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'''時宗'''(じしゅう)は、[[鎌倉時代]]末期におこった[[浄土教]]の一宗派。開祖は[[一遍]]。総本山は[[神奈川県]][[藤沢市]]の[[清浄光寺]](通称''遊行寺'')。
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'''時宗'''(じしゅう)は、[[鎌倉時代]]末期におこった[[浄土教]]の一宗派。開祖は[[一遍]]。総本山は[[神奈川県]][[藤沢市]]の[[清浄光寺]]''通称遊行寺''。なお、他宗派同様に「宗」の字を用いるようになったのは、[[江戸時代]]以後のことである。開祖一遍には新たな宗派を立宗しようという意図はなく、その教団・成員も「'''時衆'''」と呼ばれた。末尾に附した文献を見ても明らかなように、研究者も室町期までに関しては時衆の名称を用いている。これは[[善導]]の「[[観無量寿経疏|観経疏]]」の一節「道俗時衆等、各發無上心」からきているように、一日を6分割して不断念仏する集団(ないし成員)を指す。古代以来、顕密寺院にいた。
== 時衆と時宗 ==
他宗派同様に「宗」の字を用いるようになったのは、[[江戸時代]]以後のことである。開祖とされる一遍には新たな宗派を立宗しようという意図はなく、その教団・成員も「'''時衆'''」と呼ばれた。末尾に附した文献を見ても明らかなように、研究者も室町期までに関しては時衆の名称を用いている。時衆とは[[善導]]の「[[観無量寿経疏|観経疏]]」の一節「道俗時衆等、各發無上心」からきており、一日を6分割して不断念仏する集団(ないし成員)を指し、古代以来、顕密寺院にいた。「時宗」と書かれるようになったのは、[[寛永]]10年([[1633年]])の『時宗藤沢遊行末寺帳』が事実上の初見である


== 思想 ==
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== 歴史 ==
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=== 中世 ===
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は諸国を遊行し、[[賦算]](ふさん)と[[踊念仏]]を行なった。[[室町時代]]中ごろに[[猿楽]]師の観阿([[観阿弥]])、世阿([[世阿弥]])で知られる時衆系の法名をもつ者がみられ、[[同朋衆]]、[[仏師]]、[[作庭師]]として文化を担うなど全盛期を迎えたが、多数の念仏行者を率いて遊行を続けることは、さまざまな困難を伴った。教団が発展するなかで、順調な遊行を行うために権力への接近がはじまり、[[幕府]]や[[大名]]などの保護を得ることで大がかりな遊行が行われるようになると、庶民教化への熱意は失われ、時宗は浄土真宗や[[曹洞宗]]の布教活動によって侵食されることになった。
一遍亡き後、彼が率いた衆は自然消滅した。それを再結成したのは、有力な門弟の[他阿|他阿真教]]である。それ以後続く歴代の遊行上人は、諸国を[[遊行]]し、[[賦算]](ふさん)と[[踊念仏]]を行なった。4代目をめぐって当麻道場[[無量光寺]]と藤沢道場清浄光院(のち清浄光寺)に分裂し、やがて藤沢道場が優勢となった。遊行上人を引退すると藤沢道場に入って藤沢上人と称した。[[室町時代]]中ごろに[[猿楽]]師の観阿([[観阿弥]])、世阿([[世阿弥]])で知られる時衆系の法名をもつ者がみられ、[[同朋衆]]、[[仏師]]、[[作庭師]]として文化を担うなど全盛期を迎えたが、多数の念仏行者を率いて遊行を続けることは、さまざまな困難を伴った。教団が発展するなかで、順調な遊行を行うために権力への接近がはじまり、[[幕府]]や[[大名]]などの保護を得ることで大がかりな遊行が行われるようになると、庶民教化への熱意は失われ、時宗は浄土真宗や[[曹洞宗]]の布教活動によって侵食されることになった。


=== 近世 ===
=== 近世 ===
それで、[[幕藩体制]]下では、[[幕府]]の[[伝馬]][[朱印状]]を後ろ盾とした官製の遊行が行われ、時宗寺院のない地域も含む全国津々浦々に、遊行上人が回国した。時宗が直接的に衰落したのは、[[廃仏毀釈]]であると思われる。
江戸幕府の意向により、さまざまな念仏勧進聖が「時宗」という単一の宗派に統合され、の中の十二の流派に位置づけらた(「時宗十二派」)。主流は藤沢道場清浄光寺および七条道場[[金光寺 (七条道場)|金光寺]]を本寺とする「遊行派」あった。一時期より衰退したとはいえ、[[幕藩体制]]下では、[[幕府]]の[[伝馬]][[朱印状]]を後ろ盾とした官製の遊行が行われ、時宗寺院のない地域も含む全国津々浦々に、遊行上人が回国した。時宗が直接的に衰落したのは、[[廃仏毀釈]]であると思われる。


=== 近代 ===
=== 近代 ===
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== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
;単行本
;単行本
* 吉川清『時衆阿弥教団の研究』([[池田書店]]、[[1956年]])
*吉川清『時衆阿弥教団の研究』([[池田書店]]、[[1956年]])
* 大橋俊雄編『時衆過去帳時衆史料第一([[時宗教学研究所]]、[[1964年]])
*[[金井清光]]一遍と時衆教団』([[角川書店]]、[[1975年]])
* 金井清光『一遍と時教団』([[角川]]、[[1975年]])
*[[大橋俊雄]]『一遍と時教団』([[教育社歴史新書]]、[[1978年]])
* 大橋俊雄一遍と時宗教団』([[教育社歴史新書]]、[[1978年]])
*禰宜田修然『時宗の寺々』(私家版、[[1980年]])
* 金井清光『時衆教団の地方展開』([[東京美術]]、[[1983年]])
*金井清光『時衆教団の地方展開』([[東京美術]]、[[1983年]])
;雑誌
;雑誌
* 『時衆研究』(金井清光の私家版から55号以降は[[時宗文化研究所]]、[[1962年]]創刊、隔月刊行で100号にて終了)
*『時衆研究』(金井清光の私家版から55号以降は時宗文化研究所、[[1962年]]創刊、隔月刊行で100号にて終了)
* 『時宗史研究』([[時宗研究会]]、[[1985年]]創刊、2号で休刊)
*『時宗教学年報』(時宗教学研究、[[1972年]]創刊、年1回
* 『時衆文化』([[衆文化研究会]]、[[2000年]]創刊、2
*『時宗史研究』(時宗史研究会、[[1985年]]創刊、2号で休刊)
*『時衆文化』(時衆文化研究会、[[2000年]]創刊、年2回刊行)
;史料集
*大橋俊雄編著『時衆過去帳』時衆史料第一(時宗教学研究所、[[1964年]])
*大橋俊雄編著『時宗末寺帳』時宗史料第二(時宗教学研究所、[[1965年]])
*時宗教学部編『時衆過去帳』(時宗教学部、[[1969年]])
*『時宗全書』1-2([[芸林舎]]、[[1974年]])
*圭室文雄編『遊行日鑑』1-3(角川書店、1977-79年)
*時宗宗典編纂委員会編『定本時宗宗典』上下(時宗宗務所、[[1979年]])
*藤沢市文書館編『藤沢山日鑑』1-(藤沢市文書館、[[1983年]]-。現在刊行中、既刊24巻)
;辞典
*時宗教学研究所編『時宗辞典』(時宗宗務所教学部、[[1989年]])
;年表
*望月華山編『時衆年表』(角川書店、[[1970年]])
;図録
;図録
* 時衆の美術と文芸展実行委員会編『時衆の美術と文芸』(東京美術、[[1995年]])
*時衆の美術と文芸展実行委員会編『時衆の美術と文芸』(東京美術、[[1995年]])


[[Category:浄土系仏教|ししゆう]]
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時宗(じしゅう)は、鎌倉時代末期におこった浄土教の一宗派。開祖は一遍。総本山は神奈川県藤沢市清浄光寺(通称遊行寺)。

時衆と時宗

他宗派同様に「宗」の字を用いるようになったのは、江戸時代以後のことである。開祖とされる一遍には新たな宗派を立宗しようという意図はなく、その教団・成員も「時衆」と呼ばれた。末尾に附した文献を見ても明らかなように、研究者も室町期までに関しては時衆の名称を用いている。時衆とは善導の「観経疏」の一節「道俗時衆等、各發無上心」からきており、一日を6分割して不断念仏する集団(ないし成員)を指し、古代以来、顕密寺院にいた。「時宗」と書かれるようになったのは、寛永10年(1633年)の『時宗藤沢遊行末寺帳』が事実上の初見である。

思想

浄土教では阿弥陀仏(阿彌陀佛)への信仰がその教説の中心である。融通念仏は、一人の念仏が万人の念仏と融合するという大念仏を説き、浄土宗では信心の表われとして念仏を唱える努力を重視し、念仏を唱えれば唱えるほど極楽浄土への往生も可能になると説いた。また浄土真宗では信心のみを重視し、信じるだけで往生は約束される、念仏は仏恩報謝の行である、と説いた。

それに対して時宗の場合には、阿弥陀仏への信・不信は問わず、念仏さえ唱えれば往生できると説いた。仏の本願力は絶対であるがゆえに、それが信じない者にまで及ぶという解釈である。

歴史

中世

一遍亡き後、彼が率いた時衆は自然消滅した。それを再結成したのは、有力な門弟の[他阿|他阿真教]]である。それ以後続く歴代の遊行上人は、諸国を遊行し、賦算(ふさん)と踊念仏を行なった。4代目をめぐって当麻道場無量光寺と藤沢道場清浄光院(のち清浄光寺)に分裂し、やがて藤沢道場が優勢となった。遊行上人を引退すると藤沢道場に入って藤沢上人と称した。室町時代中ごろに猿楽師の観阿(観阿弥)、世阿(世阿弥)で知られる時衆系の法名をもつ者がみられ、同朋衆仏師作庭師として文化を担うなど全盛期を迎えたが、多数の念仏行者を率いて遊行を続けることは、さまざまな困難を伴った。教団が発展するなかで、順調な遊行を行うために権力への接近がはじまり、幕府大名などの保護を得ることで大がかりな遊行が行われるようになると、庶民教化への熱意は失われ、時宗は浄土真宗や曹洞宗の布教活動によって侵食されることになった。

近世

江戸幕府の意向により、さまざまな念仏勧進聖が「時宗」という単一の宗派に統合され、その中の十二の流派に位置づけられた(「時宗十二派」)。主流は藤沢道場清浄光寺および七条道場金光寺を本寺とする「遊行派」であった。一時期より衰退したとはいえ、幕藩体制下では、幕府伝馬朱印状を後ろ盾とした官製の遊行が行われ、時宗寺院のない地域も含む全国津々浦々に、遊行上人が回国した。時宗が直接的に衰落したのは、廃仏毀釈であると思われる。

近代

1871年、寺領上知令や祠堂金廃止令により、時宗寺院は窮地に陥る。さらに廃仏毀釈で、金城湯池であった島津藩領や佐渡の時宗寺院が壊滅状態となった。政府からは1940年一遍に「証誠大師」号を贈られている。これに対し、太平洋戦争中は時宗報国会を組織し、奉天に遊行寺別院を設けて協力した。1943年一向派が離脱し浄土宗に帰属した。2004年、遊行73代・藤沢56世他阿一雲が病気により引退した。藤沢上人からの退位は時宗史上初である。

法式

戒名は法名とよび、男は「阿弥陀仏」号、女は「一」号ないし「仏」号を附した。現在では男性は「阿」号、女性は「弌」(いち)号をつけることが多い。一向派では性別問わず「阿」号、当麻派は「阿弥」号である。

参考文献

単行本
雑誌
  • 『時衆研究』(金井清光の私家版から55号以降は時宗文化研究所、1962年創刊、隔月刊行で100号にて終了)
  • 『時宗教学年報』(時宗教学研究所、1972年創刊、年1回刊行)
  • 『時宗史研究』(時宗史研究会、1985年創刊、2号で休刊)
  • 『時衆文化』(時衆文化研究会、2000年創刊、年2回刊行)
史料集
  • 大橋俊雄編著『時衆過去帳』時衆史料第一(時宗教学研究所、1964年
  • 大橋俊雄編著『時宗末寺帳』時宗史料第二(時宗教学研究所、1965年
  • 時宗教学部編『時衆過去帳』(時宗教学部、1969年
  • 『時宗全書』1-2(芸林舎1974年
  • 圭室文雄編『遊行日鑑』1-3(角川書店、1977-79年)
  • 時宗宗典編纂委員会編『定本時宗宗典』上下(時宗宗務所、1979年
  • 藤沢市文書館編『藤沢山日鑑』1-(藤沢市文書館、1983年-。現在刊行中、既刊24巻)
辞典
  • 時宗教学研究所編『時宗辞典』(時宗宗務所教学部、1989年
年表
  • 望月華山編『時衆年表』(角川書店、1970年
図録
  • 時衆の美術と文芸展実行委員会編『時衆の美術と文芸』(東京美術、1995年