ダンケルクの戦い

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ダンケルクの戦い

ダンケルクから撤退するイギリス軍
戦争第二次世界大戦
年月日1940年5月10日 - 6月4日
場所フランス ダンケルク
結果:ドイツ軍の勝利、連合軍作戦成功
交戦勢力
イギリスの旗 イギリス
フランスの旗 フランス共和国
ベルギーの旗 ベルギー
ナチス・ドイツの旗 ドイツ国
指導者・指揮官
イギリス ジョン・ヴェレッカー
フランスの旗 マキシム・ウェイガン
ナチス・ドイツの旗 ゲルト・フォン・ルントシュテット
ナチス・ドイツの旗 エヴァルト・フォン・クライスト
戦力
約400,000
(うち360,000が撤退)
800,000
損害
戦死 約10,000
捕虜 約30,000
駆逐艦 6
小型船 200
航空機 177
戦死 10,252
戦傷 8,467
航空機 101
ナチス・ドイツのフランス侵攻

ダンケルクの戦い: Bataille de Dunkerque, : Battle of Dunkirk)は、第二次世界大戦西部戦線における戦闘の一つで、ドイツ軍のフランス侵攻1940年5月24日から6月4日の間に起こった戦闘である。輸送船の他に小型艇、駆逐艦、民間船などすべてを動員した史上最大の撤退作戦。

背景

1939年9月1日ポーランドへ侵攻して勝利したドイツ軍は、1940年5月10日オランダベルギールクセンブルクに侵攻、5月17日以降に北フランスを席捲した(ナチス・ドイツのフランス侵攻)。

ドイツ軍は戦車航空機といった新しい兵器を中心とした電撃戦を展開、その火力・機動力を集中して運用する新しいスタイルの戦法によって連合軍主力の後方を突破すると、ドーバー海峡まで駆け抜けてこれらを包囲し、ダンケルクへ追い詰めた。

経過

撤退船に乗り込むイギリス軍兵士。

イギリスの首相ウィンストン・チャーチルは、イギリス海外派遣軍とフランス軍、あわせて約35万人をダンケルクから救出するよう命じ、イギリス国内から軍艦の他に民間の漁船ヨットはしけを含む、あらゆる船舶を総動員した撤退作戦(作戦名:ダイナモ作戦)が発動された。ドイツ軍はアラスの戦いでの連合軍の反撃を、近く行われる連合軍の本格的な反攻作戦の端緒と誤認し、酷使した機甲部隊の温存をはかり、また空軍大臣ヘルマン・ゲーリングの大言壮語もあって、ドイツ空軍による攻撃でこれを阻止しようとした。しかしイギリス空軍の活躍と、砂浜がクッションとなって爆弾の威力が減衰したことなどもあり、連合軍のほとんどは海からの脱出に成功した。なおこのとき、カレーで包囲されていたイギリス軍部隊はドイツ軍を引きつけておくために救出はされなかった。この部隊の犠牲もダイナモ作戦の成功の一因であった。

この戦いにより、イギリス軍は約3万人の兵員を捕虜として失うとともに、戦車や火砲、トラックといった重装備の大半の放棄を強いられた。このため数十万の兵士がほぼ丸腰で帰還することとなり、イギリス軍は深刻な兵器不足に見舞われた。しかし訓練された兵士は一朝一夕につくれるものではないため、この撤退は人的資源の保全という意味では非常に大きな成功を収めた。

その後

フランス軍はダンケルク撤退以後は雪崩を打ったように崩壊が進んだ。ドイツ軍は13日にパリを占領。更に2日後、1916年の戦闘で敗北したドイツ軍因縁の地、ヴェルダンに進撃した。ここに至ってフランスはついに6月21日に講和(降伏)を申し込み、翌22日に受諾された。漁夫の利を得ようとフランス降伏の12日前に参戦していたイタリアベニート・ムッソリーニは、「死の床の重病人に宣戦布告した」と批判されている。

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