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オーウェン・ラティモア

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オーウェン・ラティモア(Owen Lattimore、1900年7月29日 - 1989年5月)は、アメリカ合衆国東洋学者マッカーシズムの標的にされていた。

来歴

  • 1900年7月29日にワシントンD.C.で生まれ、少年時代を中国の天津で過ごした。
  • 1913年 - 1914年 スイスのローザンヌにあるコレージュ・クラシック・カントナルで学ぶ。
  • 1915年 - 1919年 イギリスのセント・ビーズにあるセント・ビーズ・スクールで学ぶ。
  • 1919年 中国に行き、新聞社のテンシン・アンド・ペキン・タイムズに勤務する。
  • 1922年 - 1926年 貿易商杜アーノルド&Co.テンシン・アンド・ペキンに勤務する。
  • 1928年 - 1929年 アメリカのハーバード大学人類学部大学院で研究する。
  • 1933年 太平洋問題調査会(IPR)のメンバーになる。
  • 1934年 - 1941年 IPR機関誌『パシフィック・アフェアーズ』の責任編集を務める。
  • 1938年 アメリカのジョンズ・ホプキンス大学でペイジ国際関係大学院長を務める。
  • 1941年 - 1942年 蒋介石の私的顧問を務めるために中国の重慶へ行く。
  • 1942年 - 1945年 OWIサンフランシスコ局長を務める。
  • 1963年 - 1970年 イギリスのリーズ大学で中国学部学部長を務める。
  • 1989年5月にプロビデンス (ロードアイランド州) で世を去った。

著書

  • The Desert Road to Turkestan 1928年
  • High Tartary 1930年
  • Manchuria: Cradle of Conflict 1932年
  • The Mongols of Manchuria 1934年
  • Inner Asian Frontiers of China 1940年
  • Mongol Journeys 1941年
  • America and Asia 1943年
  • Solution in Asia 1945年
  • The Situation in Asia 1949年
  • Pivot of Asia 1950年
  • Ordeal by Slander 1950年
  • The New Political Geography of Inner Asia 1953年
  • Nationalism and revolution in Mongolia 1955年
  • Nomads and Commissars 1962年
  • Studies in Frontier History 1962年
  • From China Looking Outward: an inaugural lecture 1964年
  • History and Revolution in China 1970年

日本語翻訳版

  • 翻訳: 後藤富男 『滿洲に於ける蒙古民族』 善隣協會 1936年
  • 翻訳: 後藤富男 『農業支那と遊牧民族』 生活社 1940年
  • 翻訳: 小川修 『アジアの情勢』 日本評論社 1950年
  • 翻訳: 中国研究所 『アジアの焦点』 弘文堂 1951年
  • オーウェン・ラティモアとエリノア・ラティモア共著[1] 監修: 平野義太郎、翻訳: 小川修 『中国 - 民族と土地と歴史』 岩波新書 1951年(改訂版1965年)
  • 翻訳: 陸井三郎 『アメリカの審判』 みすず書房 1951年
  • 翻訳: 磯野富士子 『モンゴル - 遊牧民と人民委員』 岩波書店 1966年
  • 翻訳: 春木猛 『アジアの解決』 青山学院大学法学会 1970年
  • 編集・翻訳: 青木繁、江頭数馬 『中国の世界』 毎日新聞社 1973年
  • 翻訳: 磯野富士子 『中国と私』 みすず書房 1992年
  • 翻訳: 谷口陸男 『西域への砂漠の道』 白水社 1981年(2004年、白水社の『西域探検紀行選集』より)

関連図書

脚注

  1. ^ エリノア・ラティモア(Eleanor Holgate Lattimore、1895年 - 1970年)。

外部リンク