Category‐ノート:自殺した武士

ページのコンテンツが他言語でサポートされていません。

このカテゴリ、必要なんでしょうか?無意味なように思うのですが・・・。--Horlicks 2008年4月12日 (土) 18:36 (UTC)[返信]

必要であるから作成しています。日本の封建時代の支配階級の呼称であり、その中でも自殺という特殊な死に方をした人をカテゴライズする方法といえます。 なぜ無意味と思うのでしょう? 無意味という意味を少し考えてみると、 あるいはカテゴリ内容が多岐に渡っているため見えにくいという意見の可能性もある。 しかしそれならば、 自殺した藩主、自殺した戦国武将、などのようにさらに細分化する方法もありますが、 細分化し過ぎると逆に煩瑣であるという 副作用もさけられません。 klesha—以上の署名の無いコメントは、Kleshaノート履歴)さんが 2008年4月13日 (日) 04:01 (UTC) に投稿したものです。[返信]

私は不要だと思います。武士の自殺(だいたいは切腹でしょうが)は、自殺と一口に言っても動機はさまざまです。戦に負け首をとられないようにするため腹を切る者、政争に負けて腹を切る者、処刑の一種としての切腹、また相馬主計などに至っては明治になってから動機不明の割腹を遂げています。そのようなさまざまなバラエティーのある「自殺」をひとつにまとめることで何かに対する理解が深まるようには考えにくいです。--123.224.183.237 2008年4月13日 (日) 06:11 (UTC)[返信]
すみません。意図を細かく説明しなかったので誤解されたようです。もう少し説明すると、つまり「このカテゴリには有用性があるか」ということです。「Wikipedia:カテゴリの方針#カテゴリの内容」にも、こうあります。
『次のような内容は不適切です。(略)有用性が少ないと思われるもの 「緑色のもの」「左利きの人物」「血液型A型の人物」など。一部の利用者にのみ有用なものも不適当です。「いて座生まれ」「x月x日生まれ」など。 』
こういうものに該当するのではないか、と思うわけです。--Horlicks 2008年4月13日 (日) 06:28 (UTC)[返信]

自殺に動機がさまざまなのは他の職業でも同等です。 また「血液型A型の人物」とは比べるまでもなく限定的であり有用です。 「Wikipedia:カテゴリの方針」を持ち出すのは心配のし過ぎです。 klesha—以上の署名の無いコメントは、Kleshaノート履歴)さんが 2008年4月13日 (日) 15:06 (UTC) に投稿したものです。[返信]

申し訳ないのですが、「有用である」と結論だけ述べられたのでは、どうしていいものやら困ってしまいます。「なぜ」有用であるといえるのか、「有用でない例」として挙がっているものとはどこがどのように違うのか、というような点をご説明いただければ、納得しやすいのではないかと思います。--Horlicks 2008年4月14日 (月) 01:50 (UTC)[返信]
「カテゴリの方針」が引用されるのがなぜ「心配のし過ぎ」なのでしょう?カテゴリを作る以上は当然参照すべき方針だと思いますが。--123.224.183.237 2008年4月14日 (月) 13:59 (UTC)[返信]

Horlicksさんの意見では「血液型A型の人物」を例に引いての反論ですから、それは全くカテゴリーの数のスケールが異なりますね。 そのくらいのイメージも沸きませんか?

また、IP氏さんの意見では、「武士の自殺の動機はさまざま」という反論ですから、それへの対応としては、このカテゴリをもっと細分化すると明瞭になるという提案だと思われます。

仮に、このcategoryを削除すると、すべてが「自殺した人物category」に含まれてしまうわけですから、さらに「自殺の動機はさまざま」なうえに、「職業身分もさまざま」な雑多な集合体となってしまうわけで、解決策というよりも単に混乱をさらに増しているというだけに過ぎないようです。

今一度、ご自身の考えをまとめなおしてみることをすすめます。klesha—以上の署名の無いコメントは、Kleshaノート履歴)さんが 2008年4月16日 (水) 15:05 (UTC) に投稿したものです。[返信]

いまひとつよくわからないのですが、武士はそれぞれCategory:武士以下のカテゴリに登録されていますので、それに加えてCategory:自殺した武士にも登録する必要はないですよ?
ですから、このカテゴリを削除しても、それらの人物をCategory:自殺した人物に登録する必要もないと思います。というより、もともと登録されていませんでしたし。--Horlicks 2008年4月16日 (水) 16:11 (UTC)[返信]

◆不要・有害として削除に一票投じておきます。

なんてのかな。「自殺」てのもいろいろとこう時代的変遷を伴う概念なわけで。武家社会時代の「自殺」と現代の「自殺」とは全然意味が違っていたりするわけで。このカテゴリは、現代の自殺観を不用意に武家社会時代に持ち込むような危うさがあります。そして、過去の時代の社会を理解する上で障害となる誤解を引き起こしかねない。

単に「不要」なだけだったら「あってもいいじゃん」で存続方向で考えても良いのだが、おれの感覚では「誤解を引き起こす可能性」はけっこう重大であり見過ごせない程度に有害であるように考えます。よって、削除すべきだと考えます。

おそらくこのカテゴリを作ったひとは削除に対しては猛烈に反発するのだろうけれども、猛烈に反発する時点でもう「現代の自殺観を過去に投射していることの是非についての思考がたらない」と言ってしまって良いような気がするのですねえ。「自殺は、いけないことだ」という観念があり、「自殺」という言葉に一定の価値判断を与えてしまっているということを、深刻に考えた方が良いのではないか。--Nekosuki600 2008年4月16日 (水) 17:59 (UTC)[返信]

私も同様に思うのですが、そのレベルの話に入る前に、もう少し作成者の方の言い分をしっかり聞きたくて質問をさせていただいていました。
この「自殺」という概念と、武士の自刃、切腹といった行為との概念的な問題については、歴史学系の知識が必要となるため、次の段階の議論かな、と思っていたのですね。
この部分は作成者の方にご説明しても、簡単にはご理解、ご納得いただけると思えなかった、というのもありますが。
さて、どうしましょうか。ここで話し合って結論を出すべきか、それともコメント依頼なりに持っていくほうがよいでしょうか?--Horlicks 2008年4月17日 (木) 02:58 (UTC)[返信]
すぐ下で「有害と主張している人の考えがあいまいで分からない」とか言ってますから、たぶんこのカテゴリの作成者は「次の段階」にはついてこれないと思います。さくさく終わりにしちゃっていいレベルの案件じゃないかと思うのですが、いかがでしょうか。Wikipediaは学校じゃないんだし、歴史の基礎的認識から教えてあげなくちゃいけない義理なんかないと思うんですよ。--Nekosuki600 2008年4月17日 (木) 17:24 (UTC)[返信]
なるほど。できれば関係者が全員納得した状態で処理が行われればよいなと望んでいたのですが、それではあまりに冗長、迂遠にすぎる、ということですね。削除依頼に出してこようと思います。--Horlicks 2008年4月18日 (金) 02:55 (UTC)[返信]
どうしましょ。Horlicksさん出していただけますか。おれカテゴリの削除依頼ってやったことがないんだけど、やるんだとしたら「登録全記事からカテゴリタグを削除」「しかるが上に普通の削除依頼」という手順でいいんですよね?--Nekosuki600 2008年4月18日 (金) 13:45 (UTC)[返信]
普通の記事の削除依頼と基本は同じだったと思います。登録記事からの削除は、先にやったほうが楽(リンク元一覧からいけるので)でしょうけど、後でもいいんじゃないかと。赤リンクになりますしね。明日にでもやっておきます。--Horlicks 2008年4月18日 (金) 17:45 (UTC)[返信]
前後しちゃいましたが、全記事からカテゴリの削除はやっておきました。あとは、カテゴリの削除依頼だけで済みますので、それはお願いします。「んなもんbot作業依頼に出しておけばいいじゃん」とか、某にちゃんねるで言われてしまいましたが、まあいいじゃん(=^_^;=)。--Nekosuki600 2008年4月18日 (金) 17:49 (UTC)[返信]
以下の項目からこのカテゴリに向けてのリンクを削除しました。
先に削除されちゃうと中にどういう項目が含まれていたのか確認しにくくなっちゃうというクレームがついたので、並べておきます。50音逆順(のはず)。--Nekosuki600 2008年4月18日 (金) 18:24 (UTC)[返信]
削除依頼に提出しました。--Horlicks 2008年4月19日 (土) 10:42 (UTC)[返信]

有害と主張している人の考えがあいまいで分からない。

もう少し明快に説明願えますか?Klesha 2008年4月17日 (木) 15:10 (UTC)[返信]

たぶん、あなたに説明するためには、本の一冊くらい書かないとあかんと思うのです。上記説明でわからないとなると、それは思想や感覚の歴史的変遷について全然自覚的ではないってことですから。思想や感覚の歴史的変遷について説明をするというのは大儀なので、お断りさせていただけますか。あいや、許可を求めてるわけじゃなくて、お断りしますの穏当な表現です。
とりあえず、おれはもうおれが書いたわずか数行でわかるひとには伝わったと思うし、それは百科全書派としては十分に多数派だろうと思うし、もうこの程度で削除依頼に突っ走ってもいいんじゃないかと思っていたりするわけですが。--Nekosuki600 2008年4月17日 (木) 15:20 (UTC)[返信]
いちおう、わかりやすく説明する努力をしておくべきだとは思いますので、自分なりに簡単に説明しますが、この説明でもご理解いただけなかった場合は、残念ですが説明は断念せざるを得ません。以後は削除依頼のほうでみなさんのご意見を参考にしていただくことになるかと思います。
ものすごく端的に言うと、「自殺した武士」というのは、以下のようなものと同じようなものになります。
「江戸時代のハイテク産業」「剣術に長けたインディアン」「生け花を趣味とした古代ギリシア人」・・・
武士の時代、そもそも「自殺」という言葉も、現代において「自殺」という場合に一般的に想起されるような概念もなかったのです。
したがって、「自殺した武士」という言葉じたい、そもそも滑稽な組み合わせなのです。もちろん、比喩的な言い方としてはシチュエーション次第ではあり得ないこともないでしょう。「江戸時代のハイテク産業」と同じように。「今でいうところの~にあたるもの」というようなニュアンスでは。
しかし、「自殺」の場合、現代でいうところの「自殺」にあたるような概念、それに該当する死に方をした武士、というのはほとんど皆無です。
切腹はどちらかというと刑死の一形態であり、場合によっては自己刑罰であったりします。「自殺」ではないのです。また戦場での自刃は、戦闘行為の一部であり、これも「自殺」ではないのです。
もう少し簡単なことをいえば、そもそも歴史学において、武士が「自殺した」という表現をすることはありません。
「織田信長は本能寺で自殺した」とか、「浅野内匠頭は庭先で自殺した」というような表現は間違いになります。
そういったことを総合的に踏まえていただくと、このカテゴリがどういう位置づけのものになるか、おわかりいただけるのではないかと思うのですが、いかがでしょうか。--Horlicks 2008年4月18日 (金) 02:55 (UTC)[返信]
Horlicksさんへ、ご意見解説ありがとうございます。
しかし違和感があります。
//武士の時代、そもそも「自殺」という言葉も、現代において「自殺」という場合に一般的に想起されるような概念もなかったのです。
とのことですが、武士が自殺することは本当になかったのでしょうか?
//「織田信長は本能寺で自殺した」とか、「浅野内匠頭は庭先で自殺した」というような表現は間違いになります。
これは私も理解範囲です。前者は要は、下克上の戦に負けて死んだだけですし、後者は法度と破ったために切腹を申し付けられただけという考えですね。
これは、線引きをどこにもってくるかの課題に帰着します。
この2つのタイプを自殺カテゴリーに入れるか、どちらかをカテゴリーから外すか、両方をカテゴリーから外すか、議論を尽くして合意形成するのがwikipediaだと認識しております。
その上で、武士が自殺することは本当になかったのでしょうか?
Horlicksさんは私よりもよほど歴史に詳しそうなのでおききしたいとおもいます。
Klesha以上のコメントは、Klesha会話投稿記録)さんが[2008年4月18日 (金) 15:40 (UTC)]に投稿したものです。[返信]
どの線引きをするかでモメちゃうようなカテゴリなんかは、いずれにせよ独自の研究にしかなりませんし、あるいは独自の価値判断の表明をめぐる戦いにしかなりませんから、機能しないということなんですよ。
浅野長矩は現時点で「自殺した武士」に繰り入れられているようですけどね。あれは、切腹という形式での死刑であり断じて自殺ではありません。ご本人が切腹をしたのか介錯人が首を撥ねたのかは今となってはわかりませんし、ご本人が切腹をしたのだとしてもしなければ介錯人が発動されちゃうんだったら「自殺をしない」という選択肢はなかったんで、断じて自発的な自殺ではありません。
んじゃなんだね。「他人を何人も殺せば死刑になると思った」という理由での粗暴殺人犯について、結果死刑になったとして、それは自殺なんでしょうか。あなたの価値基準で言えば、それらは自殺になっちゃうかもしれませんわね。
なんかしら「自殺」なるものに思い入れがあるのかもしれませんが、そういう個人的な思い入れをWikipediaに持ち込むのはやめて下さい。迷惑ですから。--Nekosuki600 2008年4月18日 (金) 17:14 (UTC)[返信]
まったく一人たりともいない、と断言するのは難しいでしょうね。ただ、百科事典で項目になるレベルの著名な武士に限定すれば、ほぼ皆無といって間違いではないと思います。少なくとも「一人例を挙げろ」と言われても私には思い当たりません。武士の死生観というのは、現代人とはまったく異なるといっても過言ではありませんし。--Horlicks 2008年4月18日 (金) 17:45 (UTC)[返信]
Category:自殺した漫画家」から来ました。詳細はKleshaさんの投稿履歴を参照すると、他にも死んだor殺された職業別カテゴリーを乱造していますが、職業別に作ってたらキリがありません(全員まとめるならまだ何とか判りますが)ここでの議論を見る限り、死んだor殺された職業別カテゴリーは全てまとめて削除依頼に出した方がいいと思います(実際ここを見つけるまでは、自殺した漫画家は削除依頼に出すつもりでした)Kleshaさんは新人の様ですが、カテゴリーの有意義な作り方が体で理解できるまで、カテゴリー作りは控えた方がいいでしょう。--こうやま 2008年4月18日 (金) 11:10 (UTC)[返信]
こうやまさんこんにちは。
議論の流れと全く異なる意見ですね。
自殺武士を残すのか削除するのかは「自殺武士」に固有の問題です。
「職業別カテゴリーを乱造」にはあたらない。英語版の自殺のcategoryを参照ください。もっと細分化されています。日本語版がもともと1つしかなかったのが異常な状態でした。
さて、それをご理解いただいた上で「自殺武士」の真面目な議論に参加ください。
ただし、上の論客たちの中でNekosuki600 さんはなぜか説明責任を放棄すると暴言しているのが気になりますが。
Klesha以上のコメントは、Klesha会話投稿記録)さんが[2008年4月18日 (金) 15:28 (UTC)]に投稿したものです。[返信]
説明責任というのは「最後のひとりまで納得させる責任」ではありませんよ。「過半数が納得する説明をする責任」は、もう果たしましたし。--Nekosuki600 2008年4月18日 (金) 15:37 (UTC)[返信]

Horlicksさんへ、ご意見の表明ありがとうございます。

武士が自殺することは本当になかったのでしょうか?との先の私の疑問に対しては、 「百科事典で項目になるレベルの著名な武士に限定すれば、ほぼ皆無といって間違いではない」ということでよろしいでしょうか?

Nekosuki600氏の説明放棄と独断専行する編集(ノートやCATEGORYなど)には疑問を感じますが、それなりのこだわりや意地をもってして行っているのでしょうね、このような型との共同作業は難しいと痛感します。

Klesha 2008年4月19日 (土) 13:10 (UTC)[返信]

はい、はっきり言って、あなたとおれとが共同作業をするのは極めて困難だと思います。
「自殺」なんてものは、古今東西、文化や時代によって全然違う捉えられ方をしているものであり、それを現在の視点から評価してもそれは現代POVにしかなりません。同一の評価基準が存在しない以上、「武士が(現代的な語義としての)自殺をしたことがあるか」という問いは、無意味です。それがどのように無意味であるのかを理解するためには、少なくともひとつは(できればより多くの)「自分が属している文化とは異なる文化からの視点」を持つ必要があるでしょうが、それは世界観の持ち方のようなもので、言葉で教えられるようなものではありません。
相手に説明を求めるより先に、あなたはもうちょっと自力でお勉強をすべきだと思います。なお、あなたが作った他の自殺関連カテゴリについても「精査すべきだ」という声が出ていることを申し添えておきます。共同作業を行う上での問題を抱えているのは、はたしてわたしなのでしょうか、それともあなたなのでしょうか。答えは、急ぎません。じっくり時間をかけてお考えになって下さい。--Nekosuki600 2008年4月19日 (土) 13:19 (UTC)[返信]
◆もう、エッセイ書いちゃう。
現代には「愛」という概念があります。なにかっつうと「至上のもの」みたいな評価をなされている概念です。だけどさー、明治時代になるまで、日本には、現代的な意味での「愛」という概念は、なかったという説があるんだよね。明治時代になり、横文字がそれなりに広まったとき、英語の「love」という言葉をどう訳すかでいろんなひとが悩んだ末に「愛」という漢字を使うというアイディアが出され、そこから現代的な「愛」という概念が広まり始めたのだ、と。
時代劇なんか見るでしょ。水戸黄門なんかでは、なにかっつーと愛し合う二人がいて、しかしそれを引き裂こうとするけしからん悪代官とかがいて、黄門さまが叱責するという展開になるわけですが、いやあ江戸時代にはそんな物語はなかったんすよ。というか、安珍清姫でも八百屋お七でもいいけど、現代風の意味合いでの「愛」というのは悲劇のネタであるか単なるわがままとして排斥されるべきものであるか、そういうもんだったのだ。「至上のもの」ではなかったのだなあ。メタファでしかないが、現代では至上のものとされる「愛」なる概念は、江戸時代には、現代では悪しきものとされる「性欲」みたいなイメージで捉えられていたのじゃないだろうか(あ、念のためですが、「江戸時代の愛=現代の性欲」説てのは、おれが勝手に唱えてるだけです)。
そのくらい、古今東西で、感覚は違うんだよ。時代によっても違うし、現代キリスト教的感覚と現代イスラム教的感覚も違う。現代共産主義的感覚と現代ティベット仏教的感覚も違う。それらは、しばしば相容れない。相容れないのだが、Wikipediaってのは、そういうものをなるべく多く包含することを求められるものなんだ。
より多くの感覚を包含して特定の視点に偏らないことが求められる世界で、「自殺」という現代日本語のイメージに寄りかかるような分類をすることにどういう意味があるんだろうか。プラスもマイナスもひっくるめてどういう意味があるんだろうか。そのことに思いが至らないのならば、Wikipediaの執筆には参加しないでほしいと、おれは思うのですよ。それは、あまりに偏狭な姿勢なのではありませんか。--Nekosuki600 2008年4月19日 (土) 13:32 (UTC)[返信]
◆返事がないのだが、まあおれ的にはなるべく穏当に問題を解決したいのだが、しかしこの路線でまだまだがんばられたりしたら厄介なので、さらなる追い討ちをかけておこうかとか思うわけです。あ、えーとなんだ、これはね、イジメとかやろうってんじゃなくて、世界をどう認識するかについての視点を提供しようとしてのことだから、そこらへんよろしく。
前におれ、こんなリバートをしたことがあるんですよ。
いやさあ。現代国家において「殺人」は重罪とされていると言っていいとは思うわけなのだが、しかしそれって、普遍的なことではないんだよね。また、「殺人」という単語にどういう意味を与えるかは、もうほとんど個人レベルで違うのだし。
今の日本では「殺人」は重罪とされており、犯罪の様態によってはフツーに死刑が求刑される刑罰ではある。だけど、歴史的には、そういうもんじゃなかったわけ。殺人が英雄的行為だった時代だってあるわけ。そもそも殺人の一種であるところの死刑ってやつが、今の自由刑みたいに期間を弾力的にすることで幅広く対応する刑罰であるという考えが生まれる前は、とても残虐な死刑から一瞬にして即死する死刑までの幅が、今でいうところの自由刑の期間の違いみたいな扱いをされてた時代すらあるくらいなんだ。
しょーじき、「殺人の重さや位置づけ」「死刑の持つ意味や死刑の中での扱いの違い」なんて、ハシクレ法律屋としてのおれからは、想像ができんとですよ。でも、そういう時代は、あったわけ。
そういうことにまで思いを至らせる力を、われわれは求められているのだ。それはかなり高いハードルだが、ぼくらはクリアしなくちゃいけないんだ。Kleshaさんって、そのあたりのことをどう考えているのかなぁ。--Nekosuki600 2008年4月20日 (日) 15:37 (UTC)--Nekosuki600 2008年4月20日 (日) 16:06 (UTC)(修正。途中で殺人の話が死刑の話にすりかわっていたので、そこを直した)[返信]