自動車大競走 (1922年)

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日本自動車競走大会 > 自動車大競走 (1922年)
自動車大競走
(第1回日本自動車競走大会)
開催概要
優勝カップと内山駒之助
主催 報知新聞社[注釈 1]
開催日 1922年11月12日(日)
開催地 大日本帝国の旗 大日本帝国
東京府東京市深川区 洲崎第1号埋立地
コース形式 仮設オーバルトラック非舗装
コース長 1マイル(約1.6 km)
天候 好天(好晴[3]
観客数 約3万人[3][4]もしくは約5万人[5]
入場料 普通席30銭、特別席50銭[6][7][注釈 2]
結果
優勝 内山駒之助 (スチュードベーカー) ※協議により決定

第2回大会 (洲崎) »

1922年大正11年)11月の自動車大競走(じどうしゃだいきょうそう)は、日本東京市洲崎において開催された四輪自動車レースである。日本自動車競走大会の第1回大会にあたる。

概要[編集]

1930年代まで開催されることになる日本自動車競走大会の第1回大会であり、しばしば「日本における最初の(本格的な)自動車レース」に位置付けられる(諸説あり)[8][9][10][W 1]。当時も「日本初の自動車レース」という触れ込みで開催された[11]

主催者である報知新聞社報知新聞)による宣伝が奏功し、当日は3万人とも5万人とも言われるほどの観客が来場した[3][5]

しかし、警察の横槍により複数台を同時に走らせて競走させることはできず、1台ずつタイムアタックを行って競うタイムトライアル形式での開催となった。(→#レース内容

開催に至る経緯[編集]

1922年(大正11年)2月、米国で自動車事業を営んでいた藤本軍次が帰国した[12]。藤本は米国における1910年代の自動車産業の発展を目の当たりにしていたことから、日本でも自動車産業を発展させるには自動車レースの開催が不可欠だと考えていた。そうして、藤本は日本の自動車関係者たちに働きかけるとともに、報知新聞社の賛同も得て、本大会の開催にこぎつけた。

常に社会的進運に伴うよう志している本社は今度日本に初めての自動車大競走を主催することに致しました。進化せる交通機関としての自動車を以て競走を行うことは欧米では既に行われ我国でも自転車やオートバイの競走は行われましたけれど未だかつて自動車競走は行われませんでした。本社はかくて優秀な選手と優良な競走用自動車とを以て我が自動車界の刺激と啓発とに資するため規模は小さくても成績は飽迄も実質的レコード的なものでありたいと望んで居ります。[1] — 報知新聞による告知

この第1回大会を開催するにあたっては、警視庁内務省)に許可申請を行ったところ、「もっと社会的地位のある人を連れてこい」と言われたため、経済学者の大田正孝に仲介してもらうなどの苦労があった[13][14]。警察とは当日も開催形式を巡って悶着が生じることになる。(→#警察による横槍と開催形式の変更

会場[編集]

1921年(大正10年)にかけて造成された洲崎埋立地(洲崎第1埋立地)が開催地となった[注釈 3]。開催当日の天気は良かったものの、関係者からは「不完全極まるトラック」(下記の論評)と評され[3]、コースの劣悪さは以降の大会でも問題として抱え続けることになる。

会場となった洲崎埋立地には小栗常太郎の小栗飛行学校が置かれており、普段は飛行場として使用されていた。

洲崎は当時の東京市電の東の終点となっており[15]、会場へのアクセスは良かった。

参加者・参加車両[編集]

参加車両について、『日本自動車工業史稿』の記述に基づいて屋井三郎のマーサー、内山駒之助のチャルマー、藤本軍次のハドソン、関根宗次のプレミアの「4台」が参戦したとされていたが[16][5]、2000年代以降の調査研究では、マーサー、ハドソンのほか、テルコ・ビッドル、スチュードベーカー、フランダー、ロコモビル、オークランドを加えた「7台」が参加したとされている[6][17][注釈 4]下表を参照)。

大会の2日前に報知新聞に掲載された出場者8名には内山駒之助、関根宗次、丸山哲衛の名はなく、参加は直前に決まったと考えられている[19]。内山は出場するよう自分が誘われたのは開催前日だと述べている[19]

運営関係者[編集]

エントリーリスト[編集]

車番 ドライバー ライディングメカニック 車両 補足
登録名 実際の車両
1 諫早不二雄[6] 林武蔵 ビッドル号 テルコ・ビッドル 野澤三喜三の立川工作所(テルコ)の車両[19]。第5レースのみ諫早に代わって杉本がドライバーを務めている[3]
杉本(名前不明)[17]
2 屋井三郎[6] 関根宗次 マーサー号 マーサー英語版 この車両は1915年の自動車大競走会に際して日本に持ち込まれた車両で、野澤三喜三が買い取り、さらに屋井が野澤から買い取った[19]
関根は第2回以降はドライバーとして名を馳せることになるが、この大会では屋井の助手として参加した[19]
伊達秀造[22]
4 藤本軍次 伊藤季九郎 ケース号 ハドソン この「ケース号」は藤本が9月に下関~東京間で行った急行列車との競走に使用した車両[17][注釈 5]
5 森屋縫之助 沢野健次郎 フランダー号 (不明)[注釈 6] 森屋、沢野はライオン商会の人物[18]
6 森田捨次郎 松岡晋 ロコモビル号 ロコモビル英語版 森田はライオン商会の人物[18]
7 丸山哲衛 菅原敏雄 オークランド号 オークランド英語版
8 内山駒之助 齊藤猛雄 スツードベーカー号 スチュードベーカー 内山はタクリー号の設計者。当時は自動車修理業をしていたが、レース前日に藤本軍次から電話で連絡があり、急遽参戦した[19]
出典: [6][17]
  • ※ カーナンバー(車番)については明示された記録は確認されていないが、当時の『報知新聞』の記事で「(一)ビッドル (二)マーサー (三)マーサー (四)ケース (五)ハップ (六)ロコモビル (七)オークランド」となっており[18]、それに基づいて番号を振っている。これはドライバーの姓のいろは順であり、欠番となっている「3」に該当するのは事前の広告で名がある「矢野勤弥」ということになる[注釈 7]。レース前日に参加を打診されて急遽参加することになった内山はその限りではなく、この大会における内山のカーナンバーが8だったことは当時の写真からも推定されている[23]

レース内容[編集]

予定していた開催形式[編集]

元々は、下記の形式で開催される予定だった[18]

  • 第1レースから第3レース: 3マイル(3周)の予選レース。
  • 第4レース: 10マイル(10周)。第3レースまでの1着と2着によるレース。
  • 第5レース: 10マイル(10周)。第3レースまでの3着以下によるレース。
  • 決勝レース: 25マイル(25周)。各レースの上位者によるレース。この勝者が優勝者となる。

警察による横槍と開催形式の変更[編集]

しかし、開始直前に警視庁が「2台以上の同時走行はまかりならん」と主張したため、主催者である報知新聞社との間で悶着が生じることになる[4][24][注釈 8]

いつまで経ってもレースが始まらず、集まった観衆が主催者に詰め寄る事態となり、報知新聞社の企画部長である煙山二郎は表向きは「練習」という扱いにして開催を進めることを決断する[4][24]

こんなに観客を集めて置きながら一体なにごとだ! 新聞社主催なのだから、警察が許可してくれないぐらいのことで、勝手に観客は追い返せない。今日は練習ということにして、無料で入ってもらったらどうだ。無料なら警察は取り締まれないのだから[4][24] — 警察の対応に抗議して煙山二郎が放った一言

この決断は主催者と警察のやり取りを見ていた観衆から喝采を浴びたが[4][24]、複数の自動車による同時スタートはできなかったため、やむなく1台ずつ1分おきにスタートするタイムトライアルとして開催された[16][13][5][27][28]

このような開催形式となったため、この大会を「日本における最初の自動車レース」と呼んでよいかは疑問の余地もあると指摘されている[28]

レース結果[編集]

回 (距離)
1周=約1マイル
1着 2着 3着
ドライバー 車両の登録名 タイム ドライバー 車両の登録名 タイム ドライバー 車両の登録名 タイム
第1回 (3マイル) 内山駒之助 スツードベーカー号 4:43 諫早不二雄 ビッドル号 4:52 森屋縫之助 フランダー号 6:43
第2回 (3マイル) 藤本軍次 ケース号 4:03 屋井三郎 マーサー号 4:07 森田捨次郎 ロコモビル号 4:13
第3回 (10マイル) 丸山哲衛 オークランド号 15:35 諫早不二雄 ビッドル号 16:15
第4回 (10マイル) 内山駒之助 スツードベーカー号 15:15 藤本軍次 ケース号 15:37
第5回 (5マイル) 森田捨次郎 ロコモビル号 7:13 杉本 ビッドル号 7:42
出典: [3]
  • 10マイルのタイムアタック(第4回)で内山が最速の15分10秒台を出したことが内山に優勝カップを贈る決め手となった[3]

レース結果の扱い[編集]

我が国最初の試みであり不完全極まるトラックに於いて行ったものとしてはかなり好成績であるといえる。ただ遺憾であったのは自動車を並べての競争を許さず已むなくタイムレースということにした事である。私の見る所では自動自転車とは異なりハンドルを取られたり滑ったりすることは少ないから危険は殆どなく、あのトラックでも四台は並べて充分走り得る余地があるが少なくとも二台は競走することを許されたかった。[3]

—審判長を務めた小林吉次郎によるレース評(1922年)

レースは行われなかったが、優勝者に贈られる「報知杯」の立派な優勝トロフィーを用意していたため、協議の結果、内山駒之助に贈られた[16][29][19]。これは内山の業績を踏まえたもので、内山はタクリー号の開発者で日本の自動車業界の先駆者であることや、この大会におけるタイムも優れていたことが考慮された[16][29][19]

レース後[編集]

後日、藤本のハドソン(ケース号)に興味を持った山階宮武彦王は藤本らを自邸に招き、同車とともに参内した藤本らは武彦王から同車について下問を受けた[30][31]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 当時の記事で、主催者名は(報知社ではなく)「報知新聞社」と明記されている[1][2]
  2. ^ 「会費」の名目で料金を徴収した[6][7]東京市電の片道料金が7銭だった当時の物価と比較して、それほど高価ではなかったと考えられている[7]
  3. ^ 2022年現在の地名では、江東区塩浜2丁目の西寄りにあたる[15]
  4. ^ 開催当時の『報知新聞』記事でも7台が参加と記されている[18]。他に『史稿』の記述が実際と異なる点として、開催直前に呼び出された内山はこの大会にレース仕様の車(チャルマー)を間に合わせることはできておらず、関根もこの大会で運転はしていない。
  5. ^ 車種は1915年の自動車大競走会で使用されたケース英語版という説もある[6]
  6. ^ 車種について明示した記録は確認されていないが、開催前の新聞記事では「ハップ」とあり[18]ハップモビル英語版の可能性がある。
  7. ^ 広告でドライバーの名がいろは順で記載されており、大会前日の広告までは矢野の名があるが、実際のレースでは記録の中に名が見えない。
  8. ^ 警察がそう要請した理由は定かではないが、同じ埋立地で1週間前にオートバイによるレースが開催されており、その際に事故が多発しており[25]、観客を負傷させる事故も起きていたことで、警察が神経質になっていたためと推測できる[26](小林吉次郎による下記のレース評も二輪レースで起きた事故の影響があった事情を滲ませている[26])。

出典[編集]

出版物
  1. ^ a b 『報知新聞』大正11年(1922年)11月10日・朝刊 3面
  2. ^ 戦前日本の自動車レース史(三重2022)、p.70
  3. ^ a b c d e f g h 『報知新聞』大正11年(1922年)11月13日・朝刊 11面
  4. ^ a b c d e f g 自動車ジュニア、「日本に芽生えた自動車レース その歴史と生い立ち」 pp.44–55中のp.46
  5. ^ a b c d サーキットの夢と栄光(GP企画センター1989)、p.16
  6. ^ a b c d e f g h 戦前自動車競走史-4 日本自動車競走倶楽部の活動と藤本軍次、『Old-timer』No.72(2003年10月号)
  7. ^ a b c 戦前日本の自動車レース史(三重2022)、「普通席30銭、特別席50銭」 p.67
  8. ^ Super CG No.11(1991年)、「本田宗一郎氏とカーチス・レーサー」(小林彰太郎) pp.49–55
  9. ^ 日本自動車史年表(GP企画センター2006)、p.18
  10. ^ トヨタ モータースポーツ前史(松本2018)、p.20
  11. ^ “Local and General” (英語). The Japan Times & Mail: p. 8. (1922年11月10日) 
  12. ^ 戦前日本の自動車レース史(三重2022)、「藤本軍次年譜」 pp.268–276
  13. ^ a b 自動車ジュニア、「日本に芽生えた自動車レース その歴史と生い立ち」 pp.44–55中の小林吉次郎・談話(pp.49–50)
  14. ^ 戦前日本の自動車レース史(三重2022)、「もっと社会的地位のあるものを」 p.113
  15. ^ a b 戦前日本の自動車レース史(三重2022)、「洲崎第1号埋立地」 pp.66–p.67
  16. ^ a b c d 日本自動車工業史稿 第2巻(1967)、p.616
  17. ^ a b c d 戦前日本の自動車レース史(三重2022)、「記録に見えるのは7台」 pp.82–p.83
  18. ^ a b c d e f 『報知新聞』大正11年(1922年)11月12日・朝刊 11面
  19. ^ a b c d e f g h i j 戦前日本の自動車レース史(三重2022)、「大御所から名士まで」 pp.83–p.86
  20. ^ 戦前日本の自動車レース史(三重2022)、「名誉会長は陸軍大佐」 p.93
  21. ^ a b 戦前日本の自動車レース史(三重2022)、「三人の審判」 pp.115–116
  22. ^ 戦前日本の自動車レース史(三重2022)、「結果的には黙認」 pp.113–p.114
  23. ^ 戦前日本の自動車レース史(三重2022)、p.84
  24. ^ a b c d 戦前日本の自動車レース史(三重2022)、「練習ということにして」 pp.114–p.115
  25. ^ “Motor cycles races marred by accident” (英語). The Japan Times & Mail: p. 8. (1922年11月6日) 
  26. ^ a b 戦前日本の自動車レース史(三重2022)、「1週間前に」 pp.79–p.80
  27. ^ 日本の自動車レース史(杉浦2017)、p.13
  28. ^ a b 戦前日本の自動車レース史(三重2022)、「「社会的地位」を発揮」 p.115
  29. ^ a b サーキットの夢と栄光(GP企画センター1989)、p.17
  30. ^ 戦前日本の自動車レース史(三重2022)、p.73
  31. ^ 戦前日本の自動車レース史(三重2022)、「山階宮のお召し」 p.74
ウェブサイト
  1. ^ 多摩川スピードウェイ――自動車競走の時代 (1936年)”. Gazoo (2017年1月13日). 2020年11月22日閲覧。

参考資料[編集]

書籍
  • 自動車工業会『日本自動車工業史稿』 第2巻、自動車工業会、1967年2月28日。ASIN B000JA7Y64NCID BN06415864NDLJP:2513746 
  • 桂木洋二 (編)『日本モーターレース史』グランプリ出版、1983年7月25日。ASIN 4381005619ISBN 978-4381005618NCID BN13344405 
  • GP企画センター編『日本自動車史年表』グランプリ出版、2006年9月20日。ASIN 4876872864ISBN 4-87687-286-4NCID BA78543700 
  • 杉浦孝彦『日本の自動車レース史 多摩川スピードウェイを中心として』三樹書房、2017年4月17日。ASIN 4895226670ISBN 978-4-89522-667-7NCID BB23601317 
  • 松本秀夫『トヨタ モータースポーツ前史 トヨペット・レーサー、豪州一周ラリーを中心として』三樹書房、2018年4月18日。ASIN 4895226875ISBN 978-4-89522-687-5NCID BB26001407 
  • 三重宗久『戦前日本の自動車レース史 藤本軍次とスピードに魅せられた男たち』三樹書房、2022年4月20日。ASIN 4895227723ISBN 978-4-89522-772-8NCID BC14200480 
雑誌 / ムック
  • 『自動車ジュニア』
    • 『1965年4月号』創進社、1965年4月1日。 
  • 『SUPER CG(スーパーカーグラフィック)』誌(NCID N10240008
    • 『No.11』二玄社、1991年11月15日。 
  • Old-timer』各号中の記事
    • 岩立喜久雄「轍をたどる(21) 戦前自動車競走史-4 日本自動車競走倶楽部の活動と藤本軍次」『Old-timer』第72号、八重洲出版、2003年10月1日、166-173頁。 
新聞
自動車大競走
(第1回日本自動車競走大会 / 1922年11月・洲崎埋立地)
第2回大会
(1923年4月・洲崎埋立地)