エスタディオ・D. アフォンソ・エンリケス
エスタディオ・ドン・アフォンソ・エンリケス Estádio D. Afonso Henriques | |
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施設情報 | |
所在地 |
Rua de Sao Goncalo Apartado 505 PT-4810 Guimarães |
位置 | 北緯41度26分45秒 西経8度18分4秒 / 北緯41.44583度 西経8.30111度座標: 北緯41度26分45秒 西経8度18分4秒 / 北緯41.44583度 西経8.30111度 |
開場 | 1965年 |
修繕 | 2003年 |
拡張 | 2003年 |
所有者 | ギマランイス市 |
運用者 | ヴィトーリアSC |
グラウンド | 芝 |
ピッチサイズ | 106 x 68 |
建設費 | 27,343,976 ユーロ [1] |
設計者 | エドゥアルド・ギマランイス |
使用チーム、大会 | |
ヴィトーリアSC UEFA U-21欧州選手権2006 UEFA EURO 2004 | |
収容人員 | |
30,165人 |
エスタディオ D. アフォンソ・エンリケス (葡: Estádio D. Afonso Henriques) は、ポルトガル・ギマランイスにあるサッカー競技施設である。
この競技場はギマランイスで最も成功しているチームで、ポルトガルサッカーで最上位リーグのプリメイラ・リーガに所属するヴィトーリアSCの本拠地として使用されている。1965年に竣工、2003年にはUEFA EURO 2004の会場に選定されたため、エドゥアルド・ギマランイスの設計により修繕と拡張が行われた。エスタディオ D. アフォンソ・エンリケスの収容人数は30,165人で、ポルトガル王国初代国王アフォンソ1世生誕の地であることに因む。エスタディオ D. アフォンソ・エンリケスになる前は、エスタディオ・ムニシパル・デ・ギマランイス (葡: Estádio Municipal de Guimarães) として知られていた。
実施された試合
UEFA EURO 2004の際には、この競技場でグループCの2試合が行われた。第1戦のデンマーク対イタリア戦は、0-0のスコアレスドローに終わった。第2戦のブルガリア対イタリアは、後半ロスタイム(90+4分)にアントニオ・カッサーノのゴールでイタリアが2-1で勝利。スウェーデンとデンマークと同じく勝ち点5で並んだものの、得失点差で及ばず3位に終わったためグループリーグで敗退した。
サッカーポルトガル代表
過去6回、サッカーポルトガル代表の試合が行われた。
日付 | 結果 | 試合 | ||
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1. | 1983年 | 1月16日0 - 3 | フランス | 親善試合 |
2. | 1999年 | 3月26日7 - 0 | アゼルバイジャン | UEFA EURO 2000予選 |
3. | 2003年 | 9月 6日0 - 3 | スペイン | 親善試合 |
4. | 2009年10月14日 | 4 - 0 | マルタ | 2010 FIFAワールドカップ予選 |
5. | 2010年 | 9月 3日4 - 4 | キプロス | UEFA EURO 2012予選 |
6. | 2010年 | 2月 6日2 - 3 | エクアドル | 親善試合 |
フェヘール・ミクローシュの死
2004年1月25日、SLベンフィカに所属するフェヘール・ミクローシュの死を目撃する。その日、ヴィトーリアSCとSLベンフィカとのリーグ戦で起こった。試合終了間際に、フェルナンド・アグイアールが挙げた決勝点となる得点をアシストしたが、その際、遅延行為によるイエローカードを受けた。イエローカードを受けた直後、フェヘールはピッチ上に前のめりに身を屈め、そしてピッチ上に仰向けに倒れた。心肺蘇生法が施された後、フェヘールはピッチ内に到着した救急車によって病院へと搬送されたが、同日深夜死亡が確認された[2]。 フェヘールの死後、ギマランイスでの試合の際には、毎回追悼式典を行っている。
脚注
- ^ “Relatorio Final - Avaliacao do impacte economico do Euro 2004” (pdf) (ポルトガル語). 2014年3月9日閲覧。
- ^ “Feher death stuns football” (英語). UEFA (2004年1月26日). 2014年3月9日閲覧。