王憲ゲン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
本来の表記は「王憲嫄」です。この記事に付けられた題名は記事名の制約から不正確なものとなっています。
この項目には、一部のコンピュータや閲覧ソフトで表示できない文字が含まれています詳細

王憲嫄(おう けんげん、428年 - 464年)は、南朝宋の孝武帝劉駿皇后本貫琅邪郡臨沂県

経歴[編集]

王偃の娘として生まれた。443年元嘉20年)、武陵王妃に封じられた。劉駿の寵愛を受け、前廃帝劉子業・豫章王劉子尚・山陰公主劉楚玉・臨淮康哀公主劉楚佩・皇女劉楚琇・康楽公主劉修明を産んだ。453年元嘉30年)2月、劉駿が劉劭を討つと、憲嫄は路恵男とともに尋陽に留まった。5月、反乱が平定されると、憲嫄は建康に入って、皇后に立てられた。

460年大明4年)3月、憲嫄は六宮を率いて西郊で躬桑の儀式をおこない、皇太后の路恵男がその儀礼を観覧した。464年(大明8年)閏5月に劉子業が即位すると、7月に憲嫄は皇太后となり、永訓宮と称された。8月23日、含章殿で死去した。享年は38。9月、景寧陵に陪葬された。は文穆皇后といった。

伝記資料[編集]