BETASOM

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BETASOM第二次世界大戦中にイタリア海軍(イタリア王立海軍:Regia Marina Italiana)が ボルドーに設置した潜水艦基地であり、1940年から1943年にかけて大西洋の戦いに出撃したイタリア海軍潜水艦の母港である。この名称の前半のBETAはボルドー(Bordeaux)の頭文字をギリシャ文字と見て符牒化したもの、後半のSOMはイタリア語で潜水艦(潜水艇)を意味するsommergibileの最初の3文字をとったものである。

設立

枢軸国海軍の協力は、1939年6月フリードリヒスハーフェンにおいて鋼鉄協約(Pact of Steel)及び技術交換協定が締結されてから始まった。イタリアの参戦及びフランスの降伏の後、イタリア海軍はドイツのフランス占領地域であるボルドーに潜水艦基地を設立した。イタリア海軍にはリスボンより南の大西洋(場合によってはフリータウン沖まで)が哨戒海域として割り当てられた。基地は1940年8月に開設され、1941年に接収したフランス旅客船ド・グラースを1942年6月にヴィシー・フランス政府に返還するまで潜水母船として使用した。 ドイツ海軍(Kreigsmarine)の潜水艦隊司令(Befehlshaber der Unterseeboote)カール・デーニッツ提督の統制下でイタリア海軍のアンジェロ・パローナ提督がBETASOM所属の潜水艦の指揮を執った。BETASOMには約1,600名が所属していた[1][2]。 基地は最高時には潜水艦30隻が母港とし、乾ドック閘門を持つ泊渠を2基備えていた。陸上の兵舎は警備にあたったサン・マルコ連隊250名を収容した。2番目の基地はラ・ロシェルのラ・パリス(La Pallice)に設置された[3]。この第2の基地により、ボルドーではできなかった水中訓練ができるようになった。

作戦行動の概略

1940年6月から、イタリア潜水艦3隻がカナリア諸島マデイラ諸島沖をさらに3隻が続いてアゾレス諸島沖を哨戒した。これらの哨戒は無事に終わり、6隻の潜水艦はボルドーの新基地へ帰還した。イタリア潜水艦は初期には ウェスタン・アプローチを哨戒海域として割り当てられていたが、同盟国ドイツ潜水艦隊にはあてにされていなかった。デーニッツはイタリア潜水艦隊について現実主義的な見方をしていて、彼らは経験が浅いものの偵察には使え、さらに経験を積んでいけるものと考えていた[4]

けれども、イタリア潜水艦は輸送船団を発見しても見失い、的確な報告を行なうこともできなかった。こういった状況だったので、デーニッツは失望させられてしまった。気象情報の通報を指示しても(ドイツ、イタリア双方とも戦果をあげるのに重要な情報であるにもかかわらず)これも的確にはできなかった。デーニッツはドイツ側の作戦行動が阻害されないために、再度イタリア側の作戦行動海域として大西洋の南側を割り当て、独自に行動させることとした。この方式により、30隻のイタリア潜水艦はこの方面全体の戦況に影響するほどではなかったものの、戦果をあげることができた[4][5]

イタリア潜水艦バルバリーゴ

ドイツ側のイタリア潜水艦に対する評価は低く、デーニッツは「規律は不十分」で「敵の面前で冷静になれない」と述べている。イギリスのタンカー「ブリティシュ・フェイム」がイタリア潜水艦「マラスピーナ」により攻撃されたときに、「当直士官と見張り員はブリッジでそして船長は下の多くのデッキチェアで居眠りをしていた」。この時に5本魚雷を発射してタンカーを沈めたが、タンカーから1発砲撃が行なわれ「マラスピーナ」は被害を受けず潜行した。その後、潜水艦はタンカーの救命ボートを救助、曳航した。その行為自体は賞賛に値するものであったが、デーニッツの出した「潜水艦は沈めた現場を離れ、24時間戦闘態勢をとれ」という指令に背くものだった[4]

BETASOMに所属していた潜水艦は戦果をあげていたが、それがデーニッツの期待を満たしていない理由は明らかだった。1940年11月30日までに、大西洋で1隻のイタリア潜水艦が沈めた船の1日当たりの平均総トン数は20トンだった。同じ期間を比較すると、ドイツのUボートが沈めたものは1隻当たり1日の平均総トン数は1,115トンに達した[6][7]

BETASOM所属の7隻の潜水艦(バニョーリ、バルバリゴ、カッペリーニ、フィンジ、ジュリアーニ、タッツオーリ及びトレッリ)が大日本帝国海軍との間の共同作戦並びに軍需物資の輸送のために改造された。その内の2隻は、日本軍の占領区域に向かう途中で連合国軍により沈められ、日本軍の占領地域で共同作戦の任務に就いた3隻は1943年9月のイタリアの講和後に、日本海軍との共同作戦のために派遣されていたペナンにおいて日本海軍とドイツ海軍により接収され、以後ドイツ海軍によって使用された。

その後1隻はドイツ海軍による作戦活動中にイギリス海軍の潜水艦により沈められ、残る2隻は1945年5月ドイツの降伏により、ペナンにおいて日本海軍に接収され終戦までの間使用された。残る2隻はボルドーでドイツ海軍に接収されたが、その後は使用されなかった[8][9]

ドイツUボートの活動

デーニッツ提督は1941年夏に防空施設のUボート・ブンカーをボルドーに構築することを決め、1941年9月に建設に着手した。強固なコンクリートの構造で、幅245m、長さ162m、高さ19mで、屋根の厚さは繋留部分の上で5.6m、背後の整備区域の上で3.6mだった。

1942年10月15日にドイツ海軍第12Uボート戦隊がクラウス・ショルツ少佐を司令にボルドーで設立された。

1943年1月17日にU-178が最初に基地のブンカーを使った[10]

作戦の終わり

基地はイギリス軍により何回か爆撃を受けた[11][12]

1943年9月のイタリアの講和後に基地はドイツ軍に接収された。一部のイタリア兵はイタリア社会共和国とは無関係にドイツ軍に加わった。この期間中手持ちのイタリアの切手にはムッソリーニの国家への忠誠を見せる加刷が行なわれた[13]

最後まで残った2隻のUボートは1944年8月にボルドーを離れた。これは連合国軍が基地を占領する8月25日の3日前のことだった。 最後に残ったドイツ海軍兵はドイツ本国へ帰還しようと試みたが、1944年9月11日にアメリカ合衆国軍の捕虜となった。

BETASOMから作戦を行なった潜水艦のリスト

1940年、28隻すべてのイタリア潜水艦は最初に地中海の基地からジブラルタル海峡を経由して大西洋に入りBETASOMを基地とした。28隻全部が事故もなく到着した。

1941年、別の4隻のイタリア潜水艦はイタリア領東アフリカ(Africa Orientale Italiana, 又は AOI)を基地としていたが、東アフリカ戦線で植民地を失った後、基地に到着した。4隻全部が、喜望峰回りでBETASOMへとたどりついた。

1940年に地中海から派遣されてきた艦

  • アレッサンドロ・マラスピーナ(Alessandro Malaspina)
  • エンリコ・タッツオーリ(Enrico Tazzoli)
  • ピエトロ・カルヴィ(Pietro Calvi)
  • ジュゼッペ・フィンジ(Giuseppe Finci)
  • バニョーリ(Bagnoli)
  • ジュリアーニ(Giuliani) (この艦は短期間イタリア海軍の潜水艦乗組員に対しドイツ海軍の技術を習得させる目的でグディニャへ派遣された。)
  • タランティーニ(Tarantini)
  • グリエルモ・マルコーニ(Guglielmo Marconi)
  • レオナルド・ダ・ヴィンチ( Leonardo da Vinci)
  • ルイージ・トレッリ(Luigi Torelli)
  • マッジョーレ・バラッカ(Maggiore Baracca)
  • マルチェッロ(Marcello)
  • ダンドーロ(Dandolo)
  • モチェニーゴ(Mocenigo)
  • ヴェニエーロ(Veniero)
  • バルバリーゴ(Barbarigo)
  • ナーニ(Nani)
  • モロシーニ(Morosini)
  • エーモ(Emo)
  • コマンダンテ・ファア・ディ・ブルーノ(Comandante Faà di Bruno)
  • コマンダンテ・カッペリーニ(Comandante Cappellini)
  • ミケーレ・ビアンキ(Michele Bianchi)
  • ブリン(Brin)
  • グラウコ(Glauco)
  • オタリア(Otaria)
  • アルゴ(Argo)
  • ヴェレッラ(Velella)

1941年夏の間に紅海艦隊から移動してきた艦

  • アルキメーデ(Archimede)
  • ペルラ(Perla)
  • グリエルモッティ(Guglielmotti)
  • ガリレオ・フェッラーリ(Galileo Ferraris)

1941年、一部の潜水艦が地中海に戻ることとなった。ペルラ、グリエルモッティ、ブリン、アルゴ、ヴェレッラ、ダンドーロ、エーモ、オタリア、モチェニーゴ及びヴェニエロ・グラウコの10隻が移動したが、そのうちのグラウコはイギリス海軍によって沈められた。

1942年にはアミラリオ・カーニ(Ammiraglio Cagni)が派遣されてきた。

第二次世界大戦後

Uボート・ブンカーは爆弾の衝撃にも耐えられるように設計された大規模な補強工事が施されていて、解体することが不可能だった。

数年前から42,000平方メートルの内の約12,000平方メートルに舞台芸術、展示会あるいは夜のイベントのために文化センターを建設するために改修されていて、2010年に公開された。

脚注

  1. ^ D'Adamo, Cristiano (1996-2008). “BETASOM”. REGIAMARINA. 2008年12月19日閲覧。(元記事) 
  2. ^ D'Adamo, Cristiano (1996-2010)."BETASOM". REGIAMARINA. 2010年11月11日閲覧。
  3. ^ uboat bases La Rochelle / La Pallice, France uboat.net 2010年11月11日閲覧
  4. ^ a b c Ireland, Bernard (2003). Battle of the Atlantic. Barnsley, UK: Pen & Sword Books. pp. 51–52. ISBN 1-84415-001-1 
  5. ^ 大西洋においてイタリア海軍の32隻の潜水艦により連合国の船舶は合計109隻593,864トン沈められた。
  6. ^ Piekałkiewicz, Janusz. Sea War: 1939-1945. Blandford Press, London - New York, 1987, pg. 106, ISBN 0-7137-1665-7
  7. ^ レオンス・ペイヤール(Léonce Peillard)著 『潜水艦戦争 1939-1945 上』 長塚隆二訳、早川書房(ハヤカワNF文庫)、1997年、pp.149-153 ISBN 4-15-050215-3
  8. ^ Rosselli, Alberto. “Italian Submarines and Surface Vessels in the Far East: 1940-1945”. Comando Supremo. 2009年1月7日閲覧。
  9. ^ レオンス・ペイヤール(Léonce Peillard)著 『潜水艦戦争 1939-1945 下』 長塚隆二訳、早川書房(ハヤカワNF文庫)、1997年、pp.99-108 ISBN 4-15-050216-1
  10. ^ 12th Flotilla uboat.net 2010年11月12日閲覧。
  11. ^ D'Adamo, Cristiano (1996-2007). “The Bombardments of Bordeaux and the Italian submarine base "BETASOM"”. REGIAMARINA. 2009年1月7日閲覧。(元記事)
  12. ^ D’Adamo, Cristiano (1996-2010). “The Bombardments of Bordeaux and the Italian submarine base “BETASOM””. REGIAMARINA. 2010年11月12日閲覧。
  13. ^ Stamps of the Italian Socialist Republic - The Atlantic Base

外部リンク

参考文献

  • レオンス・ペイヤール(Léonce Peillard)著 『潜水艦戦争 1939-1945 上』 長塚隆二訳、早川書房(ハヤカワNF文庫)、1997年、ISBN 4-15-050215-3
  • レオンス・ペイヤール(Léonce Peillard)著 『潜水艦戦争 1939-1945 下』 長塚隆二訳、早川書房(ハヤカワNF文庫)、1997年、ISBN 4-15-050216-1

関連項目