Template‐ノート:独自研究/過去ログ1

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過去の関連する議論、Wikipedia:削除依頼/Template:独自の研究 を踏まえ、濫用を防ぐ意味も含めて「コメントを添えず、単なるレッテル付けの目的で使うことは望ましくありません。」という文章を入れました。--スのG 2007年2月19日 (月) 07:17 (UTC)


告知依頼、大きな異論がついていないことから発効といたしました。なお、

  • 本テンプレートの名称
  • 文面
  • 埋め込むカテゴリ

についてはまだ流動的ですが、Wikipedia:独自の調査Wikipedia:Attribution の文面が落ち着き次第、そちらへ合わせた形に修正するのが良いかと思っております。--スのG 2007年3月3日 (土) 09:33 (UTC)

Wikipedia:独自の調査 → Wikipedia:独自研究は載せない への項目移動に対応していただきました。--スのG 2007年4月24日 (火) 02:13 (UTC)

単純な疑問[編集]

使い方を誤りたくないのであえてお聞きしますが、テンプレート内にある「ある情報の根拠だけではなく、解釈、評価、分析、総合の根拠となる出典を示してください。」の「総合」とは「総合的に鑑みて根拠を裏付けとなりえるもの」という捉え方でよろしいのでしょうか? --ライアン 2007年5月3日 (木) 06:09 (UTC)

別の意味であると思います。「合成」と呼んだほうがわかりやすいかもしれません。WP:NOR方針でも「合成」「総合」の2種類の訳語が用いられていますが、もともと synthesis[1] という英単語から出てきた訳語です。たとえば、「AはBである」「BはCである」という2つの情報があった場合、それらを組み合わせて「AはCである」と述べることを指しています。厳密に前2者の前提条件が合致して論理的に後者の結論が合成されているのであればよいのですが、えてしてこれらの条件を異なる環境下に適用した「合成」が行われることがあるため、このような文言が付されています。詳細はWikipedia:独自研究は載せない#特定の観点を推進するような、発表済みの情報の合成をご覧ください。--Masao 2007年5月3日 (木) 06:23 (UTC)
Masaoさん、早々の回答と丁寧なご説明、ありがとうございました。「合成」という言葉を見て「なるほど」と合点が行きました。「単純に情報を合成させただけの推論ではないこと」、昔からの日本語流で簡単に言えば「当てずっぽではないこと」というのが1番近いですかね。だとすると「総合」という言葉は、どうもピンとこないなぁ・・・(私だけかな?)。--ライアン 2007年5月3日 (木) 07:06 (UTC)

解説部分についての提案2件[編集]

  • Template:独自研究Sの存在があまり知られていないようです。このTemplate:独自研究の使われている記事をいくつか見たのですが、節につけられている場合非常に重たい感じがします。(実は私自身も「S」の存在に気づいていませんでした)もっと「S」の使用を進めるために、もっと上のほうで「S」をPRしてはどうでしょうか。
  • このテンプレートの貼られている記事をいくつか見たところ、「独自研究」以前に参考文献・外部リンクなどの「出典の明示」のない記事が目に付きます。すでに「独自研究」タグと「出典の明示」「出典の明記」タグの両方が貼られている記事もいくつかありましたし、私もいくつか「出典の明示」「出典の明記」を貼りましたが、そもそも「出典の明示」「出典の明記」タグに該当する記事に「独自研究」タグを貼るのは間違いだと思います。「独自研究」タグは一応出典は記載されているが、組み合わせ方が独自の研究に該当するものに限定し、出典の記載の無いものは(独自研究の可能性があっても)まず「出典の明示」「出典の明記」タグを貼るということにして、使い方にその旨記載することを提案します。(もっともテンプレートを貼る人が使い方を読むという保証はありませんが)Penpen 2007年5月20日 (日) 13:25 (UTC)
    • (コメント)論点が混沌として見えるので整理させてください。Penpenさんのおっしゃることには、(1)「S」の周知の問題 (2-1) 出典がない状態で「独自研究」テンプレートを貼ることの是非 (2-2) さらに「出典の明記」テンプレートと「独自研究」テンプレートを併用することの是非、という3つの議題が含まれているということでよろしいでしょうか? 節をお分けいただければ議論の見通しがよくなると思います。また、(2-1)(2-2)は運用面と方針文の解釈を含むお話のようですので Wikipedia:独自研究は載せない へ持って行って広くコメントを募り、合意が得られたところで本テンプレートの解説文に反映させる、という手順を踏むほうがよいように思われます。--スのG 2007年5月21日 (月) 05:35 (UTC)
2007年5月20日の投稿でタグ名を間違ってたので訂正しました。(誤)出典の明示→(正)出典の明記Penpen 2007年6月22日 (金) 00:29 (UTC)

テンプレート「未検証」「出典の明記」「独自研究」の使い分けの統一の提案[編集]

template:unreferencedを分割してtemplate:未検証template:出典の明記template:独自研究が作られましたが、 同じ記事に複数のタグがはられている場合もあり、使う人によって使う基準が違うようです。 私は、この3つのタグは状況によってその1つを使うべきだと思うのですが、そう考えない方も多いようです。 そこで、ある程度意見のすりあわせをはかり、合意の見られた点について Template:Unreferenced/テンプレート「未検証」「出典の明記」「独自研究」の使い分けとして 3つのテンプレートの使い方の説明にテンプレート呼び出しまたはリンクする形にしたいと思います。 議論はTemplate‐ノート:Unreferenced/テンプレート「未検証」「出典の明記」「独自研究」の使い分けPenpen 2007年6月22日 (金) 22:39 (UTC)

この記事は ではなく 下記の記事は とすべし[編集]

「独自研究:この記事や節の内容は~~」と始まるテンプレートは「このテンプレートについて」を参照すれば、本文や節の頭に使うとされる。 しかし、頭に置くとすれば、「独自研究:下記の記事や節」と「この」を「下記の」に改めたほうが文脈として掌握がし易いと思われ、変更を願いたい。 「この記事」では上記だか下記だか判明しない。 (今更既出を考慮すると変更は困難か)--60.238.161.115 2007年8月6日 (月) 18:19 (UTC)

どちらでも良いかと思います。盆明けぐらいまで反対がなければ修正していただいてかまいません。--スのG 2007年8月6日 (月) 23:38 (UTC)

「虞」について[編集]

テンプレートの文中の「恐れ」が「虞」に修正されましたが、「虞」は当用漢字常用漢字に含まれるとはいえ当用漢字補正案で当用漢字から削除される予定の漢字だったこともあって新聞などでも用いず、現在は「おそれ」とひらがなで書くのが一般的です。それで「虞」を「おそれ」に修正しましたが、早速revertした方がいらっしゃいました。こんなので編集合戦になるのもいやなので再度修正はせず、ノートのほうに書いてこれからの議論を待ちたいと思いますが、以上のことをご了承くださるようお願いします。--Haruno Akiha / Talk / History 2007年8月25日 (土) 13:22 (UTC)

初めに「恐れ」を「虞」に修正した者です。仰るとおり「虞」は新聞日本新聞協会など)やテレビNHKなど)でも使われず、仮名書きになっています。しかし、Wikipedia:表記ガイド読み仮名の要否には「常用漢字表に音訓があるものは読み仮名は不要です。」とあり、読み仮名すら不要であるものを仮名書きする必要はないと考えます。そもそも中学校学習指導要領の国語に第3学年で「第2学年までに学習した常用漢字に加え、その他の常用漢字の大体を読むこと。」とされており常用漢字である以上、義務教育で学びます。(国語の教科書の本文で掲出しなくても巻末などに必ず載っています。)--Ktoetx 2007年9月3日 (月) 23:41 (UTC)撤回部分を取り消し線で示しました。--Ktoetx 2007年9月7日 (金) 02:04 (UTC)
義務教育で習うのだから読めて当然、読めないほうが悪い、と言われればそれまでですが・・・新聞やテレビなど実生活でほとんど使用されていない文字を使用して、わからなかったら辞書で引けというよりは、テンプレートという目的を考えれば、できるだけ一目見てわかりやすい方が良いと思います。「虞」って小さいフォントだと潰れて判別できないんですよね。--Dr.Jimmy 2007年9月4日 (火) 00:59 (UTC)
テンプレートとはいえ、記事の中で使うことには変わりありません。分かりやすいに越したことはないとはいえ、「虞」を仮名書きにするのであれば「脹」や「濫」、「璽」などは使用頻度が高くないけれどもどうするのか、という問題が起きてしまいます。現行のWikipedia:表記ガイドでは常用漢字表の音訓か否かが、読み仮名を付けるか付けないかのおおまかな目安になっています。Wikipedia:表記ガイドに「虞」「脹」「濫」「璽」などを特別扱いする記述がない以上、仮名書きする必要はないと改めて主張します。蛇足ですが、「璽」など常用漢字でも環境により潰れて表示される文字はほかにもあります。--Ktoetx 2007年9月4日 (火) 02:37 (UTC)
Wikipedia:表記ガイドはあくまでも目安ですし、そもそも常用漢字表も目安です。別に記事本文中に使用すべきではないと言っているのではなく、あくまでもテンプレートは、ぱっと見で誰にでもわかりやすくしたほうが良く、日常生活ではまず使用しない漢字をわざわざ使うこともないだろう、と考えます。--Dr.Jimmy 2007年9月4日 (火) 08:23 (UTC)
Wikipedia:表記ガイドは…、そもそも常用漢字表も目安です。」という独自のご意見に関するコメントですが、Wikipedia:スタイルマニュアル#日本語に「漢字の字体が複数ある場合には常用漢字表にある字体のものを使うのを原則とします(固有名詞、歴史的文書の引用などでは、原文にあわせて用います)。」とありますので漢字を使う場合は固有名詞や歴史的文書の引用部分以外では目安ではなく常用漢字表にある字体が原則です。なので「漢字」を使うか「かな」を使うかという議論です。漢字ならば常用漢字表書体ということになります。--あら金 2007年9月4日 (火) 14:16 (UTC)
そもそも「字体が複数ある場合にどの字体を使うか」なんて議論は少しもしておらず、最初から「漢字で書くか、かな書きで書くか」の議論しかしていないのだが。常用漢字っていうのは、当用漢字と異なり「分かりやすく通じやすい文章を書き表すための漢字使用の目安」であるってのは、事実なんですけどね。まったくこの人は何でもかんでも私の言う事は全て「独自のご意見」にしたがるらしい。しかもそれが見当違いなもんだから余計始末におえない。--Dr.Jimmy 2007年9月6日 (木) 00:33 (UTC)
話を戻しますが、「記事本文中に使用すべきではないと言っているのではなく、あくまでもテンプレートは、ぱっと見で誰にでもわかりやすくしたほうが良く」とおっしゃいましたが、なぜ記事本文中で使用していいものが、テンプレートではだめなのでしょうか。前にも書きましたが、テンプレートは記事(記事に限らずどのページでもですが)の中で使うものです。(Help:テンプレートに「この仕組みを使って他のページに呼び出されているページ」(下線は原文にはありません。)とあります。)テンプレートであろうがなかろうがこの件では関係ないと考えます。--Ktoetx 2007年9月6日 (木) 02:16 (UTC)

(インデント戻します)

漢字の「虞」を使うことによって生じるデメリットは以下のとおりである。

  • 読みづらい。
  • あまり使われない漢字なので、読めない人がいる可能性がある。
  • 環境によっては字体が潰れて読めないおそれがある。

それでも漢字の「虞」を使うべきと主張する方がいらっしゃるようですが、 もし「おそれ」とひらがなで書くとどのようなデメリットがあるのでしょうか。--125.174.200.152 2007年9月5日 (水) 20:45 (UTC)

デメリットは人や環境によって十人十色であるので列挙するのは無意味ではないですかね。環境によって潰れるなら他の画数の多い漢字も潰れるだろうし、そうなったらフォントサイズを大きくするよう自分の環境を設定すればいいだけだが。--Seseragi 2007年9月5日 (水) 22:25 (UTC)
私からもコメントします。
  • 読みづらい。
主観の問題であるうえに、「読みづらい」理由が分からない。
  • あまり使われない漢字なので、読めない人がいる可能性がある。
「あまり使われない漢字」である根拠が分からない。義務教育で習うのに「読めない人がいる」とは考えにくい。(もちろん「可能性」までは否定しません)
  • 環境によっては字体が潰れて読めないおそれがある。
「虞」に限った問題ではないし、Seseragi氏が仰るとおり設定すれば済むことである。
「おそれ」と平仮名で書いた場合のデメリットの一つとしては、「恐れを抱く」の「恐れ」と「大雨の虞」の「虞」が区別できなくなってしまう可能性があることが挙げられます。もちろん、「恐れ」は漢字で「虞」は仮名書きに揃えれば区別できないこともありませんが、どちらも仮名書きにする場合もあるため(法令など)「恐れ」「虞」と漢字で書き分ける方がよいと考えます。--Ktoetx 2007年9月6日 (木) 02:16 (UTC)
では、私からも再反論を。
>> 義務教育で習う。
習いません。学習指導要領で求められているのは「常用漢字の大体が読めること」であって、「常用漢字全部が読めること」ではありません。
>> 設定すれば済む。
それ以前にひらがなで書けば済みます。
>> ひらがなで書くと区別できなくなる可能性がある。
「独自研究のおそれ」という文脈から、区別できなくなるはずがありません。
>> 法令などで仮名書きにする場合もある。
仮名書きにする場合しかありません。昭和56年の法令用語改正要領で「虞」という漢字はすべてひらがなで書くように求められています。--125.174.200.152 2007年9月6日 (木) 03:41 (UTC)
再びコメントします。
  • 義務教育で習う。」について。125.174.200.152氏は「常用漢字の大体が読めること」が学習指導要領で求められているとおっしゃいましたが、これは正確ではありません。学習指導要領では中学校第3学年で「第2学年までに学習した常用漢字に加えその他の常用漢字の大体を読むこと。」とされています。詳しくみていくと下のようになります。
  • 第1学年では「小学校学習指導要領第2章第1節国語の学年別漢字配当表(以下「学年別漢字配当表」という。)に示されている漢字に加え、その他の常用漢字のうち250字程度から300字程度までの漢字を読むこと。」とされており、常用漢字1945字のうち1256字程度から1306字程度まで(学年別漢字配当表に示されている漢字1006字と「250字程度から300字程度」をあわせて)の漢字を読むことになります。
  • 第2学年では「第1学年までに学習した常用漢字に加え、その他の常用漢字のうち300字程度から350字程度までの漢字を読むこと。」とされており、常用漢字1945字のうち1556字程度から1656字程度までの漢字を読むことになります。
  • 第3学年では「第2学年までに学習した常用漢字に加え、その他の常用漢字の大体を読むこと。」とされており、第2学年で習った1556字程度から1656字程度までの漢字と第2学年で習わなかった残りの常用漢字289字程度から389字程度までの漢字の大体を読むことになります。
ここで問題になるのが「第2学年までに学習した常用漢字に加え、その他の常用漢字の大体を読むこと。」すなわち、「289字程度から389字程度までの漢字の大体」の中に「虞」が含まれるかどうかです。125.174.200.152氏は「習いません。」と反論しましたが、実際には「習うかもしれないし、習わないかもしれない」が適切です。実際に使用されている教科書で判断すると光村図書出版の平成十六年度検定済みの「国語 1」(平成十八年度実際に中学1年生の国語科で使用されていたもの)をみると、巻末付録「常用漢字表」に「虞」は②とあり、中学2年生で学習することを示しています。なお、◎で示されている「乙」「且」「嚇」などは「用法の限られた漢字」として「この教科書では新出漢字としてあつかっていない」と、学習しないことになっている。すなわち、光村図書出版(国語科での採択率が高いといわれる。高いことを私が断言するものではありません。また、私は採択率に関する客観的な資料を持っていません。)では「虞」を「用法の限られた漢字」ではないとしています。
また、東京書籍の平成十六年度検定済み「新編 新しい国語 3」(平成十九年度実際に中学3年生の国語科で使用されているもの)をみると、「姻」や「翁」などは巻末「資料編」に「本文で提出しなかった漢字」に掲げられ、学習しないことになっていますが、「虞」は45ページで新出漢字として示されています
学校図書の平成十六年度検定済み「中学校国語 1」(平成十九年度実際に中学1年生の国語科で使用されているもの)をみると、巻末の付録「常用漢字表」に「虞」は③とあり、中学3年生で学習することを示しています。ちなみに学校図書は「中学校で学ぶ漢字939字をすべて新出漢字として提出しました。」(漢字Q&Aより。下線は原文にはない。)と、常用漢字すべてを中学校で学習するとし(学年別漢字配当表1006字と合わせれば計1945字になる)、そのすべてを提出しています。
以上のことから、「虞」を習わないと断定するのは正しくないと考えます。なお、私は以前「中学校学習指導要領の国語に第3学年で『第2学年までに学習した常用漢字に加え、その他の常用漢字の大体を読むこと。』とされており常用漢字である以上、義務教育で学びます。(国語の教科書の本文で掲出しなくても巻末などに必ず載っています。)」とコメントしました。この部分は事実誤認であり、この部分は撤回いたします。
  • 設定すれば済む。」については既にSeseragi氏がコメントされていますので現時点では私からコメントいたしません。
  • ひらがなで書くと区別できなくなる可能性がある。」について。125.174.200.152氏は「『独自研究のおそれ』という文脈から、区別できなくなるはずがありません。」としましたが、率直に申し上げますと「それ以前に漢字で書けば済みます。」といったところです。「文脈から」ということは「前後の文を読まないと」区別できないということでよろしいでしょうか。仮にそういうことならば「単語だけ」では理解できない仮名書きより「虞」と漢字一文字を読むだけで意味の分かる漢字がよいと考えます
  • 法令などで仮名書きにする場合もある。」について。125.174.200.152氏は「仮名書きにする場合しかありません。昭和56年の法令用語改正要領で「虞」という漢字はすべてひらがなで書くように求められています。」とされておりますが、125.174.200.152氏がコメントする1時間25分前に既に私は、「どちらも仮名書きにする場合もあるため(法令など)」とコメントしました。この件について「法令などで仮名書きにする場合もある。」と要約されたのだと思いますが、仮にこの件について反論されているのであれば、私がコメントで伝えたかったこととずれてしまっているように感じます。私のコメントでは「どちらも仮名書きにする場合」の一例として「法令」を挙げ、「法令」のほかにもあるだろう、ということで「法令など」としました。また、「法令用語改正要領」を持ち出していらっしゃいますが、既に法令用語改正要領は名前こそ挙げていないものの私のコメントの中でリンクしています
以上、125.174.200.152氏の「再反論」に対するコメントです。--Ktoetx 2007年9月6日 (木) 12:17 (UTC)
>> 「文脈から」ということは「前後の文を読まないと」区別できないということでよろしいでしょうか?
まさしくその通りです。前後の文を読まないと「虞」か「恐れ」かは区別することができません。(もっとも前後の文を読まなければ、そもそも文意が理解できません。テンプレートの「虞」の部分だけ読んで、前後の文を読まない者がいるるわけがないので、その仮定は無意味と思われます。)
論点を整理しますが、「虞」という文字の読み方は、義務教育で必ずしも習うとは限らないという点、「虞」という漢字は新聞・NHK・法令・公用文では現在新たには用いられないという点の2点については争いがないということでよろしいですね?--122.25.83.130 2007年9月6日 (木) 22:08 (UTC)
はい。仰るとおりです。「義務教育で必ずしも習うとは限らない」と「新聞・NHK・法令・公用文では現在新たには用いられない」という2点はどちらも事実です。事実は争えませんので。--Ktoetx 2007年9月7日 (金) 02:04 (UTC)

>>それ以前にひらがなで書けば済みます。・・・まさかWikipedia内の潰れる文字すべてをひらがなにするんですか!?--Seseragi 2007年9月6日 (木) 04:19 (UTC)

あまり使われない(≒読みづらい、読めない人がいる)の根拠として、以下を挙げます。
  • 新聞やNHKでは、「恐れ」と「虞」を区別し、「虞」は仮名書きで書くことになっている。
  • 法令、国や地方自治体の公文書では、「虞」「恐れ」両方とも仮名書きで書くことになっている。
  • 文化庁が辞典や書籍雑誌などを調査して1985年に「『ことば』シリーズ23」で以下のように結論付けている
「『虞』は現在も常用漢字表に掲げられているが、一般には使われないので避けた方が無難であろう。また『恐れ』と書いても差し支えはないけれども、現代では『おそれ』と仮名書きにするのが、最も一般的な書き方であろうと思われる。ただ、(恐怖心を抱くの意味で)『恐れ』を使うのはもちろんである。」
また、常用漢字表はその目的と性格から言っても、表内漢字だからといって積極的に使用すべきという理由付けにはなりません。
以上の理由から、一般的に使用される頻度の極めて少ない字を、わざわざ使用する必要はないと考えます。
あと、「フォントが潰れる」というのは、私の独り言が一人歩きしている感がありますが、私は、それを根拠にして、仮名書きを推奨・賛成しているつもりはありませんので、他にそれを根拠に主張される方がいなければ、無視して下さい。--Dr.Jimmy 2007年9月6日 (木) 04:28 (UTC)
コメントします。
  • 「新聞やNHKでは、『恐れ』と『虞』を区別し、『虞』は仮名書きで書くことになっている。」とおっしゃいましたが、今日(2007年9月6日)の朝刊(朝日新聞社会面、日本経済新聞社会面、ともに日本新聞協会会員社)および夕刊(朝日新聞一面)について、「恐れ」が「虞」の意味で使われているのを確認しました。「虞」と漢字で表記していないのだから、根拠として問題ないのかもしれませんが(これは私が根拠として問題ないと考えていることを示すものではありません。詳しくは後述します。)、大手の新聞社(朝日新聞、日本経済新聞を「大手の新聞社」としたのは、朝日新聞は大衆紙として812万部、日本経済新聞は経済紙として304万4000部を発行していることに基づくものです。)なので事実かどうかきちんと確認してほしいと思います。(Wikipedia:検証可能性も参照のこと。)
    また、仮に「新聞やNHKでは、『恐れ』と『虞』を区別し、『虞』は仮名書きで書くことになっている。」として(なお、私はNHKが「『恐れ』と『虞』を区別し、『虞』は仮名書きで書くことになっている。」かどうかを確認していません。よって、NHKが「『恐れ』と『虞』を区別し、『虞』は仮名書きで書くことになっている。」ということが事実だとしてもそれを否定するものではありません。)、それがどうして「あまり使われない(≒読みづらい、読めない人がいる)の根拠」になるのか理由が分かりません「あまり使われない(≒読みづらい、読めない人がいる)の根拠」にはならないと考えます。
  • 「法令、国や地方自治体の公文書では、「虞」「恐れ」両方とも仮名書きで書くことになっている。」について。「法令、国や地方自治体の公文書」を根拠にされましたが、「法令、国や地方自治体の公文書」自体が特定の職種(「法令」は法曹関係の職業の方、「国や地方自治体の公文書」は公務員の方、など)以外の人では「あまり使われない」ものだと考えます。(「特定の職種」を「『法令』は法曹関係の職業の方、『国や地方自治体の公文書』は公務員の方」に限定するわけではありません。また「『法令』は法曹関係の職業の方、『国や地方自治体の公文書』は公務員の方」が必ずしも「『あまり使われない』方に入らない」ことを示すものではありません。)よって、少なくとも一般の方(前述の「特定の職種」の方が「一般の方」でないことを示すものではありません。)に対するものとしては根拠にならないと考えます。
  • 「文化庁が辞典や書籍雑誌などを調査して1985年に「『ことば』シリーズ23」で以下のように結論付けている」について。1981年に常用漢字表が告示されてから4年後のことです。常用漢字表は「一般の社会生活において、現代の国語を書き表す場合の漢字使用の目安」(下線は原文にはない)を示しています。たった4年で「一般には使われない」状態になるとは考えにくいと思います。私は「『ことば』シリーズ23」について知りませんので、誤りがあるかもしれませんが、「辞典や書籍雑誌などを調査」してなぜ「一般には使われない」ことが分かるのでしょうか。「書籍雑誌(など)」はいいとして、「辞典」からは「一般には使われない」ことは分からないと思います。(もちろん、絶対に分からないと決めつける意図はありません。)それ以前の問題として、22年も前の資料は既に古くなり、根拠としては不適切だと考えます。
  • 「常用漢字表はその目的と性格から言っても、表内漢字だからといって積極的に使用すべきという理由付けにはなりません。」とおっしゃいましたが、「表内漢字だからといって積極的に使用すべきという理由付けに」ならない理由を示してください。ちなみに、常用漢字表は「一般の社会生活において、現代の国語を書き表す場合の漢字使用の目安」です。
  • 「『フォントが潰れる』というのは、私の独り言が一人歩きしている感がありますが、私は、それを根拠にして、仮名書きを推奨・賛成しているつもりはありませんので、他にそれを根拠に主張される方がいなければ、無視して下さい。」について。これについては125.174.200.152氏が「独り言」についてコメントされていますが、私は「他にそれを根拠に主張される方がいなければ」についてコメントします。「私は、それを根拠にして、仮名書きを推奨・賛成しているつもりはありません」としておきながら、「他に」というのはどういうことでしょうか。私はこの「他に」を「私(Dr.Jimmy氏)の他に」と解釈しましたが、これでは矛盾してしまいます。説明してほしいと私は思います。ちなみに、「それを根拠に主張される方」としては、私は125.174.200.152氏が挙げられると思います。(断定するわけではありません。理由は後述のとおり。)125.174.200.152氏は「漢字の『虞』を使うことによって生じるデメリット」として「環境によっては字体が潰れて読めないおそれがある。」を挙げました。(断定しない理由としては、「環境によっては字体が潰れて読めないおそれがある。」はあくまでも「漢字の『虞』を使うことによって生じるデメリット」として挙げられたもので、根拠であると断言できないことが挙げられます。)
以上、Dr.Jimmy氏のこのコメントに対する私のコメントです。--Ktoetx 2007年9月6日 (木) 12:17 (UTC)
「ここを直したら他の記事をどうするか」は他で議論すりゃいい話です。虜と虞という似たような漢字もあるし、誤解を招くおそれもあるので、テンプレート上はひらがなの方がいいです。「どくじけんきゅうのとりこ」と読んだ事ある人より。--パンチョ後藤 2007年9月6日 (木) 05:55 (UTC)
コメントします。
  • 「『ここを直したら他の記事をどうするか』は他で議論すりゃいい話」とおっしゃいました。これについて私は反対しません。その場合はWikipedia‐ノート:表記ガイドなどで議論することになると思います。
  • 「虜と虞という似たような漢字もあるし、誤解を招くおそれもあるので、テンプレート上はひらがなの方がいい」とおっしゃいましたが、これについてコメントします。
  • 「虜と虞という似たような漢字もある」とおっしゃいましたが、「虜」と「虞」が「似たような」漢字であるというのは主観の問題だと考えます。(もちろん、環境にもよるでしょう。)少なくとも私の主観では「虜」と「虞」は「似たような」漢字ではありません。「虞」・「膚」・「慮」・「虜」などを例にします。これらの漢字は「虍」を含み(必ずしも「虍」が部首ではない)、見た目が違うのは下の部分だけです。これも私の主観になりますが、「下の部分が明らかに違う」ので「似たような」漢字ではないと思います。くどいようですが、これは私の主観です。と同時に、「虜と虞という似たような漢字もある」という主観を理由にするのは適切でないと考えます。
  • 「誤解を招くおそれもある」とおっしゃいましたが、「『独自研究」にとどまっている虞」という文言をどのように誤解するのでしょうか。「読めない」のではなく、「誤解を招く」ということですので、こちらとしても詳しく知りたいと思っています。
  • 「テンプレート上はひらがなの方がいい」とおっしゃいましたが、「テンプレート上は」という文言にはどのような意味があるのでしょうか。仮に「テンプレート上は」という文言が「テンプレートに限り」という意味だとします。その場合は以前にもコメントしましたが、なぜ記事本文中(ほかのページなどでも)で使用していいものが、テンプレートではだめなのでしょうか。テンプレートは記事(記事に限らずどのページでもですが)の中で使うものです。(Help:テンプレートに「この仕組みを使って他のページに呼び出されているページ」(下線は原文にはありません。)とあります。)テンプレートでかどうかは少なくともこの件では関係ないと考えます。
以上、パンチョ後藤氏のこのコメントに対する私のコメントです。--Ktoetx 2007年9月6日 (木) 12:17 (UTC)
新聞については日本新聞協会用語懇談会が「虞は使用しない」と明確に取り決めています。[2]
ですが、虞だろうがおそれだろうが私はどっちでもいいんです。虞を否定するつもりもないし、虞でなくてはならない理由もない。どちらか選べと言われたらおそれの方がわかりやすくていい、という主観を述べたに過ぎないので。「誤解を招く」のは私が実際にそう読んだ体験談から。「テンプレート上は」と書いたのはここがテンプレート:独自研究のノートだからです。
Ktoetx氏の演説を聞いていると解決させる気があるのか疑問に感じます。別に相手を必ず説得・納得させなければならないわけではないでしょう。議論しても平行線なら投票してどっちにするか決めましょうよ。--パンチョ後藤 2007年9月6日 (木) 14:01 (UTC)
仰るとおり私の態度は不適切だったかもしれません。例えば、Dr.Jimmy氏の「他に」などに対し揚げ足を取っていたかもしれません。また、122.25.83.130氏に対してのコメントで義務教育の説明を冗長にするなど、私に問題があったところもあるだろうと思います。その点について気を悪くされているのであれば、この場をもってお詫びいたします。
なお、私は「解決」を「合意を得る」ことだと考えております。投票についてですが、「合意を得る助け」(Wikipedia:ウィキペディアは何でないか公式な方針より)として行うのも悪くないとは思います。ただ、投票結果はあくまでも「合意を得る助け」であり、投票結果から「どっちにするか決め」ることはできません。(「多数決で決まるわけではありません。」Wikipedia:ウィキペディアは何でないかより))--Ktoetx 2007年9月7日 (金) 02:04 (UTC)
Seseragi殿、ここは「Template:独自研究」のためのノートページです。「wikipedia内の潰れる文字すべて」についての議論を行う場所ではありません。。--125.174.200.152 2007年9月6日 (木) 07:11 (UTC)
Dr.Jimmy殿、ノートページで「独り言」は止めていただきたい。--125.174.200.152 2007年9月6日 (木) 07:19 (UTC)

まぁまぁそんなに熱くならずに・・・。125.174.200.152さんの言いたいことはよく分かります。ひらがなでも別に反対はしませんよ。最近は若年層の利用者もちらほらいらっしゃるようなのでひらがなにした方がいいのかもしれませんね。--Seseragi 2007年9月6日 (木) 08:16 (UTC)

Ktoetxさんへのお返事です。"*"で始まる各段落は、Ktoetxさんの文の段落と対応していると考えて下さい。

  • NHKの対応とは異なり新聞では「虞」は「恐れ」へと書き換えを行っているということですね。正確性を書いた部分に関しては訂正させていただきます。しかしながら、Ktoetxさんも言われている通り、「虞」という字が使われないことには変わりはなく、論旨には影響ないと考えます。いずれにしろ、大手メディアで使用していないのだから「あまり使われない」根拠としては十分でしょう。また、常用漢字表内だけれども使われない漢字よりも、表外でもメディアで使われる漢字の方がより多くの人が読めると思います。
  • 常用漢字は国が定めておきながら、国が自ら使用していない、ということです。「あまり使われない」根拠であるとともに「表内漢字だからといって使う必要は無い」根拠にもなりえます。また、上の新聞・NHKの事例と併せて、正確性が要求される法令・公文書・新聞・TV報道の分野で、既にひらがな表記、または「恐れ」への書き換えが定着しており、しかもそれにより何ら不都合が生じていないということの根拠にもなります。
  • 「虞」という字が当用漢字時代末期から既に使われていなかったということでしょう(ご存知とは思いますがギリギリまで削除対象でした)。22年前の資料は根拠にならないとする正当な理由もありません。当時と今とを比べて、「虞」の文字の使用を取り巻く環境について何か大きな変化でもありましたか? 古いから当てにならない、というのでしたら、もっと新しくてKtoetxさんの主張を裏付けるような資料を提示していただかないと。
  • Ktoetxさんの示してくれたリンク先にも「この表の運用に当たつては,個々の事情に応じて適切な考慮を加える余地のあるものである」と書いてあります。そして現に新聞・NHK・国や地方自治体では「使用しない」と決めています。常用漢字制定の趣旨からしても、実際の運用面を見ても、表内漢字を使用すべき(あるいは表外漢字を使用しないべき)とするものではないことがわかります。
  • フォントの件については、125.174.200.152氏個人はデメリットには感じていないにもかかわらず、私のコメントだけを根拠にしてデメリットに挙げたのなら、それは無視してもらいたい、という主旨です。

投票というのも一つの案ではありますが、現状では漢字で書くべきと主張されているのはKtoetxさんしかおらず、また漢字で書くメリット、ひらがなで書いた時のデメリット、いずれも説得力が薄いです。「虞」という字が常用漢字表内にあることは問う全の前提として、その上で大手マスメディアでは使わないと決められ、実社会生活上でもほとんど使われておらず、またそれにより何の不都合も生じていないのですから、表内漢字だからというだけで、使うべきと主張するのは無理であるような気がします。--Dr.Jimmy 2007年9月7日 (金) 09:18 (UTC)

Dr.Jimmy氏およびこの議論に参加くださった皆様へ。私自身が熱く主張しすぎてしまった部分もあるかと存じます。Template:独自研究の使用上わざわざ漢字で表記する利点は多くなかったかもしれません。現状ではTemplate:独自研究で「虞」と表記する必要はないというように考え直しました。議論の原因を作った者として、この議論に参加くださった皆様に感謝いたします。「現状では漢字で書くべきと主張されているのはKtoetxさんしかおらず」とのことですので、Template:独自研究およびTemplate:独自研究Sで「虞」の部分を「おそれ」に修正させていただきます。--Ktoetx 2007年9月7日 (金) 10:27 (UTC)
了解しました。それで、Wikipedia‐ノート:表記ガイド#仮名書きと漢字を使い分けるものの提案はどうされますか? 撤回しますか。--Dr.Jimmy 2007年9月7日 (金) 13:04 (UTC)
Wikipedia‐ノート:表記ガイド#仮名書きと漢字を使い分けるものの提案についてですが、このノートでの議論でなかなか合意に至らなかったことを踏まえ、(私が強硬に反対したためでしょうけれども)個別のページごとに議論を繰り返していたのではきりがないと思い、全体的な指針に盛り込もうと考えたためです。Wikipedia‐ノート:表記ガイドでのDr.Jimmy氏のコメントを拝見しました。気を悪くされたようで申し訳ありません。こちらで議論をしている最中での提案は誤解を招いても仕方がなかったと反省しております。「おそれ」の件も含めWikipedia‐ノート:表記ガイドで議論していく方針です。--Ktoetx 2007年9月7日 (金) 13:32 (UTC)

分割提案[編集]

Template:独自研究Template:独自研究/docへの分割を提案します。テンプレート呼び出しの負荷低減を考慮したためです。 分割後はTemplate:要出典のようなスタイルになります。賛同・反対等、ご意見がございましたらお寄せください。--^2 2008年1月6日 (日) 10:35 (UTC)

賛成です。ちなみに、{{Documentation}}を使用するため、{{Documentation|content=…}}にしてみました。分割後は単に{{Documentation}}としたらよいです。--新幹線 2008年1月10日 (木) 10:39 (UTC)

既出の理由に同意いたします。このテンプレートはよく使われているので、負荷軽減を図ることは有意義なことだと思います。--伏儀 2008年3月15日 (土) 08:24 (UTC)

言い切るべき?[編集]

テンプレートで編集合戦を起こしてしまうと周りへの影響が大きすぎるため差し戻しませんけれど、125.194.109.90さんが要約欄に書かれた『「独自研究」だとするなら、はっきりと言いきるべきです。』というロジックがよく分かりません。ご意図について取り急ぎご説明いただければ助かります。一般論として、これだけ多数の記事に貼られているテンプレートの文面を修正するのであれば先に提案や説明があってしかるべきでしょう。--スのG 2008年1月21日 (月) 16:27 (UTC)

言い切るべきなら、このテンプレートが貼られた記事全部を見直さなければならないですね。"疑い"の段階であるものはこのテンプレートを剥がす必要がありますから。これらを編集者は全部やっていただけるのでしょうか。それとも人任せでしょうか。--Vaiow120 2008年1月21日 (月) 17:27 (UTC)

編集合戦だけはおやめください[編集]

多くの記事に貼られているテンプレート上での編集合戦は是非とも回避してください。事態の悪化へ備え、Wikipedia:保護依頼 へ 独自研究、独自研究S の全保護依頼を提出しました。まずノートでの対話をお願いします。--スのG 2008年1月21日 (月) 16:37 (UTC)

「独自研究」タグの使用規制について[編集]

Wikipedia:井戸端にも書きましたが、「独自研究」タグというのは本当に必要でしょうか。わたしは、Wikipediaに参加して1年2か月になります。その点ではまだまだ新参者なわけですが、今まで一度もこのタグを使ったことがありません。また、使わないですむなら今後も永久に使いたくないと思っています。そもそも、編集で対応できることですし、また、人様が苦労して書かれた記事を「独自研究」呼ばわりすることは、その記事について完全なものを書き上げる自信がなくてはできないことだとも思います。それが可能であれば、全面改稿すればいいだけの話であって、要するに、一般編集者にとって「独自研究」タグは必要のないものだと思います。このタグについては、管理者だけが使用権限をもつようにするなど、一定の使用制限を設けた方がいいのではないでしょうか。ゴンベイさん(Wikipedia:コメント依頼/ゴンベイ参照)やIPユーザー59.135.32.41さん(Wikipedia:削除依頼/枢軸時代参照)、紅 美鈴さん(Wikipedia:コメント依頼/紅美鈴参照)がそうだとは申し上げませんが、個人攻撃目的でこのタグが使用されるとなると由々しき問題に発展しかねません。最近、この手の「編集」が立て続けに発生しており、意欲的な執筆者に限ってやる気をなくし、タグ貼り専門みたいな「編集者」によって駆逐されてしまうのでは、とたいへん心配です。

確かに「要出典」タグの必要性は認めます。しかし、一般編集者にとって「独自研究」タグは果たして必要でしょうか。記事内に「要出典」タグがあれば、自動的に「独自研究」的要素は浮かび上がるわけで、何も改めて「独自研究」タグを貼る必要はないものと考えます。もちろん、元来、個人攻撃に使うものではないことは承知していますが、タグ貼り逃げのような無責任な編集がまかり通るようでは困るわけです。わたしは、よい人、悪い人がいるわけではなく、よい習慣、悪い習慣があるだけなのだと個人的には思っています。これらの人びとが「悪い習慣」に陥らないためにも、このタグを無闇に使用することを制限すべきではないでしょうか。もとより、使い方さえ間違えなければ有用なものとなりうるのは事実ですが、初心者には使い方を間違いやすい点も多く、貼られた方は悪意によるものなのか、善意によるものなのか判断しにくい面が多々あります。これは、きわめてトラブルの原因となりやすい要素です。恣意的に濫発される方が現実に存在する以上、この人たち自身を救うためにも、何らかの規制が必要ではないでしょうか。

要は、これらのタグを付与する側には、自分自身も記事の内容に責任を持つ参加者の一人だという認識を持ってほしいわけなのですが、そういう覚悟が無いままにアカウントを取るなり安易にタグ貼りに狂奔するような事例が最近立て続けに起こってしまっております。ゴンベイさんのタグ貼り逃げ行為によってWikipedia:コメント依頼/ゴンベイがなされました。そして、ゴンベイさんからの反応がなくなったかと思った途端、同じ頃に活動を始められた紅 美鈴さんの行動が問題になっていて、しかもWikipedia:コメント依頼/ゴンベイでの議論と同じことが話し合われています。これは、由々しき問題であり、決して放置してはならない出来事だと感じます。みなさまの御意見をお待ちいたします。--Greenland4 2008年4月17日 (木) 11:43 (UTC)

Greenland4さんは「修正する時間や能力がなければ独自研究の可能性が高いものでも放置すべし」と主張していると理解していますが、この理解であってますか?
また、読者に対して「独自研究の可能性がある」ということを伝える必要はないとお考えであるという理解であってますか? --iwaim 2008年4月17日 (木) 13:17 (UTC)

1点目。放置すべきではないと思います。管理者に知らせるべきでしょう。2点目。読者に知らせる理由はあるとは思いますが、一般の編集者が知らせる必要はないんじゃないでしょうか。管理者が知らせるということでいかがでしょうか。--Greenland4 2008年4月17日 (木) 13:21 (UTC)

必要だが規制の意義につき見直しが必要
Greenland4さん、節設置をありがとうございます。
私は「独自研究タグ」は必要だとは考えておりますが、今回の問題提起は良い見直しの契機ではないかと考える次第です。そもそも井戸端にも書きましたが、「独自研究タグ」には元々一定の縛りがかかっています。
コメントを添えずに単なるレッテル付けの目的で使うことは望ましくありません。Template:独自研究より)
この事を失念されておいでの方が多いように見受けられるのです。タグの使用が無制限に認められる事についての弊害は以前から指摘されていた事なのであって、それは記事作成・編集が無制限に認められる事の弊害と対称的なものであると考えます。調和あるガイドラインと運用が必要なのであって、「タグ貼りはどのようなものであっても荒らしにあらず」と誤解されるような記述や認識は改めなければならないと思います。--Kliment A.K. 2008年4月17日 (木) 13:28 (UTC)
こんちは。独自研究かどうかというのは、つまるところ複数の事実から投稿者によって何かを引き出しているかどうかというところで判断され、出典の付与あるいは修正によって解決されるものです。その過程のなかで、管理者権限を使用する必要はありませんから、ここでの議論に管理者という存在を持ち出す必要はないと考えます。管理者という役割を、Greenland4さんは、誤認されているように思いました。たとえば、調停委員会のようなものや、プロジェクトなどを活用して、ある程度学術的な記述に慣れているとか、当該分野の資料について広範な知識があるとか、そういう立場の方に、何かをゆだねるということはできるかもしれません。--Ks aka 98 2008年4月17日 (木) 13:30 (UTC)
◆Greenland4さん、返答ありがとうございます。管理者云々についてはKs aka 98さんのコメントを読んでいただくとして、実際のGreenland4さんの要望は「独自研究テンプレートは必要だが、(一定の縛りなしに) 乱用されている状況を改善したい」という理解でよいでしょうか。私の質問についての返答からそのように読み取れました。(管理者に任せればいいということは、管理者の手でよる付与なら許容できるということだととれるので。ウィキペディア日本語版では管理者にその役目を任せるのは妥当ではないのはKs aka 98さんのコメント通りですけど) --iwaim 2008年4月17日 (木) 13:39 (UTC)

Ks aka 98さん、ただでさえお忙しい管理者をさらに忙しくというつもりはありませんでしたが、今の状況はやはり目に余るものがあります。紅 美鈴さんは御自分の会話ノートで「古参の利用者は自分の加筆記事が自らの論文と化しているので、新しいルールをもって新参に弄られる事が許せないのでしょう」と述べておられます。この推測はあたっていないと思いますが、わたしも初心者だった時期は「ウィキペディアがナンボのもの」という感覚を持っていたことを思い出しました。実のところ「ウィキぺディアン」という言葉さえ嫌いでした。そのあと、不充分で不完全だからこそやりがいがあるし、自分のやれることは多いと考える人と、不充分で不完全だということを指摘して満足して終わりという人に分かれるような気はいたします。後者の行動様式が身に染みてしまった人は修正が難しいのではないでしょうか。強がってはいますが、不安感も強いので、ムキになってしまい、結果、タグ貼り逃げ、トンズラというコースをたどるような感じがします。「独自研究」タグは扱いが難しく、いわば諸刃の剣です。初心者は、それを振り回すほど自分が傷ついてしまう。「管理者」というのが無理なら、編集○○回以上とか、アカウント取得○年以上という制限でもいいです。何らかの制限はやはり必要なのではないでしょうか。

iwaimさん、御返答ありがとうございます。Greenland4と申します。よろしくお願いいたします。わたしの要望は、iwaimさん御指摘の通りです。Kliment A.K.さん御指摘の「縛り」つまり「コメントを添えずに単なるレッテル付けの目的で使うことは望ましくありません」の文言だけでは不充分であり、文言それ自体も「望ましくありません」という微温的なものではなく、「禁止します」くらいの強い表現の方がよいと思います。これ以上、こうしたトラブルを繰り返して無為にコミュニティを疲弊することは好ましくありません。何らかの改善策が必要と思いますので、お知恵を拝借できればと存じます。何とぞ、よろしくお願い申し上げます。--Greenland4 2008年4月17日 (木) 14:18 (UTC)

「事細かに指摘するのが労力の無駄と思えるほどに全体的に独自研究の塊になっている」という指摘で使っていたので私も失念組の一員だったのですが。 その記事を見た方にとって「何を直せばいいのかわからない」から放置されてきたと考えると不味かったものです。 基本的に除去していこうとする私は、コメントアウトと理由の付与で済ませてしまう事が多くなった気がします。 ですので「見直しの契機」という意見には、強く賛同します。 
さて、テンプレートを貼り付けた人の期待するところが2つ考えられます。1つは「へいへい、このままなら除去しちゃうぜ」と咎めること。 もう1つは「とても素晴らしい興味深い。 情報源があれば、なお心強い」と注目記事として活用すること。 前者ならコメントを絶対的な物にしないかぎり他で代替可能ですし、後者なら全体的な意識改革が必要かもしれません(たぶん後者は、当初の想定とは違うのでより深い議論が必要でしょうが)。 ところで自分の失敗から考えるに、コメントさせる事を強制するのであれば、声を積極的に上げさせるために「ノートで疑問点が指摘されています」といった一文を設けるところから少しずつ進めた方が良いのではないでしょうか。--秋月 智絵沙(Chiether) 2008年4月17日 (木) 14:36 (UTC)
(反対)現状以上の使用制限には反対します。誤った使い方をする一部ユーザーがいるというだけであって、テンプレートの存在や目的が適切かどうかという問題にすり替えるべきではありません。「その使い方は適切ではない」と指摘すれば済むだけの話で、指摘の削除依頼やコメント依頼などを見ても、そのように運用されているのがわかります(Wikipedia:削除依頼/枢軸時代は削除賛成票が付きませんでした)。それ以上の制限は不要でしょうし、見直しの必要性も感じられません。--Tamago915 2008年4月17日 (木) 14:39 (UTC)
使用制限ではなく、機能拡張を行って誤って使われる可能性を少なくする方向はどうでしょうか? --iwaim 2008年4月17日 (木) 14:44 (UTC)
どういう機能拡張を想定していますでしょうか。それによって回答を検討します。--Tamago915 2008年4月17日 (木) 15:51 (UTC)
同時に書いたので重複して書くのは避けたのですが、テンプレート自体に「ノートで議論している旨を記載してノートに誘導する機能」や「テンプレートの引数に問題点の要約を記載する機能」などの追加です。同種の案として秋月 智絵沙(Chiether)さんからも2008年4月17日 (木) 14:36 (UTC)に案がでています。それらが記載されていないものの対処をどうするのかについては別途議論が必要だとは思いますが。--iwaim 2008年4月17日 (木) 19:25 (UTC)
それなら悪くない。他のテンプレートでも実績がありますし、検討に値すると思いました。--Tamago915 2008年4月17日 (木) 23:37 (UTC)
◆Greenland4さん、こちらこそよろしくお願い致します。一案として、テンプレート自体に「ノートで議論している旨を記載してノートに誘導する機能」や「テンプレートの引数に問題点の要約を記載する機能」などを追加した上で、何故独自研究と解釈したのかについての理由や議論がなければ除去しても問題ないと規程しておくというのを思いつきました。実際に実施する際には現在のものからの移行期間を長めに取る必要はあると思いますが。--iwaim 2008年4月17日 (木) 14:44 (UTC)

秋月 智絵沙(Chiether)さん、Tamago915さん、コメントありがとうございます。秋月 智絵沙(Chiether)さんの「ノートで疑問点が指摘されています」というメッセージを設ける案は、まずは緊張を緩和させるという意味で、たいへんよいと思います。Tamago915さんの御意見は正論なのかもしれませんが、しかし、こうも同じことが繰り返されると「その使い方は適切ではない」という指摘だけでは追いつかない感じですし、どこがどのように適切でないかを初心者に心底から納得させることはなかなかの難事ではないかとも愚考いたします。また、タグ貼りが編集デビューとなるような人たちも、本来的には力量のある人で執筆者としては有望なことも考えられます。現状では、ウィキペディアとの出会いのまずさによって、あたら惜しい人材を失うことにもなりかねないと思います。デビューしてしばらくの間は読者としての行動様式が抜けないので、編集にたずさわる以上、まずは実際に記事を書いてほしいと思います。書けば、オリジナルな表現をとることが推奨される半面、独自研究は排されているというウィキペディアの記事の微妙な立脚点が体感できるでしょうし、それができれば、無茶なタグ貼りも大幅に減らすことができるものと考えます。そのあたりがわかっていないから、無責任なタグ貼りが跋扈するのだと思います。このあたりは、そう言われたからわかるというものではなく、身に染みなければわからない部分なんじゃないでしょうか。iwaimさんのアイディアはほとんど荒らしに近い最近のタグ貼り逃げ行為に対し、よき抑止力になると思います。ありがとうございました。--Greenland4 2008年4月17日 (木) 15:27 (UTC)

別に当事者を納得させる必要はなくて、不適切な指摘だということを全体で合意すればいいだけの話です。それに、いくらルールを定めてもそれに従わない編集をサーバに反映されないようにはできませんし、そもそも形式的に何らかの制限を加えたとしても、何ら本質的な解決には至らないでしょう。
現状の提案は形式的な制限をつけるに過ぎず、本質的な解決からむしろ遠ざかるため、改めて反対の意を表明しておきます。--Tamago915 2008年4月17日 (木) 15:51 (UTC)
反論でもなんでもなくて単なるおれの印象およびおれの個人的な対外的基準に基づくアドヴァイスなんだけどさ。
「本質的」という言葉を見たら、おれは見た段階で「こいつわかってないんじゃねーか」と思うし、おれ自身はその言葉を避けて通るようにしているんですよ。価値判断が違うのかもしれない他者と対話をするときに「本質的」みたいなメタな概念を持ち出すとたいてい暗礁に乗り上げるしさ。というわけで、申し訳ないんだが、こういうケースで「本質的」あるいはそれと類似した高度に主観的な単語・概念を避けてテキストを記述するように心がけてはもらえないだろうか。--Nekosuki600 2008年4月17日 (木) 15:59 (UTC)
さらにメタな概念に持って行かれたような気もしますが、そっちへ行ってしまうとテンプレートの修正についての議論ができなくなりそうなので。
指摘については了解です。気をつけます。--Tamago915 2008年4月17日 (木) 23:37 (UTC)
(はじめの提案に対して代案?)廃止か存続か、あるいは使用条件をつけるか、どういう使用条件をつけるかという議論を収束させるのは難しくても、
  1. Template:独自研究の目的は、他の編集者への協力の要請だと確認する
  2. テンプレートの文面を協力の要請に重点を置いた文体に変える
  3. 「ノートでの応答などがなければ、それは協力を要請したが効果がなかったということなので、ひとまず除去してよい」というような確認をする
という落としどころはあるかな、と思います。--Mizusumashi 2008年4月17日 (木) 22:33 (UTC)
代案の全体的な方向感には賛成ですが、いくつか指摘させてください。
「協力の要請」というのがどういうものか、ちょっと曖昧です。他の何人かが指摘されていた、ノートページでの議論への誘導を意図しているのでしょうか。あと3は蛇足かもしれません。というのも、{{独自研究}}は{{要出典}}と組み合わせて、出典不明な記述を指摘する目的で使いますし、出典不明の記述をどう取り除いていくかはずっと議論されていますので。--Tamago915 2008年4月17日 (木) 23:37 (UTC)
Tamago915さんへ)曖昧なのはわざとです(笑) ノートページへの議論誘導をある程度義務的にするのでも、私は賛成します。それで議論がまとまるのなら、3.はいらないかもしれません。--Mizusumashi 2008年4月18日 (金) 19:04 (UTC)

いきさつの説明だけさせておいてください。「コメントを添えず、単なるレッテル付けの目的で使うことは望ましくありません。」の文章については、このノートの一番上に書いているように当時あった「Template:Unreferenced」についての議論や「Wikipedia:削除依頼/Template:独自の研究」にてレッテル貼りへの拒否感がでていたことを踏まえて試行期間中の 2007年2月19日 にいれたものです。このことは私の独断で、現在まで異論もなかった一方で同意もなかったところですので、拘束力はごく弱いと考えてください。--スのG 2008年4月18日 (金) 04:28 (UTC)

出典のない記事は独自研究として除去することが認められています。つまり「独自研究」タグは出典のない記事に対し猶予を与えるものであり、加筆者側のためのタグであると感じます。また仮にいくら使用制限をつけようと出典のない記事を除去できるという事実は変わりません。このテンプレートの使用を制限すれば、「即削除」「即コメントアウト」が増えるだけのように思えます。--成田亮 2008年4月18日 (金) 15:01 (UTC)
成田亮さん
>「即削除」「即コメントアウト」
流石にそれをやったら「荒らし」と看做して問題無いでしょう。もしそれで「荒らし」と看做せないのであれば、最早悪意あるユーザーがガイドラインを盾にとって荒らしまわる危険性・蓋然性を考慮の上で、ガイドライン見直しが必要であると考えます。--Kliment A.K. 2008年4月18日 (金) 15:29 (UTC)
成田亮さんへ)「出典のない記事は独自研究として除去することが認められています」の出典はありますか?--Mizusumashi 2008年4月18日 (金) 19:04 (UTC)

(全体的感想)「独自研究を載せない」と「出典の明記」を同一視するかのような発言がちらほらあるようですが、私は、「独自研究を載せない」と「出典の明記」とはいちおう異なる問題であると考えています。ウィキペディアの方針として、「出典の明記」(検証可能性を確保すること)は、いうなれば記事の形式についての要求でしょう。他方、「独自研究を載せない」は記事の内容についての問題です。また、学識に基づいて基本的事項を分かりやすく説明したと自負するような執筆者にとっては、「出典の明記がないからウィキペディアに載せられない」と言われるのと、「独自研究だからウィキペディアに載せられない」(「独自研究」というのはときに婉曲表現であって、もともとは「トンデモ理論」のことですよね?)と言われるのではぜんぜん違うでしょう。
しかし、多くの方が「独自研究を載せない」と「出典の明記」をほぼ同一視されているのなら、Template:独自研究は廃止してもいいかな、と思います。Template:出典の明記があるわけですから。--Mizusumashi 2008年4月18日 (金) 19:04 (UTC)

いやその、昔 Template:Unreferenced で一緒になっていた[3]のを Wikipedia‐ノート:出典を明記する/テンプレート関連 と過去ログ[4]にある議論を通して半年がかりで分けたものなのですよ。そちらを踏まえて出戻りには反対とさせてください。--スのG 2008年4月18日 (金) 19:12 (UTC)
ちょっと誤解が生じたようですが、私が言っているのは「現時点では独自研究、しかし出典によっては独自研究にならないかもしれない」というような、このテンプレートを正当な理由で貼られるような文章に対してです。私が見る限りこのテンプレートを使われている内容は別の手段として「即削除」「即コメントアウト」もできる場合が多く(もちろん、例外もありますが)、このテンプレートの使用を制限しても他の手段に流れるだけじゃないかな、ということです。--成田亮 2008年4月20日 (日) 10:10 (UTC)

使用制限てゆーか[編集]

なんかな。「両刃の剣性」みたいなもん、クローズアップできないかな。

何かについて「独自研究だ」と指摘したとしましょう。そういう理由での除去でもいいわ。それが明らかに独自研究なら、指摘・除去したやつは賞賛されるのな。だけど、ぜんぜん独自研究でなかったら、指摘・除去をしたやつは、当然に批判に晒されるわけですよ。独自研究もそうだし要出典もそうだが、「自分がどこまで知っており、どこから知らないか」を如実に明らかにしちゃうことなわけです。

不用意に独自研究テンプレをはっつけるやつって、「そう指摘することが、それなりに攻撃的であり、自分が優位に立つことができる」と思ってるような気配を感じるのね。要出典も同じ。だけど、それは間違いなんだな。

独自研究テンプレをはっつけたり要出典をはっつけたりしたとして、それが多くのひとから見て適正であるなら誰もなんも言わない。だけど、多くのひとから見て不適正であるなら「ばかじゃん?」のひとことで片付けられちゃうような墓穴になるわけ。「ばかじゃん・・・」と言われて激昂して暴走したあげく無期限ブロックになっちゃった羞恥心系のひとなんて少なくないよね。つまりだ、「独自研究」テンプレって、すげえ扱いが難しいんだよ。

その扱いの難しさをクローズアップすることによって、「へたにこれを使うと『問題外の低水準な人格』としてWikipediaからたたき出されてもしょうがない」というような緊迫感を与えることはできないもんだろうか。その、適切な緊迫感があれば、独自研究だの要出典だのをめぐるばかばかしいトラブルの80%[要出典]くらいは、解決できるんじゃないだろうか。--Nekosuki600 2008年4月18日 (金) 16:34 (UTC)

Nekosuki600さん、ありがとうございました。的確な分析だと思います。みなさんに出していただいた御意見をまとめると、方向性としては、
  1. 警告する——無闇に使うと荒らしと見なされる、墓穴を掘る、執筆者に対する個人攻撃と見なされることがある、両刃の剣ですよ、というような警告
  2. 制限する(禁止する)——アカウント取得○か月以上とか、編集回数○回以上などのような制限
  3. 責任を取らせる——テンプレートの文言を変える、あるいは文言を追加して責任ある議論の場へと誘導し、貼った以上はきちんと責任(オトシマエ)をとってもらう工夫
という3つが考えられるのではないでしょうか。言い換えれば、「入り口」での警告(1.)と物理的制限(2.)、入ってから「出口」までのあるべき行動の指針の提示(3.)ということだと思います。
3.については、あるいは「削除依頼」のように依頼者が否応なしにそれなりの責任を持たなくてはならないようなスタイル、たとえば「改稿依頼」のようなかたちにして、改稿の方針や方向性を自ら提示しなければ機能しないようなスタイル(却下や取り下げが事務的にスピーディになされるスタイル)にしてしまうことも考えられるかもしれません。いずれにしても、「縛り」の強調と周知徹底はこれらの前提になるものと思います。というか、縛りとしてどれがどれだけ効果があるかという問題だとも思います。また、「効果」ということを考えるなら、いくつかの方法を組み合わせてもいいと思います。--Greenland4 2008年4月18日 (金) 19:43 (UTC)

両刃の剣[編集]

Wikipedia:独自研究は載せない」によれば、その冒頭に、

  • 独自研究(original research)」とは、信頼できる媒体において未だ発表されたことがないものを指すウィキペディア用語です。ここに含まれるのは、未発表の事実、データ、概念、理論、主張、アイデア、または発表された情報に対して特定の立場から加えられる未発表の分析やまとめ、解釈などです。

とあります。

「信頼できる媒体において未だ発表されたことがない」ということを断定できる人というのは果たして何人いるんでしょうか。その道の専門家ですら、「発表されたことがない」ことを証明できる人はほとんどいない気がします。すそ野が広い事項や事象に関しては、一層そう言えるんじゃないでしょうか。発表されたことは論証したり言及したりできても、発表されなかったということは、「悪魔の証明」なわけで、証明がほとんど不可能なわけです。これはまあ、Nekosuki600さんのおっしゃったこととかぶります。「ただ単に本人が知らないだけ」ということを白日の下にさらしてしまうだけなのです。

だから、このテンプレートを貼るに際しては「本当にこの記事内容に関する論文、雑誌、事典、新聞報道の類の全部(戦前発表のもの、海外発表のもの、地方刊行のものも含め全部)に目を通しましたか」という念押しが必要なのではないかと思います。それでもなお、貼り付けようとする人なら、「悪魔の証明」をあえて引き受けようという気骨があるわけですから、何か一家言あるような気もいたします。それは大化けして、ダメ記事が秀逸記事になる可能性も秘めており、起死回生の逆転サヨナラ満塁ホームランになるかもしれません。現状でも、可能性としてはそうなんですが、100回のうち99回[要出典]は大空振りに終わるでしょうね。それに何人もの人が振り回されてしまうのは困るわけです。「このテンプレートは、信頼できる媒体に未発表の事実、データ、概念、理論、主張、アイデア、または発表された情報に対して特定の立場から加えられる未発表の分析やまとめ、解釈等に対して貼付されるものです。貼付される場合は、再度、この記事内容に関する論文、雑誌、事典、新聞報道などすべての媒体に目を通したうえで、未発表であることを確認してください」という文言を入れたらどうでしょうか。--Greenland4 2008年4月27日 (日) 12:47 (UTC)--Greenland4 2008年4月27日 (日) 13:35 (UTC)

このテンプレは「独自研究のおそれのある記事」に貼るものですので、独自研究だと証明する必要はありません(厳密に独自研究であると証明するのは不可能ですので)。仮に実際には独自研究でなかったとしても、そういうふうに疑われるような記事の書き方をしていれば貼られる可能性はあると思います。
ものすごく極端に考えれば出典の明記が不十分な記事は全て独自研究のおそれがあるともいえるのですが、それだと{{出典の明記}}と{{独自研究}}を区別する必要がなくなってしまうので、単に出典の明記が不足しているだけの記事にはこのテンプレは使うべきではありません(その情報を載せた情報源の存在がかなり疑わしいという場合に使うわけです)。
例えば原子核の記事は現状では出典・参考文献が皆無ですが、探せば見つかるだろうということは想像がつくのでこれに{{独自研究}}を貼るのは適切ではありません。貼るとすれば{{出典の明記}}です。また、出典が示してあったとしても、なんらかの解釈・特定の観点の批准が行われている可能性があれば独自研究のおそれがあるといえます。
悪魔の証明については、不存在を証明するのは困難であることから、「存在を主張する側」に立証責任が発生するという理屈になります。すなわち独自研究疑惑については、「その情報を掲載している情報源の存在を主張する側」すなわち「独自研究でないと主張する側」が出典を提示して独自研究のおそれを解消しなければなりません。
Wikipedia:独自研究は載せないには「独自研究ではないことを示す唯一の方法は、その記事の主題に直接関連のある情報を提供している信頼できる資料を参考文献として記し、その資料に記された内容に忠実に記述することです。」と書かれていますので、実際には独自研究でない記事にこのテンプレが貼られてしまった場合はさっさと出典を示してテンプレを剥がすのが最善だと思います。--貿易風 2008年4月28日 (月) 13:39 (UTC)

挙証責任としては、確かにおっしゃる通りなのかもしれませんね。ただ、だからこそ、そこに付け込むというふうな感じも少し見えるわけです。初心者を装い、実は確信犯じゃないのかと疑われるケースもなくはありません。また、「独自研究のおそれ」の「おそれ」の部分について、ちょっとしたこと、たとえば単に自分が知らないというようなことでも「おそれ」を感じてしまう人がいて、安易に貼っちゃうことも少なくないように思います。執筆する側が、やはりよほど注意して出典、それも信頼できる良質な情報に依拠した出典を示すことが必要だということは確かですが、貼る側にも何故そういう判断を下したのか、出典を出すよう義務づけてもいいのではないかと愚考いたします。--Greenland4 2008年4月30日 (水) 15:58 (UTC)

独自研究でないと知っている記事に悪意を持ってこのテンプレを貼っている人がいるなら問題ですが、いたとしても少数でしょうし、テンプレを貼る行為は善意に取るようにするべきだと思います。
なんらかの記事にこのテンプレが付加されたのに理由の説明が不十分で納得がいかないのであれば、「なぜ付加したのか、どこが独自研究だと思ったのか説明してください。説明がなければx日後に剥がします」とノートに書いておけば、貼った側としては剥がされたくなかったらいやでも説明責任を果たすことになるので、わざわざ責任を明文化しなくてもいいんじゃないでしょうか。独自研究とはそもそもこれまでに発表されたことの無いものですので、それが独自研究だと判断できるような出典を持ってこいというところまで求めるのは変だと思います。独自研究ではあるが真実でもあるようなケースでは間違っていると示すような出典を出すこともできないですし。--貿易風 2008年5月2日 (金) 16:31 (UTC)

派生議論の蓋然性[編集]

最近、「出典が脚注形式で付されていない事を理由にする」一方的な削除(場合によっては荒らし)が目に付くのは気のせいでしょうか?これが罷り通りますと、記事を段落ごとに脚注化(極端な話、一文毎に脚注化)しなければ、「ガイドラインを盾にとった削除荒らしに何ら対抗出来なくなる」と思うのですが…削除方針についてもガイドライン見直しが必要かもしれませんね。今のガイドラインは執筆による荒らし防止やトラブル防止に特化し過ぎて、悪用・濫用の温床になっている気が致します。--Kliment A.K. 2008年4月19日 (土) 02:36 (UTC)

そのへん世事に疎くて気づきませんでしたが、そういうことがまかり通るようではたいへん問題ですね。ガイドライン見直しについて、わたしも賛同いたします。--Greenland4 2008年4月19日 (土) 03:12 (UTC)
さしあたって、この場に「出典が脚注形式で付されていない事を理由にする一方的な削除」が不適切だとみなされる事例を掲げてみてもいいかもしれませんね。
第一に、あらゆる概説書・教科書の類に記載されていること、たとえば「1789年にバスティーユ襲撃事件が起こった」などということは必要ないでしょうね。個人的には、ネット検索で調べればすぐにわかるようなことには脚注は必要ないと思います。ただし、ネット検索しようにも検索のしかたがわからないような場面では必要になってくると思います。第二に、「すべての道はローマに通じる」というような、ひろく巷間に流布している文言、格言の類も必要ないでしょう。第三に、「地球は球体をなしている」などのような、現代自明とされる定説あるいは既に立証された学説も必要ないでしょう。
ただし、元来は「すべての道はローマに通じる」ではなく「すべての道はペルセポリスに通じる」だったようで、後者の場合は知名度は低いわけですから脚注が必要でしょうし、「すべての道はローマに通じる」についても「オリジナルはペルセポリスだった」ということを説明したいときは脚注化すべきでしょう。要するに文脈に応じて脚注化が推奨される場合があるとは思います。「要出典」が推奨される事例も同様にみなさん列挙してみたらどうでしょうか。
第一に、「フランス革命は、ヨーロッパでは人民叛乱ととらえるのが一般的である」のような、一部の見解を全体の見解であるかのように示す記述。この場合は、出典以前に不正確なことが明らかなわけですから、いきなり書き直してもいいかもしれませんが、それが微妙な場合は出典が必要なケースが多いでしょう。第二に、事象に対する評価、とくに人物評価については、誰がどの場面でそう言っているのかは必須と思います。第三に、従来の定説に対し、いま新しく提起されている仮説や提案、問題。有力な異論・反論など。第四に、あまりにも専門的すぎる事柄。これは、しかし人により知識量が違うので線引きの難しいところです。とりあえず、教科書や概説書にはふつう載っていないような事柄としておきます。
他にも、いろいろあると思いますが、具体例をお互いに持ち寄ることによってコンセンサスとして煮詰まってくるのではないでしょうか。--Greenland4 2008年4月19日 (土) 22:51 (UTC)
◆どのガイドラインの見直しをやろうとしているのかはわかりませんが、それに関連する場所で議論した方が意見が集まるのではないでしょうか。--iwaim 2008年4月20日 (日) 00:41 (UTC)

貼られたほうからしてみれば、「出典脚注」や「要出典」というのはある意味自分の編集に対する批判でもあり、それに対して如何に冷静に対処できるかということがキーになってきそうですが、結局のところそれはタグを貼った相手が"どこが""どういうふうに""出典が不明"なのかどこかしら書いていることが穏便に対処できる大前提だと思います。従って、「要出典」「独自研究」「出典脚注」に関してはテンプレを貼る人間がそれを明確にすることを義務付けした上で、そのフォローを執筆者とテンプレ貼付者に義務付けすれば良いのではないでしょうか?当該記事執筆者には出典の明記、テンプレ貼付者には事後の修正などを義務付け、互いに責任を持ち合うことこそがトラブルを回避する第一歩だと思います。また、「出典脚注」ですが例えば出典が十冊を超えるような記事であれば必要かもしれませんが、それこそ一冊二冊の出典を基に書いてある記事であれば、記事容量の増大回避の観点からもある程度「参考文献」だけでカバーできるようにすれば良いのではないかと考えます。例えば、新規にテンプレを作って「この記事は参考文献を基に作成されています、これ以外の文献を基に執筆された方は子参考文献に出典を記載してください」というようなのようなものを作って、出典明記を参考文献に集約してしまえばそれだけで記事はすっきりしてくると思います。今のウィキでは出典脚注のガイドラインを遵守しようとすれば、かなりの記事が違反になってしまうことは明白で、これを修正していくことは容易な作業ではないと思います。ある程度の容量以下の記事には一定のスタイルさえ守ればそれを容認するというような妥協も必要になってきているのではないかと愚考しますが如何でしょう?--GF 2008年4月21日 (月) 12:38 (UTC)

そうですね。適切にして穏当な御提案と思います。「フォローを執筆者とテンプレ貼付者に義務付けする」ことをハッキリさせれば、無責任なテンプレ貼付は少なくなるでしょうし、記事の発展にもつながりますね。他力本願でありながら、その他者を批判するようなことになりがちだからトラブルが起こりやすくなるんですね。貼付者にも一定以上の責任を持ってもらうことには大賛成です。「出典脚注」に関する御提案も妥当なものだと思います。--Greenland4 2008年4月22日 (火) 13:23 (UTC)

(コメント)Wikipedia:独自研究は載せないの表現上の欠点として、「修正する」方法の一つである「削除」のみが繰り返し提示されていることがこのテンプレートを張れば削除して良いという誤解の基になっていると考えます。つまりどのように修正すべきかは記事によって異なり、ノートで合意する証拠として要出典の添付が必要になるケースもあれば、出典が示されていても独自研究かどうかを検討する場合もあると考えます。なのでこのテンプレートだけの問題ではなく、Wikipedia:独自研究は載せないの本文の「削除」と書かれている部分を「修正が必要であり、ノートでの合意によっては削除される場合があります」と置き換えないと「削除」マニアは減らないと考えます。--あら金 2008年4月24日 (木) 16:32 (UTC)

確かにおっしゃる通りですね。その部分の書き換えも必要だと思います。求められるのは「修正」ですね。こいつは「削除マニア」だと思ってしまうからこそ、いくら善意を強弁されても悪意に受け止めてしまって、それが余計に感情的な軋轢につながっている感があります。悪循環ですね。これは今すぐできることであり、しかも効果のすぐに現れる改善案ですね。よき御提案ありがとうございました。みなさんのアイディアを実行していけば、かなり効果が上がりそうですね。わたしが示した案は、その点あまりよくありませんね。撤回してもいいかな。--Greenland4 2008年4月26日 (土) 15:50 (UTC)

(再コメント)Wikipedia:独自研究は載せないの表現上のもう一つの欠点として「評判の良い情報」と「信頼できる情報」とを混乱させている点です。Wikipedia:独自研究は載せない#なぜ独自研究を排除するのか節の1.までは「信頼でき且つ評判の良い情報」と言っているのですが、そのあとで論点が信頼できる情報に説明の力点を置いていることが読み手を混乱させています。「信頼できる情報」とは「検証可能性」が担保されているかどうかの判断基準であり、「評判の良い情報」とは「独自研究ではない」かどうかの判断基準です。したがって独自研究に信頼できる情報かどうかの判断を説明すること自体が筋違いの話です。 文章の書き方として「…と考える者が存在する」という表現であればそれは単なる事実の提示ですから評判の良い情報であるか否かは問われません。しかし本文の解説、それも主要な説明であると読むことができる解説については評判の良い情報を元にした記述である必要があるというのがWikipedia:独自研究は載せないの要求するところと考えます(それと同時に「検証可能性」と「観点中立性」とも要求されるのですが…それはそれぞれの方針・ガイドライン・規範に説明を振るのが筋で独自研究で詳説するものでないです)。 言い換えると「検証可能性」は出典提示の有無で(ある意味、誰であっても)判断できますが、「評判の良い情報」についてはWikipediaにリストが整備されているわけでもないのでノートで議論する以外に判定する方法がないし、内容が評判が良いものであるか否かは査読依頼やポータルを活用しないとノート上の議論だけではケリがつかないと考えます。その意味では、Template:独自研究に(「検証可能性」の加筆を求める為に使われるべき)Template:要出典を張った方が良いと書いてあるのは「常に」とか「主として」というよりは「ケースによっては」とか「従として」の行為であり、Template:独自研究の説明としては蛇足のように考えます(もちろん「検証可能性」を証拠立てる上ではTemplate:要出典はとても重要です)。--あら金 2008年4月27日 (日) 13:32 (UTC)

確かにおっしゃる通りで、あら金さん御指摘の件は、もしかしたら多くの人がこれまでスルーしてしまっていた問題点かもしれません。わたし自身は「再コメント」をお読みして、恥ずかしながら「そうか。そういうことだったか」というふうに認識を改めた点が多々ございます。「評判の良い情報」が何であるかが示されていないなら、なおのこと「独自研究」テンプレは迂闊に貼れないものですね。ちょっと論点はずれるかと思い、「両刃の剣」をこのノートの上の方に書きました。観点は違いますが、そこでは、このテンプレートを貼ることは「悪魔の証明」を引き受ける覚悟が必要であることを申し述べました。「Wikipedia:独自研究は載せない」の本文も、多様な解釈を生んでしまうものではなく、もっと趣旨が明快に伝わるよう書き改める必要がありそうです。--Greenland4 2008年4月27日 (日) 14:12 (UTC)

(再々コメント)「信頼でき且つ評判の良い情報」という区分が何を意味するかというと

  1. 独自研究(信頼できない情報で評判の悪い情報)
  2. トンデモ研究(信頼できる情報で評判の悪い情報)
  3. 権威づけられた研究(信頼できる情報で評判の良い情報)

と区分するならばWikipedia:独自研究は載せないが執筆者の意図から排除するように求めているのは

A.「独自研究を公表しようとする意図」
B.「トンデモ研究を権威づけられた研究であるかのように誇張する意図」

の二点です。 Aは「Wikipedia:ウィキペディアは何でないか#ウィキペディアは演説をする場所ではありません」を根拠にしていますが独自研究の特徴のうち、信頼できない情報であることに着目して「検証可能性」がないことを理由に排除されます。 Bはトンデモ研究であると直ちに該当するわけではない点が注意点です。つまりトンデモ研究を「少数意見」であることを明示して記述する分にはWikipedia:独自研究は載せないにも該当しませんし、Wikipedia:中立的な観点からは推奨されます。 「トンデモ研究を権威づけられた研究であるかのように誇張」する方法としてWikipedia:独自研究は載せない#特定の観点を推進するような、発表済みの情報の合成(以下、「特定観点情報合成」)が利用されるので。それをを排除しようとしています。つまり、三段論法

  1. 「研究事実B」は権威づけられた情報源Aにより評判の良い情報である。
  2. 「研究事実B」と「トンデモ研究成果C」とは等価である(この等価であるという意見には出典がなかったり、誰の発言であるかが巧妙に曖昧な表現にされている)。
  3. それゆえ「トンデモ研究成果C」は情報Aにより評判の良い情報とみなせる

というように観点の誇張・すり替えがWikipedia上で行われるという点です。「研究事実B」と「トンデモ研究成果C」とのそれぞれの引用元で「観点の誇張・すり替え」が生じるのではないので「検証可能性」は役に立ちません。逆に、少数意見として「トンデモ研究成果C」を執筆する上では(つまり「少数の者は…と考えている」と事実を述べるだけであれば)、「研究事実B」と関連付ける必然性は皆無です。なので修正方法としては「研究事実B」への言及を消して『少数の者は「トンデモ研究成果C」と考えている』と書き、NPOVを担保する上で反対意見が公知であれば『それにたいする反論(反対意見)も存在する』と追記することが求められるということです。「ある人は(ある研究者)は…と考えている」はWikipedia:言葉を濁さない#曖昧な言い方の典型例ですから『少数の者は…と考えている』と明示すべきです。逆に、『少数の者は…と考えている』を『(通常はand/or多数の者は)…と考えている』と書き変えるには「トンデモ研究成果C」の代わりとなる「評判のよい情報」と置き換えるか、『「研究事実B」と「トンデモ研究成果C」とは等価である』ことを示す第三の評判のよい出典付き情報Dの提示と合わせて「研究事実B」を戻すしか方法はないです。以上のような方法論で修正を求めるのであれば『悪魔の証明』の余地はありません。--あら金 2008年4月27日 (日) 23:28 (UTC)

んー。少し難しくて論旨を追うのに難渋いたしました。勘違いや誤読がありましたら御指摘ください。まず、「独自研究=信頼できない情報で評判の悪い情報」という理解は果たして正解なのか、また、正解だとして、果たしてそれが共有されているんだろうかという疑問があります。実は、共有されていないところに一番の問題があるのではないかとも思うわけです。ある一文だけを切り取れば、「出典がない記事=独自研究」という読み方もできるわけで、それが誤読だとしても誤読を誘う書き方がなされてしまっているんじゃないでしょうか。
テンプレートの話に戻すと、「独自研究=信頼できない情報で評判の悪い情報」というふうにタグを貼られた側は、そのように受け止めがちなわけですが、果たしてテンプレを貼る側がそのように理解しているかというと疑問なわけです。貼る側が、これは「信頼できない情報」で「評判の悪い情報」であるとハッキリ認知していれば、これはまだ議論が成立する余地があるわけなんですが、それ以前の段階(信頼できるかどうかもわからない、評判が悪いかどうかもわからない状態)で貼り付ける場合が少なくないわけです。まずは、これをどうにかしなくてはならないんじゃないでしょうか。「ここがわからない」と言っている人を相手にするのと「何がわからないかがわからない」と言っている人を相手にするのでは、疲弊の度合いが天地ほども違うと思うのです。最初、「独自研究」タグは一般編集者には不要であり、「要出典」タグさえあれば充分と私が主張した理由もここにあります。
Wikipedia:独自研究は載せないが執筆者の意図から排除するように求めているのは、「A.独自研究を公表しようとする意図」と「B.トンデモ研究を権威づけられた研究であるかのように誇張する意図」の2点だというのは、おそらく正解なのだと思うのですが、最近のテンプレ貼付状況をみると、本来排除すべきこの2点以外を排除しようという動きを感じるわけです。これはまあ、「独自研究とは何か」という定義が必ずしも万人に共有されていないから、こうした動きを封じることができない側面もあるのではないでしょうか。
後段については、おっしゃる通りなんだろうと思いますが、それでもなお、「評判のよい情報」「評判の悪い情報」というのは、なかなか難しい問題を含んでいると感じます。対象となる事象について一定以上の知識がある者同士が冷静に話し合う限りにおいては、その過程でわりあい自然に析出されてくることもあるわけ(ただし、何をもって評判よしとするかということについてでさえ、哲学や政治などの分野では意見が分かれることは少なくないと思います)ですが、知識のない者同士が話し合っても、または知識のない者が話し合いの中心にいたり主導権を握ったりしている場合には、それは決して自然には出てこないわけです。「評判がよい」「悪い」は相対的な話であって、それこそ前もってリストアップされているわけでも先験的に基準があるわけでもありません。実は、排除すべき正統な理由でもってこのタグが使われるという例が、むしろ稀少な例になってしまっているんじゃないかという懸念がもたれるのです。この点については、いかがお考えでしょうか。--Greenland4 2008年4月28日 (月) 14:05 (UTC)
(理解を深めるために説明し直すと)Wikipedia:独自研究は載せない冒頭の『「独自研究(original research)」…解釈などです。』の定義が正しいとすると。たま出版学習研究社で出版された書籍の意見を引用してに執筆すれば、それは独自研究ではないと解釈せざるを得ないです。しかしWikipedia:独自研究は載せない#何が除外されるかでは『信頼できる且つ評判の良い情報』という判断基準が出てきているので「何が除外されるか」の節で除外されるものには、冒頭の独自研究の定義に合致するものとそうでないものとが存在すると判断せざるを得ません。なので仮に『Wikipedia:独自研究は載せない#何か排除されるか』の節で排除対象であるが冒頭の独自研究に合致しないものに説明の関係上「トンデモ研究」という区分を示しました。
例えば清家新一氏は『特殊な巻き方をしたのコイルに電流を流すと反重力が発生し、UFOの推進力であると考えている』(事例A)と著作で述べていますし、東北大学工学部放射線工学研究室助手(当時)の早坂秀雄氏は(物理領域の評判の良い情報源の一つである)学術誌 Phys. Rev. Lett. 63 (1989) 2791.に『 右回転と左回転するジャイロの質量差が発生し(いわゆる)反重力の存在を示唆した』という意見を論文で述べています(後日、再々検証実験で再現できなくて撤回していますが)(事例B)。
事例Aはいわゆる『疑似科学』です、また事例Bは正当な物理学の仮説ですが『否定された仮説』です。両者とも科学的方法論に基づいた第三者による検証をパスしていない(前者は検証を忌避、後者は検証を通ったが再検証で失敗)ので重力理論の説明として執筆することは不適当な事例です。しかし単なる事例の記述として判断するとき百科辞典に載せる価値が皆無かといえば、『疑似科学の重力理論』とか『否定された重力仮説』の枠組みの中では多少なりとも意味を持ちます。言い換えると記事のタイトルが『疑似科学の重力理論』であれば清家新一氏の著作の詳細な説明も立派な記事となりますし、記事のタイトルが『重力仮説の歴史的変遷』であれば早坂秀雄氏の説明も意味がでてきます。
例に挙げたように「トンデモ研究」という区分については記事のタイトルとそれにより期待される論旨によってはそれ以外の『重力理論』(たとえばニュートンの万有引力の法則やアインシュタインの一般相対性理論)と説明が相容れないことが生じます(清家理論も早坂仮説も万有引力の法則や一般相対性理論と相容れません)。百科辞典の目的は「読者の事物に対する理解を増進する」ことですから筆者の好みや主義主張による編集で渾然としたカオス状態にして示すことはWikipediaの目的に合致しません。しかしNPOV方針も存在するので(読者の知るチャンスを奪うという点で)少数意見を完全に排除することもできません。
結局、独自研究を載せないと中立な観点を両立させるには節か記事で双方のPOVを分離して相互の説明が他方にあまり踏み込まないようにしてそれぞれの節や記事の中では文章の説明に一貫性があるようにして読者の理解の混乱を回避するくらいしか方法がないと考えます。
ここまで考えると、独自研究の定義を修正してトンデモ研究の区分をなくすることが百科事典の目的に合致するかどうかというとそうでもなく、曖昧な定義にされているトンデモ研究の対処方はケースバイケースであることに気付きます。それに対して冒頭の独自研究の定義のような個人的見解はWikipediaでは拒否してもかまわないという点はさほど異論はでないと考えます。
そうすると、「トンデモ研究」は少数意見であるからこそ扱いが難しいとも考えます。NPOV方針からは少数意見の完全排除は否定されますが、多数意見と少数意見をやみくもに同列に取り扱って、読者が読んだ時に理解を混乱させることも百科辞典の目的からは解離してしまいます。つまり排除すべきは執筆者が意図する「自分が引用した意見や特定の観点を素晴らしく見せたい」というエゴであり、それに対しては削除ではなく、整理や分割・移動で論旨のメリハリをつけることで対処するのが読者の知る権利を最大化する方法であると考えます。なので(ケースバイケース故に)トンデモ研究の部分については定義を作り難いということだと考えます。
そうしてみると、『独自研究は載せない』というよりは『個人的見解は載せない』の方が日本語的にはわかりやすいかもしれません。
最後にTemplate:独自研究がなぜ貼られるかといえば、読者に違和感が生し、論旨の一部が間違いであるという印象が発生しているためだと考えます。それは万有引力の法則と清家重力理論がカオスになっているためかもしれませんし、読者が一般相対性理論を知らないで、違和感が発生しているかもしれません。しかし読んでわからない人がいるということは本文に改善の余地があるということです。したがってTemplate:独自研究が貼られる記事は良い悪いは別として(読者を選ぶという点で)少なくとも分かりにくい記事であることは確かです。分かりにくい記事の一部を削除することで分かりやすい記事なるかといえば滅多にそんなケースは無いと考えます(段落を単純に削除すると、文脈が崩壊して通常はよみにくくなります)。なので、Template:独自研究は加筆依頼のテンプレートとして価値があるのだと考えます。--あら金 2008年4月28日 (月) 16:34 (UTC)

こんにちは。独自研究というのは、類型としては、検証可能性を満たす記述の組み合わせによる、未発表の結論の導出だと捉えるのがよいと思います。『魏志倭人伝』の記述(「水行十日、陸行一月」とか)を逐一出典を示し、これらを積み重ねて「邪馬台国は岩手にあった」と結論付けるようなもの。この場合は、個々の記述については検証可能性を満たすため、排除が困難です。こうした場合に、「その記事の主題に関連する形で、既に発表されていなければなりません」として、「その記事の主題に直接関連のある情報を提供している信頼できる資料を参考文献として記し、その資料に記された内容に忠実に記述すること」を「独自研究ではないことを示す唯一の方法」と定めています。邪馬台国岩手説を唱える情報源があって初めて、独自研究を脱する事が可能であり、その説を唱える情報源の信頼性によって、主たる部分の記述に取り込むか、諸説のなかで一応触れるにとどまるか、取るに足らないとして記述しないとするか、について、執筆者間の議論で適切な落としどころを探るという作業に移行できる。この「岩手説」は、ミステリの中にでてくるものなので、出典を挙げたところで編集除去すべき、ということになります。

なので、ぶっちゃけていえば、検証可能性を十分満たしていない記事が多い日本語版では、まだこのテンプレの使用は尚早だと思ったりもします。その意味では、「要出典タグがあればいい」というのは、その通りというか、出典がない記事は、「独自研究」以前の話だったりするのだと思うのですね。

それから、この節の最初のKliment A.K.さんの指摘ですが、脚注か文中かといった情報源明示の形式は、当該分野の慣行や記事の性質や執筆者の好みなどに応じて選ぶことができるはずです。「出典が脚注形式で付されていない事を理由にする」編集除去は、完全な誤りです。そうではなく、出典付けの量や本文との対応の甘さに関しては、除去する上での態度や説明などに問題があることも少なくないですが、基本的には出典を示すことで対抗できるものです。ぼくは、(たとえば英語版の水準で)比較的詳細に、自明なものであっても出典情報を加える事が閲覧者にとっても望ましいと考えていますが、煩雑さ、執筆への障壁といった観点や、自身が投稿したものではない記述の扱いなど、「検証可能性」の記述を理由として単純に編集除去へと向かう編集などは問題となるとも思います。

いずれにしても、出典の扱いについては、検証可能性のノートで議論が行われてきていますので、そちらも参照ください。

--以上の署名のないコメントは、Ks aka 98会話投稿記録)さんが 2008年4月28日 (月) 17:38 (UTC) に投稿したものです(あら金による付記)。

出典の有無と削除の問題は「検証可能性」の問題ですから「検証可能性のノートで議論」するというのが筋なのは指摘の通りです。「まだこのテンプレの使用は尚早」という意見に関しては、日々新規ユーザーが参入してくる現状ではWikipediaの諸方針・ガイドライン・規定をみて彼らは行動しているわけですからテンプレートの存在が削除等の問題編集の原因でないことは明らかなので「Wikipediaユーザーの質」を議論するよりはテンプレートの表示の改善とともにWikipediaの諸方針・ガイドライン・規定で解釈が合わない(諸方針・ガイドライン・規定間で抜けがあったり、微妙に食い違いがあったりしますが)点をクリアーにして行く方が建設的と考えます。むしろテンプレートがあってもなくても問題行動をとるユーザーは諸方針・ガイドライン・規定を見て行動するでしょうし、いったん問題編集が発生すれば体を張って「修正」編集で臨む以外に方法がありません。その際に諸方針・ガイドライン・規定の解釈がグレーであると編集合戦・議論合戦で案件にとられる時間が長期化します。なので、テンプレートの利用制限や暫定使用禁止は諸方針・ガイドライン・規定を見直す改訂作業のオプションとして考慮すべき問題と考えます。--あら金 2008年4月28日 (月) 22:45 (UTC)
確かにおっしゃる通りですね。メインとオプションの関係は御指摘の通りであり、諸方針・ガイドライン・規定を明確にすることが先決だと思います。このノートに示されたコメント全体が、そこにおける「揺れ」を示している感じがします。ここで、その「揺れ」をなくし、コンセンサスをつくっていったらどうでしょうか。また、それにもとづいて、(既に何人かの方は示されていますが)それぞれ改訂案を持ち寄ったらいかがでしょうか。--Greenland4 2008年4月30日 (水) 15:43 (UTC)

文面の変更[編集]

議論がお盛んなところ難ですが、現在の「この記事の内容は『独自研究』であるおそれがあります」は明らかにおかしいでしょう。内容そのものが独自研究なわけじゃないんだから。「この記事には『独自研究』に基づいた記述が含まれているおそれがあります」あたりが妥当かと。

それと上の#言い切るべき?のVaiow120氏の発言をみて思ったのですが、「おそれ」よりも「疑い」の方が適切かもしれませんね。--Purposefree 2008年5月10日 (土) 11:46 (UTC)

特に意見がないようなので、上記の文面にしたがって文面を変更しました。--新幹線 2008年5月17日 (土) 03:38 (UTC)

テンプレートの「解説・どんな時に使うか」について[編集]

英語版の注意文としてこんな文章があるんだが、"This template should not be applied without explanation on the talk page, and should be removed if the original research is not readily apparent when no explanation is given."

その日本語訳、「記事の内容のどの部分について出典や根拠を求めるかノートなどで具体的に提示することが望まれます。」

「望まれます」ではなく、「すべきではありません。」じゃないのかい?"should not be"だからもうすこし強い禁止だと思うんだが。--Ginz 2008年9月17日 (水) 07:59 (UTC)

その文を一年半前に書いた者です。翻訳として対応していないのは、そもそも翻訳で作ったものじゃないからです。言葉の強弱にしても、英語版と合わせることは全く考えておりませんでした。--Su-no-G 2008年9月17日 (水) 08:20 (UTC)
上でも議論になっているように、このテンプレートではなく{{出典の明記}}で良い場合が多い。ノートでどこが独自研究か指摘しなければリバートしてもよいように、文言を英語版にあわせたほうが良いと思うのだが。IPユーザーの何人かがこれを貼りまくっているんだが、いくら「独自研究」が問題だといっても、無言で貼りつけてほったらかしもどうかと思う。--Ginz 2008年9月23日 (火) 07:22 (UTC)
ノートなどでの指摘がないことはGinzさんが仰るように問題です。しかし、曲がりなりにも「独自研究」であると (テンプレートの貼り付けにて) 主張する人がいるのに、それを問答無用でリバートすることも問題であるはずです。《無言で貼りつけてほったらかしもどうかと思う》には同意しますので、そのIP利用者に真意を問い合わせるなど、対話の努力が必要でしょう。--iwaim 2008年9月23日 (火) 07:48 (UTC)