道院に籠もってしまう。修道院内で彼は在俗者の扱いをされていたと思われる。

修道院内でも絵画制作を続けるフーゴーであったが、世紀の傑作『ヘントの祭壇画』を描いた先達の巨匠ヤン・ファン・エイクへの劣等感にさいなまれ、精神病もしくはそれに近い危機的状態に陥ったと伝えられる。先述した尼僧エリザベートとの関係を事由に挙げる説もある。かくして、フーゴーは1481年自殺を図り、明くる1482年に死亡した。

作品

彼の最も有名な作品は、1475年頃に描かれた『ポルティナーリ祭壇画題:Portinari Altarpiece)』(ポルティナーリ三連祭壇画〈英題:Portinari Triptych 〉ともいう)である。この祭壇画の大作は、ブルッヘにおけるメディチ家代理人であった銀行家トンマーゾ・ポルティナーリ英語版が、フィレンツェのサンタ・マリア・ヌオーヴァ教会 (it) 内に設けられていたポンティナーリ家の私用礼拝堂の、背障として依頼したものであった[1]。現在はウフィッツィ美術館が所蔵している。

脚注

  1. ^ 中野京子『中野京子と読み解く 名画の謎 対決篇』文藝春秋、2016年、156頁。ISBN 978-4-16-390308-8 

外部リンク