チストポリ

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座標: 北緯55度21分53秒 東経50度37分34秒 / 北緯55.36472度 東経50.62611度 / 55.36472; 50.62611

市の紋章

チストポリ(チーストポリ、ロシア語: Чи́стополь, Chistopol)、あるいはチスタイタタール語: Чистай, Çistay, チュヴァシ語: Чистай, Chistay)は、ロシアタタールスタン共和国にある都市で、ウラル山脈西麓を流れるカマ川の左岸に面して建つ。下流のヴォルガ川本流のクイビシェフ・ダムによって造られた人造湖・クイビシェフ湖は、支流のカマ川のこのあたりにも広がっている。共和国首都カザンからは南東へ140キロメートル。人口は63,029人(2002年全ロシア国勢調査)、65,468人(1989年ソ連国勢調査)。2009年の推定人口は61,105人。

歴史

歴史記録にチストポリの村が初出するのは17世紀末から18世紀初頭の頃になる。当初は「広い野原」を意味するチストエ・ポーレ(Чистое Поле)という名であった。1761年には人口は1,000人を超えた。

1781年には皇帝エカチェリーナ2世の地方行政改革に伴い市の地位を与えられ、独自の紋章も制定された。やがて地名はチストポリと短縮されて呼ばれるようになる。19世紀末にはチストポリはヴォルガ地方の穀物の一大交易地となっており、後には工業も成立した。ロシア革命の起こった1917年以前のカザン県では、チストポリは県都カザンに次ぐ大きな町であった。

第二次世界大戦大祖国戦争)ではソ連西部の各地からの工場がチストポリに疎開したほか、小説家もこの地へ疎開した。ボリス・パステルナークレオニード・レオノフらがその代表である。

経済

市内では10以上の工場が操業しており、時計(ボストーク社)、食品、船舶などを生産しているほか、ドイツのシーメンス社との合弁による自動車部品工場もある。

ゆかりの人物

外部リンク