百地丹波
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
百地 丹波(ももち たんば、永正9年(1512年) - 天正9年(1581年)?)は、戦国時代の忍者。伊賀流忍術の祖とされる。百地 三太夫(ももち さんだゆう)とも呼ばれるが、近年では両人は別人で、三太夫は丹波の孫ともいわれている。父は百地清右衛門。名は泰光とも正西ともあり曖昧。
[編集] 経歴
名張中村の出身で、表面上は伊賀一帯を仕切る土豪だったが、裏では伊賀忍者の上忍で、伊賀忍者を統括する3人組の一人であったといわれている。天正年間には、伊賀一帯にその勢力を広げて、最盛期を築き上げた。
この忍者の実力に脅威を覚えた織田信長は、次男の織田信雄に命じて天正7年(1579年)に伊賀攻めを行わせた。信雄の拙い指揮もあって織田軍を撃退したが、天正9年(1581年)に信長自ら5万の大軍を率い侵攻を受ける。これに対して丹波は、柏原の砦に籠もって抵抗したが、衆寡敵せずに多くの一族と共に戦死した(天正伊賀の乱)。ただし、文禄4年(1595年)くらいまで存命していたという異説もある。なお、この乱の後、「ち」が血に通じることを嫌って、一族は「ももち」の読みを「ももじ」に改めたとされ[1]、現在でも当地では「ももじ」と読まれている。
石川五右衛門は丹波の弟子という説があるが、五右衛門に妻を奪われたうえ、その妻にそそのかされた五右衛門によって愛妾を殺害されるなど、散々な関係にあったといわれている。