ダーネル・ステンソン
基本情報 | |
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国籍 | アメリカ合衆国 |
出身地 | ジョージア州ラグランジ |
生年月日 | 1978年6月17日 |
没年月日 | 2003年11月5日 |
身長 体重 |
6' 1" =約185.4 cm 230 lb =約104.3 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 左投左打 |
ポジション | 外野手 |
プロ入り | 1996年 レッドソックス3巡目 全体91位 |
初出場 | 2003年8月13日 |
最終出場 | 2003年9月28日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
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この表について
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ダーネル・レナウルド・ステンソン(Dernell Renauld Stenson、1978年6月17日 - 2003年11月5日)は、メジャーリーグの外野手。身長6 ft 1 in (1.85 m)、体重230ポンド (100 kg) 。左投左打。
メジャー通算37試合出場、打率.243、20安打、5二塁打、3本塁打、13打点、11四球だった。
秋季リーグ参加中に強盗殺人に巻き込まれて死去。
キャリア
ダーネルは、木こりのジェームズ・ステンソンとその妻のコーラとの8人の子供の末っ子として生まれる。
ジョージア州ラグレンジのラグランジュ高校の野球チームに所属した。尚、同校はMLBの外野手のマイク・キャメロンの母校である。そこで、ステンソンはボストン・レッドソックスのスカウトの注目を集め、1996年のメジャーリーグドラフトのボストンの3巡目、全体91位として指名された。
- 同じ3巡目で全体73位としてオークランド・アスレチックスが後にヒューストン・アストロズを務めるA・J・ヒンチを、ドジャースが全体88位として後にヒューストンでA・J・ヒンチの下でヘッドコーチを務め、ボストンの監督も務めたアレックス・コーラを指名しており、どちらも入団している。
- 同じく3巡目、全体78位としてニューヨーク・メッツが2001年から2002年にオリックス・ブルーウェーブに在籍したエド・ヤーナルを指名しており、入団している。
- ボストン傘下時代
ステンソンは、トリプルAまでプロの壁にぶち当たることなく順調に昇格していった。その中でベースボール・アメリカ誌が毎年開幕前に発表する「全米プロスペクトランキング・トップ100」では1999年の全米22位を筆頭に、2001年まで毎年選出されていた。
トリプルAポータケット・レッドソックスでは出塁率が高い強打の一塁手兼外野手として何度となくメジャー昇格が検討された。しかし、2001年〜2002年のボストンにはステンソンと似たタイプである一塁手のブライアン・ドーバックがいた上に、外野手や指名打者もマニー・ラミレスやトロット・ニクソン、リッキー・ヘンダーソン、ダンテ・ビシェット、カルロス・バイエガがいるなど層も厚く割って入る余地が無かった。更には本人の故障などもあって結局一度もメジャーに昇格することはなかった。
ポータケットで4シーズンを過ごした後、6年間在籍後のマイナーリーグフリーエージェントとして退団した。
- シンシナティ時代
2003年はシンシナティ・レッズと契約し、ダブルAチャタヌーガ・ルックアウツで101試合に出場し打率.306、14本塁打、76打点という好成績を収めた。更にトリプルAルイビル・バッツでも17試合の出場、打率.237ながら5本塁打と持ち味の長打力を発揮した。これらの成績が認められてセプテンバー・コールアップ前の8月にメジャー初昇格を果たした。その後ステンソンは閉幕までメジャーに帯同し続け、37試合に主に左翼手または右翼手で出場し、81打席で打率.247、3本塁打を記録した。
シーズン終了後、アリゾナ・フォールリーグ(AFL)のメンバーに選ばれた。
AFLのスコッツデール・スコーピオンズに所属している11月5日に、ステンソンは殺害された。 AFLは、ステンソンの殺害後2日間リーグの日程を中断し、喪に服した。
死後
2004年、AFLは、全力プレー・献身的プレー・リーダーシップの価値を示した最も模範的なプレーヤーを表彰する「ダーネル・ステンソン・スポーツマンシップ賞(通称:ステンソン賞)」を発足させた。
- 尚、2004年の第1回受賞者はマーク・ティーエン、翌年はアンドレ・イーシアと後にメジャーの第一線で活躍する選手が受賞している(ティーエンとイーシアはそれぞれ受賞翌年にメジャーデビュー)。しかし、これ以降の受賞者では2007年に受賞したサム・フルドが目立つぐらいでメジャーのレギュラークラスにまでなった選手は皆無である。これまで投手が当賞を受賞したのは2012年のコール・キンボールのみである。
- また、本賞を複数回受賞した選手は2020年シーズン終了時点で1人もいない。
ステンソンの背番号「26」は死後、ルックアウツの永久欠番となった。その後、チームがシンシナティ傘下では無くなって以降も永久欠番は継続されている。
殺害の調査
事件の概要
11月5日、ステンソンはスコッツデールのナイトクラブの駐車場で誘拐され、自らが所有する2002年製造のいすゞ・ロデオで運ばれた。スコッツデールの南方約30Kmにあるチャンドラーの町で車から逃げようとしたが頭部と胸部に銃弾を受けた。その後シートベルトが絡まり、300メートル程引き摺られて死亡した[1]。
この状況から当初、カージャックに遭遇したものと考えられていた。しかし、事件後に表面化した情報は事件は行きずりの犯行ではなく、より精巧な計画の下に行われたものであったかもしれないことを示唆するものだった。
調査の進展
ステンソンは、元ガールフレンドのジェニファー・ガディスから脅迫的なテキストメッセージを受け取っていたことが判明した。内容は「二度と私と会わないことを願うがいい」「ダーネルは第四級殺人罪に処されるべきだと信じて疑わない」というものだった。また、ガティスは以前、ステンソンの注意を引くために妊娠や自殺を偽るといった不安定な行動をとっていたこともわかった。
この裏付けを元に警察はガディスの自宅と職場を捜索し、ガティスに対して広範囲な質問をしたが、警察はこの一件には関与していないと結論付けた。
犯人の逮捕
- 最終的には、強盗殺人として4人の男 (レジナルド・リドル、ケビン・リドル、デビッド・グリフィス、ロバート・メイ) が逮捕された。
4人の内、レジナルド・リドルとデビッド・グリフィスは、どちらも6件の重罪で起訴された。その中には、 第一級殺人、誘拐、武装強盗が含まれていた。- レジナルド・リドルは、死刑判決の可能性を回避するための罪状認否に同意し、共同被告のデビッド・グリフィスに対しての証言と引き換えに懲役25年の判決を受けた。これを受けて検察官はグリフィスに対して死刑を求刑した。
- ケビン・リドル(レジナルドの異母兄弟)は、自動車盗難罪で有罪を認め、起訴を妨害しようとした罪で懲役8年9ヶ月の刑を言い渡された。
- ロバート・メイについてはシカゴを拠点とするギャングスター・ディサイプルズのストリートギャングに対して証言したことから連邦による保護証人であると判断された為、起訴は取り下げられた。
- 2007年12月、グリフィスは武装強盗と誘拐、第一級殺人を認めた後、仮釈放無しの終身刑を宣告され、確定した。
- リドルは、司法取引の一環として、2006年に第一級殺人で有罪を認めた。 2008年1月25日に終身刑を宣告され、確定したが、25年後の2033年に仮釈放の資格がある [2]。
関連項目
脚注
参考文献