金日テイ

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本来の表記は「金日磾」です。この記事に付けられた題名は記事名の制約から不正確なものとなっています。

金 日磾(きん じつてい、紀元前134年 - 紀元前86年9月)は、翁叔で、前漢匈奴系政治家である。匈奴の休屠[1]王の太子である。漢武帝より金姓を賜る。

略歴[編集]

姓名 金日磾
時代 前漢
生没年 前134年 - 前86年
翁叔
墓所 茂陵の近くにある陪葬墓
官位 侍中馬都尉、光禄大夫、車騎将軍、列侯
主君 武帝
氏族
父母 父:休屠王 母:閼氏
金賞、金建ほか

紀元前121年春、驃騎将軍霍去病は一万騎を率いて、匈奴討伐に出征した。戦いは連戦連勝であった。河西地域にいた休屠王と渾邪王の部族と戦い、休屠王が天を祭るために用いていた黄金の像(金人)を手に入れた。同年秋、休屠王と渾邪王は漢に投降することを画策し漢にその旨を伝えた。そのため漢は霍去病を彼らの迎えに派遣した。しかし休屠王は後になって投降をためらったので、渾邪王は休屠王を殺した。渾邪王は四万人の匈奴と休屠王の太子を率いて投降した。武帝は匈奴を裏切った渾邪王を列侯に封じた。14歳の休屠王の太子(日磾)とその身内は官奴となり、母親の閼氏(休屠王の妻)、弟の倫とともに黄門に連れていかれ、馬番をするようになったが、武帝は身長が8尺2寸[2]という、立派な風格と威厳ある容貌を見初め、馬監とした。日磾は大変聡明な人で、次に侍中駙馬都尉、光禄大夫となった。次第に信頼を得て、武帝の近侍臣にまでなった。

彼は休屠王が天を祭るために用いていた金人[3]にちなんで、武帝から金という姓を賜った。金日磾の母は人徳者で、武帝はその美徳をとても感心していたが、病没すると、武帝は甘泉宮に休屠王の妻の絵を展示させた。金日磾は毎日母の肖像画に向かい、泣きながらひざまずいて祈り、黙祷した。宮廷生活も数十年となった。金日磾は武帝から宮女を賜ったが、金日磾は彼女に近づこうとしなかった。また武帝は、その女を後宮に入れようとしたが、金日磾は応じようとしなかった。金日磾の二人の子供は武帝の寵童となったが、成長するに従い、武帝の頭を抱えるような狼藉を働くようになり、長男は宮廷の女官をたぶらかすようになったので、金日磾は彼を殺した。当初武帝はそれを怒ったが、彼と話し、金日磾の誠実で忠義な人柄を改めて知った武帝は、彼を罪に問うことはなく、ますます信頼するようになった。

紀元前91年に江充・戻太子劉拠の事件が勃発した。その後紀元前88年6月に金日磾は江充の親友だった馬何羅らが、武帝を暗殺しようと企てた時にいち早く察知し、馬何羅を格闘の末に捕らえた。これにより忠節を称えられるようになった。

金日磾は、自分が漢人ではなく匈奴であったこともあって慎み深く、あくまで慎重だった。紀元前87年に武帝は亡くなった。武帝は病床に霍光、金日磾、上官桀の三人を呼び寄せ、昭帝を補佐するよう後事を託した。霍光は当初金日磾に昭帝補佐の地位を譲ろうとした。これに対して、金日磾は、「私は外国人です。そんなことをすれば漢は匈奴に軽んじられます。」といって拒否し、霍光の補佐となった。霍光は大司馬大将軍、金日磾は車騎将軍、上官桀は左将軍となった。

しかし金日磾は、昭帝が即位して1年あまり後の、紀元前86年9月に亡くなっている。彼は死ぬ直前の病気の床で列侯(秺侯)に封じられ、死後敬侯とされた。彼は死後、武帝の墳墓である茂陵の近くに埋葬された。

列侯は子の金賞が継承した。金賞および弟の金建は昭帝と年が近く、昭帝と寝起きを共にした。また、金日磾の弟金倫は黄門郎となったが早死にし、金倫の子である金安上以降になって栄えた。

後漢末金旋金禕父子は金日磾の末裔である[4]

脚注[編集]

  1. ^ 甘粛省武威県の北
  2. ^ 当時一尺は23.2cmなので190cm。
  3. ^ 『漢書』張晏注釈では「佛徒祠金人也」(金人とは西域から得た仏像のこと)としている
  4. ^ 三国志』「魏志」武帝紀が引く『三輔決録』より。

参考文献[編集]

関連項目[編集]