ウィリアム・パルトニー (初代バース伯爵)
The Right Honourable バース伯爵 PC | |
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1740年代のバース伯爵 | |
戦時大臣 | |
任期 1714年 – 1717年 | |
君主 | ジョージ1世 |
前任者 | フランシス・グウィン |
後任者 | 小ジェームズ・クラッグス |
個人情報 | |
生誕 | ウィリアム・パルトニー 1684年3月22日 イングランド王国、レスターシャー |
死没 | 1764年7月7日 (80歳) |
墓地 | ウェストミンスター寺院 |
政党 | ホイッグ党 |
配偶者 | アンナ・マリア |
子供 | ウィリアム・パルトニー |
出身校 | オックスフォード大学クライスト・チャーチ |
職業 | 政治家 |
内閣 | 短命内閣 |
初代バース伯爵ウィリアム・パルトニー(英語: William Pulteney, 1st Earl of Bath, PC、1684年3月22日 - 1764年7月7日)は、グレートブリテン王国のホイッグ党政治家。1742年に国王ジョージ2世によって初代バース伯爵に叙爵された。イギリスの首相のうち在任期間が最も短い(2日間)人物とされることもあるが、現代の文献の大半はバース伯爵が首相に就任しなかったとしている。
生涯
初期の経歴
レスターシャーのウィリアム・パルトニー(1715年没)と1人目の妻メアリー・フロイド(Mary Floyd)の息子として、1684年3月に生まれた。ウェストミンスター・スクールで教育を受け、1700年10月31日にクライスト・チャーチに入学した。彼は広範な古典文学の知識を獲得、オックスフォード大学を卒業した後は慣習に従って大陸ヨーロッパでのグランドツアーに出た。1705年、ヘンリー・ガイ(元大蔵政務次官)の助けもあってヨークシャーのヘドン選挙区で庶民院議員に当選、以降1734年まで同選挙区の議席を維持した[1]。
パルトニーはアン女王の治世を通して、ホイッグ党の抗争で重要な役割を果たしており、ヘンリー・サシェヴェラルの迫害にも関与した。政争に勝利したトーリー党が1712年にパルトニーの友人ロバート・ウォルポールをロンドン塔に投獄すると、パルトニーは庶民院でウォルポール支持を表明、ほかのホイッグ党指導者とともに獄中のウォルポールと面会した[1]。
閣僚職
パルトニーは1714年から1717年までのタウンゼンド子爵内閣で戦時大臣を務め、1715年4月に設立されたユトレヒト条約に関する秘密会議にも加入した。1716年7月6日には枢密院議員になった。1717年4月にタウンゼンド子爵チャールズ・タウンゼンドがアイルランド総督を罷免され、ウォルポールが辞任すると、パルトニーもそれに従って辞任した。
南海泡沫事件によりウォルポールが首相に返り咲いたが、彼はパルトニーには叙爵しか申し出さず、パルトニーに断られた。パルトニーは結局重要性は低いが実入りの大きい王室会計長官という閑職に落ち着いたが、自身が無視されていることがわかると、ウォルポールによる王室費の債務破棄の提案に反対して1725年4月に罷免された[1]。
愛国ホイッグ党
罷免から最終的に政争に勝利するまで、パルトニーは野党に留まり、ウォルポールが腐敗していて暴政を敷いていると考えた愛国ホイッグ党を形成した。ウォルポールは1730年に和解しようとしてパルトニーに叙爵とタウンゼンドの官職をちらつかせたがはねつけられた。
パルトニーの不満は議会での演説に見られるだけでなく、彼の出版物にも見られた。1726年12月、パルトニーはボリングブルック子爵ヘンリー・シンジョンとともに『ザ・クラフツマン』という定期刊行の新聞を発行、以降長年にわたって政権を痛烈に批判した。ハーヴィー男爵ジョン・ハーヴィーがザ・クラフツマンへの批判を出版すると、パルトニーは時には公開に、時には編集長のニコラス・アマーストを通じて、批判に回答した。議題が王室費、消費税、プリンス・オブ・ウェールズの収入、内政事務のどれであっても、パルトニーは常にパンフレットを用意し、閣僚かその仲間がパルトニーに返答した。
『煽動と中傷が示された』への返答である『最近の中傷的な文書に対する正しい返答』が1731年のザ・クラフツマンで出版されると、パルトニーはハーヴィー男爵から決闘を申し込まれた。さらに『悪名高い中傷に対する返答がザ・クラフツマンの尊敬すべき2人のパトロンに対する意見につながった』(An answer to one part of an infamous libel entitled remarks on the Craftsman's indication of his two honourable patrons)が出版されると、パルトニーは1731年7月に枢密院議員を解任され、いくつかの郡でも治安判事の職を追われた。
パルトニーはウォルポールの政敵のうち、出版物における影響力はボリングブルックより劣ったが、ボリングブルックが議会から排除されたこともあって議会における影響力はパルトニーが勝った。減債基金が1733年にほかの使い道に流用されると、パルトニーがその批判を率い、同年の消費税計画で大衆の感情が最低点に下がると、パルトニーの雄弁が大衆の感情を代弁した。それでもウォルポールは内閣の崩壊を防いだ。またボリングブルックがフランスへ引退したが、パルトニーの示唆があっての引退とされ、野党はこの指導者の不和により勢いが弱まった[1]。
1734年イギリス総選挙から1742年に叙爵されるまで、パルトニーはミドルセックス選挙区で立候補して、当選し続けた。1734年の選挙直後は政権側の論客が攻勢を強めたが、1738年にスペインとの紛争が起きたことでパルトニーは反撃の糸口を掴んだ。ウォルポールは長らく平和を主張したが、閣僚からの支持は弱く、世論は戦争支持で熱狂していた。結局ウォルポールは名声を保つために折れ、世論を受け入れて戦争を決意した。しかし、ウォルポールは失脚を免れることはできなかった。1739年に宣戦布告した後(ジェンキンスの耳の戦争)、1741年イギリス総選挙が行われ、翌年には選挙をめぐる紛争でウォルポール内閣が崩壊した[1]。
組閣はいくらかの遅延の後パルトニーに任せられ、彼は第一大蔵卿(首相)にウィルミントン伯爵スペンサー・コンプトンを選び、自身は叙爵と閣議に出席するのみで入閣はしなかった。その意図は内閣の主導権を握ることだったが、逆に人気を失い、影響力も無に帰した[1]。
ウォルポールの息子ホレス・ウォルポールによると、パルトニーは叙爵を辞退しようとしたが、ジョージ2世から叙爵を強制されたという。また同時代の編年史家の記録によると、ウォルポールとパルトニーがそれぞれオーフォード伯爵とバース伯爵として貴族院に登院すると、ウォルポールは「イングランドで最も取るに足らない2人が集まっていますね」と感想を述べた。1742年2月20日に枢密院議員に復帰した後、パルトニーは同年7月14日にヘイドンのパルトニー男爵、リングトンのパルトニー子爵、バース伯爵に叙された。1743年にウィルミントン伯が死去すると、バース伯はジョージ2世に首相職の就任を申し込んだが、首相職はすでにヘンリー・ペラムに内定していた[1]。
首相職
1746年2月10日、ペラム内閣が総辞職した。ジョージ2世はパルトニーに組閣の大命を下し、パルトニーもそれを受け入れて早速閣僚の指名を開始したが、彼には組閣に必要な支持が足りず、「48時間、3つの四半時間、7分、11秒」後に組閣を諦めた。結局ジョージ2世はやむを得ずペラムの要求を受け入れて彼を復帰させた。当時は首相職が正式な役職としては存在しないため、パルトニーが2日間首相に在職したかどうかには異説がある。
パルトニーは組閣に失敗したことで多くの揶揄を受けた。例えば、ホレス・ウォルポールは手紙で「グランヴィルとバースは貸馬車の車長が同席するパートナーを探す時と同じように、『仲間はずれの者』と呼びながら街中を歩いたところを見られた」と記している[2]。また同時代のパンフレットでは「全ての内閣の中で最も賢く誠実であり、首相が[...]軽率な行動を一つもせず、更に素晴らしいことに、国庫にあったお金を同額のまま残した」と諧謔的に称えてみせた。
死去と遺産
その後も時々パンフレットを出したり、偶に演説をしたりしたが、頻度は以前と比べて下がっていた。彼の賛美歌は主教のザカリー・ピアースとトマス・ニュートンが歌った。死後、1764年7月17日にウェストミンスター寺院のイスリップ礼拝堂(Islip chapel)で埋葬され、彫刻家のジョセフ・ウィルトンが記念碑を作った。
商業には興味を持ったことはなく、パルトニーはその弱点を補っていた友人ジョン・メリル(John Merrill)を信頼したが、1734年にメリルが死去、パルトニーはジョナサン・スウィフトへの手紙でそれを嘆いた。
米国バーモント州ポルトニーとポルトニー川はパルトニーに因んで名付けられた[3]。
家族
1714年12月27日、アイズルワースのジョン・ガムリー(John Gumley)の娘で推定相続人の1人であるアンナ・マリア(Anna Maria)と結婚した。ガムリーは兵站部の将校だったが、当時は度々皮肉の標的にされた[4]。アンナ・マリアは1758年9月14日に死去、1人息子のウィリアム・パルトニーも未婚のまま1763年2月12日にマドリードで死去した。パルトニーの莫大な遺産は従兄弟のダニエル・パルトニー(同じく野党の一員だった)の末娘で相続人の1人、並びにウィリアム・ジョンストーンの妻であるフランシス(Frances)が相続した。
脚注
- ^ a b c d e f g Chisholm 1911.
- ^ Walpole, Horace (1746-02-14) (英語), Letter to Sir Horace Mann
- ^ Room, Adrian (1989). Dictionary of World Place Names derived from British Names. Taylor & Francis. p. 144. ISBN 0-415-02811-6
- ^ Notes and Queries, 3rd S. iI. 40 2-403, ~ 490).
参考文献
- この記事にはアメリカ合衆国内で著作権が消滅した次の百科事典本文を含む: Chisholm, Hugh, ed. (1911). "Bath, William Pulteney, Marquess of". Encyclopædia Britannica (英語). Vol. 3 (11th ed.). Cambridge University Press.
外部リンク
- William Pulteney at the Eighteenth-Century Poetry Archive (ECPA)
- William Pulteney, 1st Earl of Bathに関連する著作物 - インターネットアーカイブ
- ウィリアム・パルトニーの著作 - LibriVox(パブリックドメインオーディオブック)
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庶民院議員(ヘドン選挙区選出) 1705年 - 1707年 同職:アンソニー・ダンコンブ |
次代 グレートブリテン議会 |
グレートブリテン議会 | ||
先代 イングランド議会 |
庶民院議員(ヘドン選挙区選出) 1707年 - 1734年 同職:アンソニー・ダンコンブ 1707年 - 1708年 ヒュー・コルムリー 1708年 - 1721年 ダニエル・パルトニー 1721年 - 1722年 ハリー・パルトニー 1722年 - 1734年 |
次代 ジョージ・バークレー サー・フランシス・ボイントン |
先代 ジェームズ・バーティ フランシス・チャイルド |
庶民院議員(ミドルセックス選挙区選出) 1734年 - 1742年 同職:フランシス・チャイルド 1734年 - 1740年 ヒュー・スミソン 1740年 - 1742年 |
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