「フェルディナンド・マゼラン」の版間の差分

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'''フェルディナンド・マゼラン'''(Ferdinand Magellan、[[1480年]] - [[1521年]][[4月27日]])は[[ポルトガル]]の[[男性]][[航海者]]、[[探検家]]。[[南アメリカ大陸]]の南端を発見して、初めて[[ヨーロッパ]]から西回りで[[太平洋]]に到達し、途中[[フィリピ]]で[[ラプ=ラプ]]王との戦により4月27日に[[戦死]]しが、残された[[艦隊]]が史上初めての世界一周を成した。
'''フェルディナンド・マゼラン'''(Ferdinand Magellan、[[1480年]] - [[1521年]][[4月27日]])は[[ポルトガル]]の航海者、[[探検家]]。[[1522年]]マゼラが率いた艦隊が史上初の世界一周航海を成し遂げことで知られる
==概要==
マゼランはヨーロッパから西回り航路での東洋の香料諸島([[モルッカ諸島]])への渡航ルート発見を目指して世界一周へ旅立った航海者である。[[1519年]]スペイン王のもとで5隻の艦隊を率いて[[スペイン]]・[[セビリア]]を出発したマゼランは[[南アメリカ大陸]]の南端[[マゼラン海峡]]を発見して[[太平洋]]に到達し、マゼラン自身は途中[[1521年]][[フィリピン]]で戦死したが、残された[[艦隊]]が史上初めての世界一周を達成した<ref name="増田p2">増田(1993)、p.2</ref><ref group="註">マゼラン遠征についてもっとも詳細で著名な報告をしたのは艦隊の乗組員で世界一周を達成してスペインに生還したピガフェッタである。ピガフェッタの記録は[[岩波文庫]]、『マゼラン最初の世界一周航海』[[2011]]年刊、や岩波書店、大航海時代叢書 第1巻『航海の記録』1965年刊で和訳全文を読むことができる。ピガフェッタの記録は[[岩波文庫]]で240ページほどの分量である。</ref>。マゼラン自身は世界一周を成し遂げてはいないが<ref group="註">マゼランの記録は確実なものは少ないが、諸説の中には1505-1513年、ポルトガル艦隊の一員として東洋の長期滞在中にフィリピンに到達していて(ポルトガルから東回りでフィリピン)、1519年からの遠征でのフィリピン到達(スペインから西周りでフィリピン)、つまり2つの航海をあわせて世界一周をなしとげている可能性があるという説もある。</ref>、人類初の世界周航航海を達成した艦隊はマゼランの艦隊として後世に名を残している。<ref name="増田p2">増田(1993)、p.2</ref>マゼラン海峡のほか[[マゼラン星雲]]<ref>[http://spaceinfo.jaxa.jp/ja/clouds_magellan.html 宇宙情報センター</ref>、[[マゼランペンギン]]<ref>http://platinum-white.com/6-18/Magellanic.html マゼランペンギンの紹介</ref>、[[マゼラン (探査機)|宇宙探査機マゼラン]]<ref>[http://nssdc.gsfc.nasa.gov/planetary/factsheet.html Magellan Fact Sheet]</ref>など多くの物が航海者マゼランの名にちなんで名付けられている。


ポルトガル語名(本名)は'''フェルナン・デ・マガリャンイス''' ('''Fernão de Magalhães''' {{IPA|fɨɾˈnɐ̃w̃ dɨ mɐɣɐˈʎɐ̃j̃ʃ}})、スペイン語(カスティーリャ語)名は'''フェルナンド・デ・マガリャネス'''('''Fernando de Magallanes''', 名は'''エルナンド'''Hernandoとも)。「マゼラン」は英語での綴りを基にした慣用表記で(発音はマゼランではなく「マジェラン」)、日本ではこの呼び方が浸透している。この項では「マゼラン」で統一する。
ポルトガル語名(本名)は'''フェルナン・デ・マガリャンイス'''<ref group="註">[[国際音声記号]]による正確な表記の一例は {{IPA|fɨɾˈnɐ̃w̃ dɨ mɐɣɐˈʎɐ̃j̃ʃ}}。</ref> ('''Fernão de Magalhães''')、スペイン語(カスティーリャ語)名は'''フェルナンド・デ・マガリャネス'''('''Fernando de Magallanes''', 名は'''エルナンド'''Hernandoとも)。「マゼラン」は英語での綴りを基にした慣用表記で(発音はマゼランではなく「マジェラン」)、世界的にこの呼び方(Magellan)が浸透している<ref name="ツヴァイクp12">ツヴァイク(1972)、p.12</ref>。この項では「マゼラン」で統一する。


== 生涯 ==
== 世界周航まで ==
=== 前歴 ===
=== 前歴 ===
1519年までのマゼランの記録は確かなものは少なく確実なことはあまり分かっていないが、1480年ごろにポルトガル北部[[ミーニョ]]地方[[ポルト]]近郊ポンテ・ダ・バルカの下級貴族である父ルイ・マガリャンイスと母アルダ・デ・メスキータの間に生まれたとされている<ref name="増田p5">増田(1993)、p.5</ref><ref name="イアン・カメロンp11-12">イアン・カメロン(1978)、pp.11-12</ref>。1492年、王妃レオノーラの小姓としてポルトガル宮廷に入る<ref name="増田p9">増田(1993)、p.9</ref>。このポルトガル宮廷小姓時代にコロンブスの新世界発見や[[ヴァスコ・ダ・ガマ]]の喜望峰経由の東洋航路発見の業績を知ることになり航海への関心を深めたと言われる<ref name="増田p8-10">増田(1993)、pp.8-10</ref>。[[ヴァスコ・ダ・ガマ]]の東洋航路発見を受けて[[1500年]]からポルトガルは次々に東洋へ艦隊を送り出すが<ref name="増田p13-14">増田(1993)、pp.13-14</ref>、[[1505年]]東洋の[[覇権]]をポルトガルの物にするべく[[フランシスコ・デ・アルメイダ]]の20隻の艦隊がポルトガルを出発した<ref name="イアン・カメロンp16-17">イアン・カメロン(1978)、pp.16-17</ref>。このアルメイダの艦隊に25歳のマゼランは希望して加わり、これがマゼランの初の航海となった<ref name="増田p13-14">増田(1993)、pp.13-14</ref>。最初のマゼランの地位は代理士官であり、貴族とはいえ下級貴族出身のマゼランは船室は下級船員と同じと言う待遇であった<ref name="イアン・カメロンp16-17"/>。同じ艦隊には弟ディエゴと従兄弟のフランシスコ・セラーンが加わっていたが<ref name="イアン・カメロンp16-17"/>、このセラーンはマゼランの世界周航西ルート開拓の動機に後に関わってくる。アルメイダの艦隊は東アフリカのイスラム勢力の排除にかかるが、マゼランは2年3ヶ月ほど東アフリカのポルトガル拠点の構築に働いている。その働きの中で指揮官の1人ペレイラに認められ副舵手に抜擢され、戦士としてまた船乗りとして経験を積んでいる<ref name="イアン・カメロンp25">イアン・カメロン(1978)、p.25</ref>。こののちマゼランはインドのコチンに行くことになるが<ref name="増田p13-14"/>、この海域でイスラムとポルトガルの覇権を争う海戦が起こり1509年2月3日ポルトガル艦隊19隻とイスラム船200隻の海戦でポルトガルは勝利しインド洋でのポルトガルの覇権を確立する。この戦いでマゼランは5ヶ月コチンの病院に入院するほどの重傷を負っている<ref name="イアン・カメロンp26-27">イアン・カメロン(1978)、pp.26-27</ref>。1509年9月回復したマゼランはペレイラ率いるマラッカ遠征に加わった。この時点でポルトガルは胡椒を除く多くの香料の産地がインドではなく香料諸島であること、ライバルであるスペインが西回りルートでの東洋航路を模索していることなどを把握し早期の香料諸島の覇権を急ぎ、まずは香料諸島への重要な中継拠点であるマラッカの確保に乗り出したのである。しかしポルトガルにとって最初のマラッカ遠征であるペレイラの艦隊はマラッカ王の策略によって大敗。この敗戦のなかでマゼランは水際で戦い危うい状況であった従兄弟セラーンをボートで救う活躍をしている<ref name="増田p18-19">増田(1993)、pp.18-19</ref>。ポルトガルの最初のマラッカ遠征は失敗に終るものの、この遠征中の業績によってマゼランは船長の位を授かることになる<ref name="増田p21">増田(1993)、p.21</ref>。実力よりも家柄で地位が決まることの多い中世で、見習い士官から船長の地位にまで上ったマゼランの船乗りあるいは戦士としての能力は相当に高かったものと想像されている。インドの支配を固めたポルトガルは1511年4月再度マラッカに大艦隊を送りこれを制圧。このポルトガルのマラッカ制圧戦の功績でマゼランは指揮する大型のカラベラ船の1隻と個人的な奴隷([[マラッカのエンリケ]])を与えられた。引き続いて、ポルトガルは香料諸島への遠征隊を派遣する。この香料諸島遠征隊にはマゼランは参加していなかったものの従兄弟のセラーンが参加している<ref name="増田p21-22">増田(1993)、pp.21-22</ref><ref name="イアン・カメロンp33">イアン・カメロン(1978)、p.33</ref>。
ポルトガルの[[オポルト]]村の近郊で下級貴族の子として生まれる。少年の頃に小姓として宮廷に入り、[[1505年]]、25歳で[[フランシスコ・デ・アルメイダ|アルメイダ]]の艦隊に入って初の航海に出る。その後、[[マラッカ]]・[[モルッカ諸島]]などで航海の経験を積む。
====セラーン====
マゼランの従兄弟であり、同じ東洋派遣部隊の将校であるフランシスコ・セラーンはポルトガルの最初の香料諸島遠征に参加したが、艦隊は途中で遭難。セラーンは孤立しながらも通りかかった中国のジャンク船を奪い香料諸島に到達する<ref name="増田p22">増田(1993)、p.22</ref>。セラーンは香料諸島において島の一つテルテナの王の軍事顧問のような役割をはたし、王の重臣として高い地位と裕福な生活を手に入れる。セラーンは香料諸島に王につぐ地位を持ち滞在しながら、ポルトガルやマゼラン宛に手紙を書き報告している、マゼランにあてた手紙でセラーンは香料諸島がうわさ通り豊富な香料を産すること、ポルトガルの支配がまだ確立できていないこと、そして『私はヴァスコ・ダ・ガマが見たよりもより豊かで、大きく、より美しい新世界を発見した。あなた(マゼランのこと)がここで私と一緒になり、私のまわりにある喜びを自ら味わうことを望む -引用 イアン・キャメロン『マゼラン』草思社、1978年、p.34』とマゼランに書き送っている。セラーンの手紙によってマゼランは、胡椒以外の香料の大部分を香料諸島が産出し海洋交易国のポルトガルやスペインにとって重要であることと、香料諸島がマラッカよりはるか東方にあり、その支配をポルトガルがなかなか確立できそうにないこと、香料諸島が大変に豊かな島であること(これは後にピガフェッタは否定しているが)を知り、このことはのちにマゼランがスペイン王の元で西回りの香料諸島渡航ルート開拓を志願する動機の一つとなっている。セラーンはこの後、マゼランがスペインから西回りの東洋航路発見の航海についている間に香料諸島の王の1人に計略で殺害されている<ref name="増田p32-35">増田(1993)、pp.32-35</ref><ref name="イアン・カメロンp34">イアン・カメロン(1978)、p.34</ref><ref name="ピガフェッタp169">ピガフェッタ(2011)、p.169</ref>。


1511年のマラッカ制圧の後、1年半ほどはマゼランが何をしていたのかは記録はない。おそらくはマラッカ周辺海域の哨戒任務についていたのではないかとされる。マゼランは1513年1月に帰国の途に付きたが、帰国した訳も分かっていない<ref name="増田p36">増田(1993)、p.36</ref>。およそ8年の東洋艦隊勤務で船乗りとしても戦士としても十分な経験を積んでの帰国であった<ref name="増田p36">増田(1993)、p.36</ref>。
[[1512年]]に一旦[[リスボン]]に帰還し、翌年の[[モロッコ]]での戦闘に参加するが、この時に右足を負傷して以後は右足が不自由になった。


===1513年のポルトガルの情勢===
航海者としての自信を付けたマゼランはポルトガル王・[[マヌエル1世 (ポルトガル王)|マヌエル1世]]に対してモルッカ諸島への西回り航路開拓のために船長にしてもらえるように要請した。モルッカ諸島は別名を「香料諸島」と言い、[[香辛料]]の産地であった。このマゼランの案は受け入れてもらえなかった。また今までの航海に対する報酬の増額を訴えたが、これも受け入れてもらえず、モロッコでの戦利品を独占したとの疑いを受ける。
バスコ・ダ・ガマが始めて喜望峰回りのインド航路を開いた1499年からマゼランが帰国した1513年までのわずか14年でポルトガルは安定したインドへの航海ルートを確立していた。マゼランが8年の勤務を終え帰国したポルトガルは香料貿易が栄え、、16世紀まで香料貿易を独占していたベネチアからその地位を奪い大海洋国としての地位を固めていた。香料貿易を独占し遠洋貿易を独占する勢いのポルトガルにはヨーロッパ中の有力商人とくにイタリア人商人とドイツ商人とが取引を希望してその商権を争う状態であった<ref name="増田p36-44">増田(1993)、pp.36-44</ref>。ドイツの大商人であるフガー商会はその代理人としてクリストバル・アロをリスボンにおいていた。クリストバル・アロは優れた商人であり、バスコ・ダ・ガマの喜望峰回りのインド航路発見以前、コロンブスの新世界発見の直後から西回りでのアジアへの航海ルート探索に関心を持っていた。アロはポルトガルが開拓した喜望峰回りでの東洋交易の詳細も把握しポルトガルが開拓した喜望峰回りでのインド交易ルートに多額の投資を行うのに加え、アロは自身がスポンサーとなり西回りの東洋交易ルート開拓の探検隊を派遣するまでになっている。しかし、アロはイタリア人商人の中傷によってポルトガル王マヌエルの信任を失い、1516年スペインに活動の場を移す。アロは後に1519年からのマゼランの世界周航に大きな役割をはたすことになる<ref name="増田p56-61">増田(1993)、pp.56-61</ref>。
===マゼランの北アフリカ遠征===
1513年にポルトガルに帰国したマゼランがその後何をしていたのかは記録が少ない、ただし、帰国後ほどなく1513年8月にはポルトガルの北アフリカ征服の一貫であるモロッコのアザムール攻略に鹵獲品管理担当将校として参加している。アムザール攻略でマゼランは戦士としても戦い戦傷を受け右足が不自由になっている。後年の研究者はこのときのマゼランは必ずしも最前線で戦うべき職務ではないのに最前線で負傷しているのは、マゼランが騎士として正々堂々とした戦闘を好む性格であったからであろうと推察している<ref group="註">この性格の為、後々マクワン島で数千の敵に対し数十人で正面から戦いを挑み、戦死することになる</ref><ref name="イアン・カメロンp39">イアン・カメロン(1978)、p.39</ref>。マゼランが付いていた鹵獲品管理担当将校という役職は私腹を肥やすことが可能な役職であったためにマゼランは言われ無き中傷と嫉妬にさらされ、鹵獲品の横流しで私腹を肥やしたとあらぬ疑いをかけられている<ref name="増田p46-47">増田(1993)、pp.46-47</ref>。汚職の汚名を着せられたマゼランは無断で帰国、ポルトガル王マヌエルに無実を訴え、香料諸島への派遣を直訴するが、当然に王はこれを無視、モロッコへの戻るよう命令する。一旦、北アフリカに戻されたマゼランは疑惑がうやむやの内にポルトガルに帰国する<ref name="増田p47-48">増田(1993)、pp.47-48</ref>。後年の研究者達はマゼランの性格と行動からマゼランへの汚職の告発はおそらくは冤罪であろうとしている<ref name="ツヴァイクp60-61">ツヴァイク(1972)、pp.60-61</ref><ref name="イアン・カメロンp39-40">イアン・カメロン(1978)、pp.39-40</ref>。


===ポルトガル宮廷を去る===
嫌気が差したマゼランはポルトガルを出て、[[スペイン]]・[[セビリャ]]の親戚の家に移り住んだ。この時に居候先の娘ベアトリックスと結婚した。
1515年、北アフリカ遠征から帰ったマゼランはポルトガル王マヌエルに謁見し、その後ポルトガル宮廷を去っている。


マゼランがポルトガル宮廷を去った詳細や理由についての確実な資料はないが、通説では、マゼランはポルトガル王に2つの要求をし、拒絶されたとしている。まずは2度も大怪我をした勤務の功績に対しての月棒の増額である。しかしマゼランが要求した増額の幅はわずかなものであり銀貨1枚分に過ぎず<ref group="註">ピガフェッタによるとマゼランの要求は月に1テストーネ、それは銀貨1枚であり-ピガフェッタ(2011)p.169-、1938年に出版されたツヴァイクのマゼランの伝記によればマゼランの月棒増額の要求は月に半クルサードであり、それは1938年のイギリスの1シリングに相当する。イギリスポンドが強かった時代の1シリング=1/20ポンドとは言え、1シリングはやはり銀の硬貨1枚に過ぎない-ツヴァイク(1972)、p.64</ref>、これは金銭の要求よりも月棒に宮廷での地位と名誉が象徴される現状で自分の功績を認めて欲しかったからだとされる。ポルトガル王はこれを拒否。続いてマゼランは東洋へ派遣される船の指揮を任せてくれるよう王に依頼する。しかし、これもポルトガル王に拒絶される<ref name="ツヴァイクp63-66">ツヴァイク(1972)、pp.63-66</ref>。通説では、ポルトガル王とマゼランはマゼランの小姓時代から馬が合わなかったとも<ref name="イアン・カメロンp13">イアン・カメロン(1978)、p13</ref>、面会のときのマゼランの態度が当時の宮廷世界での慣わしに沿っていなかったからだとも、<ref name="ツヴァイクp61-66">ツヴァイク(1972)、pp.61-66</ref>。あるいはマゼランがセラーンから得た情報で香料諸島はトルデシリャス条約(後記)によってポルトガルではなくスペインの領域にあるとの認識を持っていたからだとも言われる<ref name="イアン・カメロンp34">イアン・カメロン(1978)、p.34</ref>。
=== 出航 ===
===1515年スペインの情勢===
[[ファイル:Nao Victoria.jpg|thumb|200px|right|[[ビクトリア号]]の復元船]]
[[ファイル:Henricus Martellus Germanus (Wirkungsjahre 1480-1496).jpg|300px|thumb|マルテルス図 (1490年) コロンブスやマゼランの世界観に近い地図である。アメリカは独立した大陸ではなく、東アジアの大半島としてとらえられていた]]
[[1517年]]、ポルトガルでかなえられなかった野望を遂げるべく、スペイン王・カルロス1世(後の[[神聖ローマ帝国]][[皇帝]]・[[カール5世 (神聖ローマ皇帝)|カール5世]])に面会したマゼランはモルッカ諸島への西回り航路開拓を熱心に宣伝し、カルロス1世はこれに大いに心を動かされ、マゼランを艦隊の長に任命した。
マゼランがポルトガル宮廷を去った当時のスペインはすでに西回り航路の発見に重大な関心を持ち、すでに幾多のアジアへの西回り航路の開拓の為に幾多の艦隊を派遣していた。すでにポルトガルが喜望峰まわり(東回り)の航路を固めて大きな利益を上げていた比べ、拠点を持たなかったスペインが西回り航路に寄せる期待は大きかった。決して西回りでのアジア航路発見はマゼランが最初に思いついた訳ではなく、1492年のコロンブスの航海がスペインの支援の下に行われたように、むしろマゼランの初航海以前からのスペインの国家的関心事項であったとも言える。コロンブス自身が最後まで自分がたどり着いたアメリカをアジアの一部だと思い込んでいたように、西回りでアジアに到達できるということはすでに既定のこととされていた。当時はアメリカは東アジア東端の大半島だと思われていた。しかし、東アジア東端の大半島から、インドあるいは香料諸島へ繋がる海峡は幾多の探検隊も発見することができないままであった。マゼランがポルトガル王宮を去ったのと同じ1515年、スペイン王[[フェルナンド2世 (アラゴン王)|フェルナンド]]は[[フアン・ディアス・デ・ソリス|ホアン・ディアス・デ・ソリス]]の探検隊を南アメリカに派遣、ソリスはアルゼンチンのラ・プラタ川河口までたどり着いている<ref group="註">ソリスは現地部族民に殺され、ソリスの探検は失敗に終っている</ref><ref name="増田p49-54">増田(1993)、pp.49-54</ref>。
===フォンセカとアロ===
当時、スペインの外洋航海を仕切っていたスペイン王宮の実力者にロドリゲス・デ・フォンセカという貴族がいた。フォンセカはスペインの植民地の貿易や殖民などの業務を担当する通商院の事実上の最高責任者であり、コロンブスの2回目の航海の準備も担当した人物である。フォンセカの関心事はポルトガルの影響下にない東洋への航路開拓にあったとも言える。そのがフォンセカに前述の商人アロ(ポルトガルでの地位を失いスペインに移動していた)が接近し、ソリスの後継となる航海者を探していた。フォンセカとアロが最初に見出した者はエステヴァン・ゴメスというポルトガルの熟練の航海者であった<ref name="増田p61-73">増田(1993)、pp.61-73</ref>。


===トルデシリャス条約===
[[1519年]][[9月20日]]、旗艦トリニダー号(110トン)以下、サン・アントニオ号(120トン)、コンセプシオン号(90トン)、[[ビクトリア号]](85トン)、サンティアゴ号(74トン)の5隻の[[カラベル船]]に265名の乗組員を乗せてサンルーカル・デ・バラメダ港を出港した。
コロンブスの発見でスペインはアメリカとアフリカのほぼ中間の子午線より西の新しく発見した土地をスペイン領とするローマ教皇の勅旨を得た。現在の南北アメリカ大陸をすべてスペイン領とするものである(ただし、当時はアジア大陸と思われていた)これにポルトガルはただちに反発。交渉の結果、ヴェルデ岬諸島の西370レグアを通る西経46度37分にあたる子午線をスペイン・ポルトガル領の境とするトルデシリャス条約が1494年に結ばれた。この結果、現在のブラジルはポルトガル領、ブラジル以外の南北アメリカはスペイン領となったのだが、トルデシリャス条約によるスペイン・ポルトガルを分ける子午線が地球の裏、アジア側ではどこを通っているかは定かにはなっていなかった。当時スペインとポルトガルはライバルとして激しく競っていたが、同時に両国は隣国でもあり、両国の国王は親戚関係でもあり、トルデシリャス条約による領土の取り決めには敏感であった<ref name="増田p10-12">増田(1993)、pp.10-12</ref>。


フォンセカとアロが西回りの航海者として見出したエステヴァン・ゴメスは優秀な航海者であったが、トルデシリャス条約に関わるような微妙な政治情勢には疎く、ゴメスの渡航計画では[[フェルナンド2世 (アラゴン王)|フェルナンド]]王の後を継いだスペイン王・[[カルロス1世]](後の神聖ローマ帝国皇帝・カール5世)を政治的に安心させる(ポルトガルの領分を侵さないという)ことが出来ず、ゴメスを指揮者として艦隊を派遣するフォンセカとアロの計画は頓挫する<ref group="註">ゴメスは後にマゼランの下でサン・アントニオ号の航海長となるが、ゴメスはパタゴニアで反乱を起こし、サン・アントニオ号はマゼラン艦隊を離脱することになる。</ref><ref name="増田p72-73">増田(1993)、pp.72-73</ref>。
[[大西洋]]を横断した後、[[南アメリカ大陸]]に沿って南下していき、[[1520年]][[1月9日]]に[[ラプラタ河]]の河口に到着。当時はここが[[太平洋]]へと出るための海峡の入り口だと思われており、マゼランは[[ラプラタ河]]の全ての入り口に綿密な調査を行ったが、結果はここは海峡ではなく河であったということがわかっただけであった。


ゴメスを指揮者として艦隊を派遣するフォンセカとアロの計画が頓挫するのと同じタイミングで、セビリアでスペイン王に仕えていたポルトガル人デュアルテ・バルボーザはスペインの関心事が西回りでの香料諸島到達であることを知り、ポルトガルで失意の元にある古い友人であるマゼランに白羽の矢を立てることになる。セラーンの手紙によってもとより香料諸島への渡航を希望していたマゼランは、盟友である天文学者ルイ・デ・ファレイロとの同行を条件にデュアルテ・バルボーザの誘いに乗ることになる。1517年のことである<ref name="増田p52-54">増田(1993)、pp.52-54</ref>。また、マゼランはデュアルテ・バルボーザの妹ベアトリスを妻にむかえることになる<ref name="ピガフェッタp344">ピガフェッタ(2011)、p.344</ref>。
落胆したマゼラン艦隊は南のサン・フリアン湾で越冬することに決めるが、絶望的になった船員の間ではマゼランに対する不満が大きくなっており、3隻が参加する大規模な反乱が起きる。
===マゼランの任命===
ゴメスで失敗したフォンセカとアロはデュアルテ・バルボーザの推薦するマゼランの存在を知り、ただちにマゼランを新たな探検隊の指揮官に押すことに決め、マゼランはスペイン王・[[カルロス1世]]の謁見を得て、その航海の計画を説明することになる<ref name="増田p73">増田(1993)、p.73</ref>。


スペイン王に謁見したマゼランは、自分の西周りでの香料諸島への渡航計画について、大アジア半島の南に香料諸島・インドへ通じる海峡があること、香料諸島がトルデシリャス条約で定められたスペインの領域内にあること、東回りよりもはるかに航路の短い西回りルートはポルトガル人よりはるかに安いコストで香料を手に入れることが出来ることを自信をもって説明する。実はマゼランの自信の根拠となるマルティン・べハイムの世界観<ref group="註">この当時のヨーロッパ人の世界観はアメリカ大陸を東アジアの大半島と捉え、太平洋を大半島の西の内海と捉えるものであった。ポルトガルの王室付き地図製作者のマルティン・べハイムが作成した地球儀もその世界観で作られたものであったが、そのべハイムが作成した地球儀をみたマゼランもその世界観にとらわれていたのである。のちにマゼランは太平洋の広大さを身をもって知ることになる-アン・カメロン(1978)、p48-49</ref>はまったくの誤りであり、また従兄弟のセラーンの知らせでは香料諸島はマラッカのはるか東方であることを知らされており(これも誇張であったのだが)その情報によって香料諸島がスペインの領域内であるとし、マゼランの自信を持った説明にスペイン王は納得し、マゼランに艦隊を預ける決断をするのであった<ref name="増田p72-78">増田(1993)、pp.72-78</ref><ref name="合田p124-129">合田(2006)、pp.124-129</ref>。
=== 海峡発見 ===
[[ファイル:Magellan-Map-En.png|right|thumb|300px|マゼランの航路]]
この反乱はわずか5日間で収束した。艦隊は[[1520年]][[8月24日]]に航海を再開、さらに南下を続けるが、それまでの調査航行中にサンティアゴ号が難破して失われてしまった。


スペイン人からみたらライバル国ポルトガル人であるマゼランにスペイン王が艦隊を任せる決断をした背景にはフォンセカとアロという有力者の推薦があったことはたしかであろう<ref name="増田p81">増田(1993)、p.81</ref>。その推薦の見返りにフォンセカは自分の意に沿う者たちをマゼランの艦隊の幹部に据え、主導権を握ろうと画策する。いわば、マゼランの航海技術のみをもとめ、その艦隊を自分の統制下におき、利益はマゼランではなくフォンセカとアロで握ろうとしたのである。マゼランの盟友である天文学者ルイ・デ・ファレイロも艦隊から外され<ref group="註">航海の実務を知らないファレイロをマゼラン自身が外したがったという説もある</ref>、これに反発したマゼランはスペイン王に交渉し自分の親族や自分の意に沿うポルトガル人を幹部に入れることに成功するが、しかし、それでも幹部の大半はフォンセカの息のかかった者たちであり<ref name="増田p82-89">増田(1993)、pp.82-89</ref>、艦隊に同行したアントニオ・ピガフェッタはその著書のなかでマゼランの指揮下の船長達は何故かマゼランを憎んでいたと書いている<ref name="ピガフェッタp18">ピガフェッタ(2011)、p.18</ref>。
そして1520年[[10月21日]]、ついに西の海へと抜ける道を発見した。これは後にマゼランの名前をとって'''[[マゼラン海峡]]'''と呼ばれることになる。しかしマゼラン海峡を抜ける途中で艦隊最大の船であったサン・アントニオ号([[エステバン・ゴメス]]の船)が反乱分子の手に落ち、多くの食料を積んだまま本国に向けて逃亡(後の[[1521年]][[5月6日]]スペインに帰国した。なお、この船は喜望峰に向かう途中に[[フォークランド諸島|サン・アントン諸島]]を発見している)。これで艦隊は3隻となってしまった。


===スポンサー・プロデューサーであるアロ===
1520年[[11月28日]]、艦隊は海峡を抜けて大海に達する。マゼランはこの海が穏やかなことを喜んで'''マール・パシフィコ'''(El Mare Pacificum 平和の海、[[太平洋]])と名づけた。しかし、これから先が再びの地獄となる。
[[ファイル:Nao Victoria.jpg|thumb|200px||left|ビクトリア号の復元船 マゼランの艦隊で世界一周に成功した船]]
有能な商人であるアロは、マゼランが艦隊の指揮を執ることに決まると、資金調達に奔走する。結局は艦隊の費用の大半をアロとアロが代理を務めるフガー商会が出したと言われる<ref group="註">スペイン王の秘書トランシルヴァーノの記録では、最終的にはスペイン王が費用を出したとしている。ただし、トランシルヴァーノはあくまでスペイン王側の人間である。1522年ビクトリア号が持ち帰った香料はアロが扱っている。</ref>東洋交易に通じ、商務に通じたアロは船そのものの調達や艤装、艦隊の装備品、武器、食料、交易品などの調達をすべて指揮したと言われる<ref name="増田p84-85">増田(1993)、pp.84-85</ref><ref name="合田p119">合田(2006)、p.119</ref>。マゼランとアロが用意した船と装備品・物品のリストは明細で現在に残っている。艦隊は旗艦トリニダー号(110トン)以下、サン・アントニオ号(120トン)、コンセプシオン号(90トン)、[[ビクトリア号]](85トン)、サンティアゴ号(74トン)の5隻に人員は約270人<ref group="註">マゼランに関する最も著名なツヴァイクの伝記など各種の伝記ではマゼラン艦隊の総員を265人としているものが多い。また[[セビリア]]の[[インディアス総合古文書館]]に残るマゼラン艦隊の乗組員名簿はいくつかあり、数字はそれぞれ若干違いがあるが270から280人程度とされる。乗組員のなかでもっとも多いのはスペイン人だが、ポルトガル人37人イタリア人30人以上などヨーロッパ各地の人々や少数であるがアジア人アフリカ人も含まれている。マゼラン遠征についてもっとも有名な報告をした艦隊の乗組員ピガフェッタはその遠征の記録の中で「我々は総勢237人」としているが、「我々」の定義は不明である。スペイン王がマゼランに指示した艦隊の定員は230-235人であり、員数外の(特にマゼランと同国のポルトガル人が)相当数いて265人以上だったのは確実である。伊東(2003)、pp.82-83、ツヴァイク(1962)、p.120、合田(2006)、p.157</ref><ref name="航海の記録1pp.492-493">会田(1965)、pp.492-493</ref>、食料はたっぷり2年分を用意し、主食である航海用ビスケットは21万3800ポンド、塩漬牛肉7万2000ポンド、塩漬豚肉5万7000ポンド、エジプト豆1万80ポンド、ほか塩漬魚、アンチョビ、乾し豆、乾しぶどう、イチジク、米、蜂蜜など、ワインも船員1人に一日に1パイントの割り当てで2年分の用意をしている<ref group="註">ただし、実際には物品は帳簿上で2重に領収しており、実際にはこの半分しか乗せていないことが、後にわかる</ref>。香料との交易品としては銅2万ポンド、水銀2100ポンド、ドイツ製の小刀4800本、鏡1000個、鋏600個、櫛1500個、鈴1800個、水晶500ポンド銅や真鍮の腕輪挿み4000個など、これらの選択は東洋の事情に通じたアロの経験に基付いたものであり、東洋でとりわけ喜ばれるものであった。武器も大掛かりに積んでいる。5隻の大砲が合計で71門、小銃50挺、槍1000本などである<ref name="増田p89-90">増田(1993)、pp.89-90</ref>。しかし、これを知ったポルトガルは妨害工作を行い、もともと極めて長期の航海になることが予定されていたので準備に手間取り、当初の出発予定の1518年末はもちろん、1519年8月になっても準備は終らなかった。ついにしびれを切らしたスペイン王は1519年8月10日を出帆日と決め、準備が整っていなくとも出発するように命じた<ref name="増田p89-90"/>。
==世界周航==
===出帆===
[[File:Map of America by Sebastian Munster.JPG|thumb|250px||1544年に書かれ17世紀前半まで5ヶ国語合計35版発行されたドイツ人セバスチャン・ミュンスター([[:en :Sebastian Münster|Sebastian Münster]])による著作「[[:en :Cosmographia (Sebastian Münster)|Cosmographia]]」に掲載されているアメリカ図。ブラジルは'''Canibali'''「食人国」。パタゴニアは'''Regio Gigantum '''「巨人国」とか書かれている<ref name="合田270,272">合田『マゼラン』pp.270,272</ref>。本図は1561年の版からの着色図である。]]
マゼランの艦隊は王の命令通り1519年8月10日にセビリアを出発する。しかし、準備が整っていない艦隊は120キロメートル先のサンルーカル・デ・バラメーダ港でさらに約6週間留まり、1519年9月20日にいよいよ航海に旅立つ。艦隊は[[カナリア諸島]]に立ち寄りそこからマゼランは南に進路を取った。予定の航路は南西であり、南に向かうマゼランの指示は当初の計画からは外れていたのだが<ref group="註">ポルトガルの追撃を避けるためだったとか、風を読んだとも、ポルトガルの領域を避けるためであったとも言われるが、マゼランはスペイン人たちに黙って従うように要求し航路についての説明をしていない。説明のないことにスペイン人たちのマゼランへの反感はますます高まるのであった。-増田(1993)、pp.102-103</ref>、これに早速スペイン人の総監察官カルタヘナが異議を唱えた。マゼランはカルタヘナの異議を無視。反抗的な態度を取ったカルタヘナを逮捕する。やがて南西に進路を取った艦隊は12月13日、現在のリオ・デ・ジャネイロ地方に到着する。リオ・デ・ジャネイロ地方でマゼランたちは裸族[[トゥピナンパ族]]と出会う。トゥピナンパ族は人食いの習慣を持ち、この16世紀の地図ではカニバリと呼ばれる人々であったが、マゼランたちはトゥピナンパ族とは極めて友好的な交友を持ったようである。マゼランの世界周航の記録を書いた[[アントニオ・ピガフェッタ]]はあるエピソードを書き残している『ある日のことである。私が旗艦にいるときひとりの美しい若い女性がやってきた。あてずっぽうな目的で来たらしかったが、副長の部屋を眺めやると、指よりも長い1本の釘が落ちているのに気が付いた、女はひどくうれしそうにして上手にそれを拾い、陰唇のあいだにそれを差し込み、深くお辞儀をしてすぐ帰っていった。総司令官も私もこの情景を眺めていた。-増田『マゼラン』p.117』<ref name="増田p90-117">増田(1993)、pp.90-117</ref>


===パタゴニアと反乱===
=== イスラム教徒との戦いに敗北 ===
リオ・デ・ジャネイロ地方を後にした艦隊は香料諸島へ通じる海峡を探して南アメリカ東岸を南下する。ソリスも探索しおそらくは海峡でなく川であろうと結論したラプラタ川をマゼランは探るがやはり海峡ではなく、さらに南下しパタゴニア・サンフリワン湾に到達する。厳しいパタゴニアの冬を迎えしばらく停泊している艦隊にマゼランは食料の節約を命ずるが、豊かで友好的な交友を持ったリオ・デ・ジャネイロ地方での良い経験に比べ厳しいパタゴニアでの停泊に船員達には不満がつのっていった。その雰囲気の中でスペイン人幹部が反乱を起こす。先に囚われた艦隊の総監察官であるスペイン人カルタヘナは同じスペイン人のガスパル・デ・ケサーダが船長を務めるコンセプシオン号に囚われていたが、ケサーダと謀ってサン・アントニオ号を急襲、ポルトガル人船長を拘束し副長を殺してサン・アントニオ号を手中にする。さらにビクトリア号のスペイン人船長も加わって3隻が反乱側に付く事態となった。しかしスペイン人幹部は反乱は起こしたもののスペイン王の信任で総司令官の地位にあるマゼランを完全に退けることも躊躇しているうちに、マゼランはすばやく反撃、ビクトリア号の船長を刺殺して反乱を制圧する。反乱の首謀者カルタヘナは追放、ケサーダらを処刑もして反乱を収める事態となった。これ以降スペイン人はしぶしぶマゼランに従うが、マゼランへの反感は根強く残り、後にフィリピン・セブ島でマゼランが敵の大軍に囲まれているときにスペイン人は救援を出さずマゼランを見殺しすることになる。<ref name="増田p126-135">増田(1993)、pp.126-135</ref>。反乱を収めた後、停泊中のマゼランたちはピガフェッタが巨人と呼ぶ原住民に出会う。マゼランは彼らにパタゴンと名付けるが<ref name="ピガフェッタp35-43">ピガフェッタ(2011)、pp.35-43</ref>、これは現在のパタゴニアの地名の由来となっている。
海峡を抜けた後はひたすら何も無い海が続き、途中ふたつの無人島を発見したが、100日ほどに渡って食糧補給の機会を得られず、飢えに苦しんだ。1521年[[3月6日]]、太平洋に出てから実に99日目にしてついに有人の島を発見、島の村落を襲って島民らを殺して食料を強奪するが、現地住民によって奪還され、怒ったマゼランは焼き討ちをかけ、ここをラドロネス諸島(泥棒諸島)と名づける。現在の[[グアム]]だとされる。
{{main|パタゴン}}
艦隊は[[1520年]][[8月24日]]に航海を再開、さらに南下を続けるが、それまでの調査航行中にサンティアゴ号が難破して失われてしまった<ref name="ピガフェッタp44">ピガフェッタ(2011)、p.44</ref>。


そして1520年[[10月21日]]、ついに西の海へと抜ける道を発見した。これは後にマゼランの名前をとって'''[[マゼラン海峡]]'''と呼ばれることになる。しかしマゼラン海峡を抜ける途中で艦隊最大の船であったサン・アントニオ号([[エステバン・ゴメス]]が航海長である)がはぐれた。サン・アントニオ号の船長メスキータはあくまで艦隊を探し合流することを主張したが航海長ゴメスが反対して船長を拘束、艦隊に残る食料の多くを積んだまま、スペインに引き返し、[[1521年]][[5月6日]]スペインに帰国した。<ref group="註">なお、この船は引き返す途中に[[フォークランド諸島|サン・アントン諸島]]、現在の呼び名で[[フォークランド諸島]]を発見している</ref>。艦隊は2年分積み込んだはずの食料が2重に領収する手違いのもあってマゼラン海峡の途中の時点で既に残り3ヶ月分しか食料がなく、ゴメスは3ヶ月分の食料で未知の海洋に乗り込むことを恐れ反対したがマゼランに退けられてマゼランへの反抗心を持ち、乗組員もゴメスを支持したものとされている<ref name="増田p143-152">増田(1993)、pp.143-152</ref>ピガフェッタはその背景にゴメスが一度は手にしそうになった艦隊の指揮権をマゼランに取られたことで憎しみを持っていたからだと推測している<ref name="ピガフェッタp48">ピガフェッタ(2011)、p.48</ref>。これで艦隊は3隻となってしまった。
[[3月16日]]にフィリピンの[[サマール島]]最南端のホモンホン島に上陸しフィリピン諸島への第一歩を記す。南へ進み、[[レイテ島]]南端沖のリマサワ島でフィリピンで最初の[[ミサ]]を行ったと地元では伝えられている。レイテ島を回りまっすぐ西へ進み、[[3月28日]]に[[フィリピン]]の[[セブ島]]に上陸。ここで長い間身辺に置いていた[[マレー人]]奴隷[[マラッカのエンリケ|エンリケ]]を先に使者として上陸させたが、この時にエンリケが現地の言葉を理解できた。すなわちマゼランがかつて東回り航路でやってきた[[マレー語]]圏に再びやってきたのであり、マゼランは世界一周を成し遂げたのである。


マゼランの艦隊がマゼラン海峡を進むと左側の島でおびただしい数の火が見えた。マゼランたちはこの地方の住民が艦隊を見つけてたがいに合図の烽火を上げているのだろうと推測している。しかし、マゼランたちは住人の姿は見ていない<ref name="ピガフェッタp294">ピガフェッタ(2011)、p.294</ref>。このエピソードから後にティエラ・デル・フエゴ(火の島)と名付けられたこの島は人が住む世界最南端の地である。
セブ島で現地の指導者ラジャ・フマボンに面会し、彼を[[キリスト教]]に[[改宗]]させる。そして彼を王として認めるように周辺の島々に要求したが、これに隣島の[[マクタン島]]の領主でイスラム教徒の[[ラプ=ラプ]]が反対し、マゼランとの戦闘になった。この戦闘に敗北し、マゼランは戦死した。[[4月27日]]のことである。


海峡を抜けるとそこは広大な海だった。マゼランはついに大西洋から太平洋につながる航路を発見したのだった。ピガフェッタは『提督は喜びのあまりはらはらと涙を流し、水路の出口の岬を「待望の岬」と命名した-ピガフェッタ『マゼラン最初の世界一周航海』長南 訳、岩波文庫、2011、p.49』と伝えている<ref name="ピガフェッタp49">ピガフェッタ(2011)、p.49</ref>。
=== 世界一周 ===
===太平洋===
残された乗組員はひどく人数が少なくなってしまったため、損傷の激しいコンセプシオン号をセブ島で焼き捨てることにした。そして残った2隻の船長らが中心となって再び航海を続けるため出航し、しばし迷走しながらも[[1521年]][[11月8日]]当初の目的地であった[[モルッカ諸島]]に何とかたどり着くことができた。しかし[[ティドーレ島]]で大量の[[香辛料]]を積み込んだもののトリニダード号が破損し、大掛かりな修理をしないと出航不能なことが判明。やむなくビクトリア号だけが先に西を目指して帰航の途に就くことになるが、結果的にこれが最後の一隻となった。この時、最後の指揮官となったのが船長の[[フアン・セバスティアン・エルカーノ]]である。[[香辛料]]を満載したビクトリア号は1521年[[12月21日]]、残された航路を急ぐためティドーレ島を出航。[[喜望峰]]を回って[[1522年]][[9月6日]]にスペインに帰還した。生き残り無事に帰りついた乗組員は、わずかに18名であった。船内ではビタミンC不足による[[壊血病]]が多くの船員の命を奪った。
太平洋に出たマゼランはしばらくはチリ沿岸に沿って進みやがて北西に進路をとる。太平洋での航海をピガフェッタは次のように記録している『1520年11月28日水曜日にわれわれはあの海峡から抜け出て、太平洋のまっただ中に突入した。三ヶ月と20日のあいだ新鮮な食べ物は何ひとつ口にしなかった。ビスコット(乾パン)を食べていたが、これはビスコットというよりむしろ粉クズで、虫がうじゃうじゃ沸いており良いところはみな虫に食い荒されていた。そして、鼠の小便の臭いがむっと鼻につくようなしろものだった。日数がたちすぎて腐敗し黄色くなった水を飲んだ。また、主帆柱の帆桁に張り付けてあった牛の皮さえも食べた。-ピガフェッタ『マゼラン最初の世界一周航海』長南 訳、岩波文庫、2011、p.60』太平洋での航海でマゼラン艦隊では19人の乗組員とブラジルで乗せたインディオ、パタゴニアで乗せたパタゴンが壊血病と栄養失調で死んでいる。無人島をいくつか通り過ぎ、餓死寸前のマゼランの艦隊は1521年3月6日、現在でいうマリアナ諸島にたどり着く。ピガフェッタによるとマリアナ諸島に着き上陸の準備をしていた艦隊を島民の小船多数が取り巻き、さらに船に忍び込んできて手当たり次第に装備品を盗んでいき、それに酷く立腹したマゼランは武装兵40人を上陸させ島民を7人殺害し家屋を40-50軒焼き払い、島に泥棒諸島と名付けたとされる。トランシルヴァーナは曖昧な記述しかしていない。<ref group="註">非友好的で暴力的な出会いにも関わらず、ピガフェッタはマリアナ諸島民の住居や暮らし、島の食品について詳しく書き残している、しかし島民の住居や島の食品について言及し餓死寸前であったにも関わらずピガフェッタはマリアナ諸島での自分達の食料の入手方法について書いていない。艦隊がマリアナ諸島を後にする際の島民達の非友好的で攻撃的な様子もピガフェッタは強調している。マゼランやピガフェッタはマリアナ諸島の島民を泥棒呼ばわりしているが、島民が泥棒ならばおそらくマゼラン達は強盗殺人犯であろう。どちらが先に手を出したのかはわからない。リオ・デ・ジャネイロのトゥピナンパ族とは友好的な出会いをしたマゼランたちであるが、パタゴニアでは[[パタゴン]]を誘拐、マリアナ諸島では餓死寸前の状況とはいえ強盗殺人である。ピガフェッタによるとマゼランは次に出会うフィリピン人を「ものの道理の分かる人」つまり理知的な人々と認めたが、逆に南米やマリアナ諸島の人のことは「理知的な人々とは認識していなかった」のであろう。マゼランの死後、フィリピンとボルネオの中間パラワン島で艦隊はたまたま出合った人を人質に取り食料を要求し、ティモール島でも人質を取り身代金として食料を要求している。つまり営利誘拐もしているが、その様子を報じているピガフェッタは悪びれた様子も無く、むしろ無邪気である-ピガフェッタ(2011)p.157。艦隊はフィリピンから香料諸島への間で海賊行為も多数行っている-合田(2006)p.204。(ただし、異教徒人への海賊行為はマゼラン艦隊だけでなく、この時代のスペインやポルトガルの航海者は普通に行っている。)中世人の倫理観は21世紀の現代人とは同じではない。</ref><ref name="ピガフェッタp65-66">ピガフェッタ(2011)、pp.65-66</ref>。1521年3月9日泥棒諸島を後にした後マゼランたちは一週間後の3月16日フィリピン諸島を発見した。
===フィリピン諸島===
フィリピン諸島での最初の寄港地には安全な無人島を選んだ。翌3月18日、初めてフィリピン人つまり近くのスルアン島の住人に出会うが、マゼラン達は出合ったフィリピン人を「ものの道理が分かる人」と評価している。つまり、王の元での秩序ある社会を築き、文化を持っている人々とみなしたのである<ref name="増田p184-185">増田(1993)、pp.184-185</ref>。3月28日にはレイテ島付近で出会ったフィリピン人に試しにマゼランのマレー人奴隷エンリケが呼びかけるとマレー語で答えが返ってきた。マレー人と交流のある地域に達したのだった。この後、[[レイテ島]]南端沖のリマサワ島で王コランプ<ref group="註">ピガフェッタは王と呼んでいるが、当時のフィリピンには中央政府はなく多くの首長がそれぞれ小さな領地を治めていた。ピガフェッタの記録にはフィリピンだけでもたくさんの王が登場する。</ref>はさらにマレー語に通じ、エンリケの通訳を介して会話が可能<ref group="註">トランシルヴァーノはエンリケと王の間にもうひとり通訳が入ったと書いている</ref>になったマゼランとコランプは親密になり、リマサワ島でフィリピン最初のミサをあげ十字架を立てている。さらにコランプは艦隊が補給をするのに最適な地としてセブ島を紹介し案内する。4月7日セブ島に上陸したマゼランはセブ王が付近の王(首長)たちの中でも有力であることを見て熱心に布教を始める。マゼランが熱心に説くキリスト教の教えにセブ王をはじめ500人の人が洗礼を受けた。また、マゼランとセブ王は何度も抱き合うほど親しくもなり、このことに気を良くしたマゼランはセブ島周辺の王(首長)たちにもキリスト教への改宗と(先にキリスト教徒になった)セブ王への服従を要求するようになる。いわば現地の政治情勢に到着したばかりのマゼランが首を突っ込んでしまったのである。<ref group="註">セブ王の改宗とマゼランへの行為が本心からのものか、それともスペイン人の武力を取り入れるためのものだったのかは分からない。</ref><ref name="増田p198-206">増田(1993)、pp.198-206</ref>。
===マゼランの死===
セブ島で食料も補給し多くの島民を改宗させたマゼランだが、何故か目的の香料諸島へは向かわず布教を続けている。4月27日セブ島対岸の小島マクタン島に突然出撃した。ピガフェッタによるとマクタン島の首長の一人ズラはマゼランの要求に従う気はあるがもう一人の首長[[ラプ=ラプ|シラプラプ]]が従わないので困っているのだと伝えてきたからだとしている。これを聞いたマゼランは[[ラプ=ラプ|シラプラプ]]を従わせようと兵を率いてマクタン島に乗り込んだのだが、[[ラプ=ラプ|シラプラプ]]は既にこれを察知しておりマゼランの49人に対して1500人の軍勢を配置していた<ref group="註">ピガフェッタによる。ピガフェッタ自身、このときの戦闘に加わっておりピガフェッタも負傷している。ピガフェッタはマゼランの最後を見ていたとされる。トランシルヴァーノの調書ではマゼランの兵は40人、敵は3000人としている。トランシルヴァーノによるとマゼランは味方であるセブ人に手を出さず自分達の戦闘を見ているように指示したとのことである。一説では船に残っていたスペイン人は圧倒的な敵に取り囲まれているマゼランを見ながら救援を出そうとしなかったという。出航いらいの反感が出たのかもしれない。-イアン・キャメロン『マゼラン』p.158</ref>しかしマゼランは圧倒的に多数の敵を前にして部下に『諸君、われらの敵であるこれらの住民たちの数に恐れをなしてはならない。神が我らを助け給うであろうから。諸君、思い出すがよい、あの[[エルナン・コルテス]]隊長がユカタン地方で、200人のエスパニャ人でもって、しばしば20万、30万の住民たちを打ち破ったということを我々が耳にしたのはつい最近のことではないか-引用、ピガフェッタ,トランシルヴァーノ著『マゼラン最初の世界一周航海』長南 実 訳、p.303-304』と演説し、寡兵にも関わらず戦闘に突入。30倍の数の敵と1時間に渡って戦ったのち遂にマゼランは戦死する<ref name="ピガフェッタp117-121、303-304">ピガフェッタ(2011)、pp.117-121、303-304</ref>。


==マゼランの死後==
スペイン出港時の5隻235名のうち、エルカーノに率いられたビクトリア号と一緒に帰国した者が18名。帰路カーボベルデでポルトガルに捕えられた12名、トリニダード号の生き残り5名ものちに帰国。また、本国へ逃亡したサンアントニオ号に60名が乗っていた。
[[ファイル:Magellan-Map-En.png|right|thumb|300px|マゼランの航路]]
マゼランの死後数日して、セブ王はマゼランの艦隊の幹部を宴会に招待する。マゼランの死後、艦隊はマゼランの親族に当たるものを後継の指揮官にしていたが、それを含めてマゼランの艦隊の幹部24名はセブ王の宴会に出席するが、それは罠で全員虐殺されることになる。ピガフェッタはマゼランの奴隷エンリケが謀ってセブ王に計略を持ちかけたのだとしている。


アントニオ・ピガフェッタの記録やトランシルヴァーノの聞き取りによれば、マゼランの死後、負傷したエンリケは通訳の仕事を放棄して艦内で横になっていた。そこにマゼランの後を継いだ艦隊の指揮官はエンリケに『主人のマゼランが死んだからといって自由になったと思ったら大間違いだ。スペインに帰ったら未亡人のベアトリス様の奴隷になるのだ。今上陸しなかったら鞭を食らわすぞ -引用 ピガフェッタ『マゼラン最初の世界一周航海』長南 実 訳、角川文庫、2011年、p122』と脅し、エンリケはセブ王の元に使わされた<ref name="増田p215-216">増田 (1993)pp.215-216</ref>。
その後、マゼランが提唱した西回り航路は危険が大きすぎるために省みられずにポルトガルへ売却されることになる。しかしマゼランが「'''[[地球]]が丸い'''」ことを実証したことはヨーロッパの[[大航海時代]]にとって非常に大きな意味があったと言える。なお、マゼランを殺したラプ=ラプはフィリピンで侵略者を撃退した英雄として伝説になっている。

戻ってきたエンリケは艦隊の首脳をセブ王の宴会への招待の報をもたらしたが、宴会に出席した艦隊幹部は全員殺されることとなってしまった。ピガフェッタや同行の乗組員の推測ではエンリケがセブ王と図ってマゼランの遺書<ref group="註">マゼランが出航前に残した遺書では、マゼランの死後、エンリケは解放し、一定の遺産を与えることになっている。マゼランの生前は忠実にマゼランに仕え、マゼランの戦死の際もマゼランと一緒に戦って負傷しているエンリケである。-ツヴァイク『マゼラン』みすず書房、1972年、p.131、ピガフェッタ『マゼラン-最初の世界一周航海』岩波文庫、2011年、pp.122-123</ref>ではエンリケはマゼランの死後解放されるはずなのに遺書を無視して自分の開放を認めようとしなかったマゼランの後継者に復讐を遂げたのだとされている<ref name="増田p215-216"/><ref name="ピガフェッタp122-123">ピガフェッタ(2011) pp.122-123</ref>。その後のエンリケの消息は分かっていない。

大幅に人員が減り3隻の運行が難しくなった艦隊はコンセプシオン号を破棄、残るトリニダー号とビクトリア号は迷走しながらも1521年11月8日香料諸島にたどり着く。香料諸島では王の厚遇を得て大量の丁子を積むが、丁子を積みすぎてトリニダード号は浸水。艦隊は修理に取り掛かったトリニダード号を香料諸島に残し(4ヶ月後に修理がかなったトリニダード号だが結局はポルトガルに拘束され、3年後に乗組員のうち4人が帰国するのみである)[[フアン・セバスティアン・エルカーノ]]を船長としてビクトリア号1隻60人の人数で香料諸島を出発、ポルトガルの勢力圏内で途中の港に立ち寄れないスペイン船ビクトリア号では壊血病と栄養失調で多くの死者を出しながら1522年9月6日スペインに帰国する。スペイン帰国時の乗組員は21名内3人は途中で乗せたインディオなので、出発時約270人の乗組員の内世界周航を達成できたのはエルカーノや艦隊の報告を書いた[[アントニオ・ピガフェッタ|ピガフェッタ]]ら18人だけであった<ref name="増田p240-253">増田(1993)、pp.240-253</ref>。ほぼ3年にわたる航海であった。

その後、スペインは上流貴族ロアイサを名目上の指揮官、マゼラン艦隊の最終的な指揮官エルカーノを実質上の指揮官にした第二の西回りでの艦隊を送り出すがロアイサの艦隊はマゼラン艦隊以上の損失を出し失敗。ロアイサもエルカーノも死んでしまう。その後も西回りで送り出すスペインの艦隊はことごとく失敗。マゼランが提唱した西回り航路は危険が大きすぎるために省みられずに結局はポルトガルへ売却されることになり、ヨーロッパから西回りでの香料貿易ルートは閉ざされることになる<ref name="増田p256-257">増田(1993)、pp.256-257</ref>。マゼランが開拓しようとした西周りでのアジア航路は失敗に終った。しかしマゼランの功績は世界史的な意味で太平洋を発見し(太平洋は[[バスコ・ヌーニェス・デ・バルボア|バルボア]]が発見したが、バルボアは太平洋が大洋であることは認識していなかった)、地球の真の大きさを世界に指し示したことだと考えられている。なお、マゼランを殺した[[ラプ=ラプ|シラプラプ]]はフィリピンで侵略者を撃退した英雄として伝説になっている。


マゼランが発見した海峡は[[マゼラン海峡]]と呼ばれるようになり、またマゼランが航海中に観測したという話から[[大マゼラン銀河]]、[[小マゼラン銀河]]の名がついた。また、[[太平洋]]は、マゼランが一度も嵐に合うことなく、大きな海を乗り切った静かなる海という意味で名付けられたといわれる。
マゼランが発見した海峡は[[マゼラン海峡]]と呼ばれるようになり、またマゼランが航海中に観測したという話から[[大マゼラン銀河]]、[[小マゼラン銀河]]の名がついた。また、[[太平洋]]は、マゼランが一度も嵐に合うことなく、大きな海を乗り切った静かなる海という意味で名付けられたといわれる。
==マゼランの記録==
マゼランの業績について語る資料は少ないが以下の物が主だった記録である。


*アントニオ・ピガフェッタ「最初の世界周航の報告書」 マゼラン艦隊に同行したイタリア人ベネチア貴族によるもの。帰国後ローマ法王の薦めもありマゼラン艦隊の記録を書く。これが改竄を受けながらもヨーロッパ中で発行され広く読まれたものと思われている。後年の伝記作家や研究者はピガフェッタの記録を中心にマゼランの航海を考察している。ピガフェッタの記録は2011年岩波文庫、1965年岩波書店大航海時代叢書などがピガフェッタの和訳全文を刊行し、2011年岩波文庫で240ページほどの記録である。
== 関連書籍 ==
*トランシルヴァーノの調書 スペイン王の秘書トランシルヴァーノが航海直後、[[フアン・セバスティアン・エルカーノ]]ら乗組員3名からの聞き取り調査をまとめたもの。マゼラン寄りのピガフェッタがマゼランとスペイン人の対立に関しては口を濁しているのに比べ、パタゴニアでは反乱側であったエルカーノではあるが、トランシルヴァーノの調書は反乱に関しては赤裸々に書いている。トランシルヴァーノの調書も2011年岩波文庫でピガフェッタの記録とあわせて和訳刊行されており、2011年岩波文庫で78ページの記録である。
* 「マゼラン ツヴァイク伝記文学コレクション」(著:[[シュテファン・ツヴァイク]]、訳:関 楠生・河原忠彦、[[みすず書房]])ISBN 4-622-04661-X
*アルボの航海日記 ビクトリア号の航海長 航海日記であるだけに客観的な記録である。航路などのデータに関してはピガフェッタより信頼されている。
*セビリアのインディアス総合古文書館 インディアス総合古文書館には乗組員名簿や積荷のリスト、王の命令書などマゼラン艦隊に関する公的な書類が多く残されている。
== 脚注 ==
=== 註釈 ===
{{Reflist|group="註"}}


=== 出典 ===
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== 参考文献 ==
* 会田 由 他 監修『航海の記録』岩波書店、大航海時代叢書 第1巻、1965年
* 伊東 章 著『マゼランと初の世界周航の物語』鳥影社、2003年、ISBN 4-88629-750-1
* 合田 昌史 著『マゼラン : 世界分割を体現した航海者』京都大学学術出版会、2006年、ISBN 4-87698-670-3
* 増田 義郎 著『マゼラン』原書房、1993年、ISBN 4-562-02307-4
* イアン・カメロン『マゼラン』草思社、1978年
* シュテファン・ツヴァイク 著『マゼラン』ツヴァイク伝記文学コレクション、関 楠生、河原忠彦 訳、みすず書房、1962年
* ピガフェッタ 著『マゼラン最初の世界一周航海』長南 実 訳、岩波書店、岩波文庫、2011年、ISBN 978-4-00-334941-0
== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
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*[[マゼラン銀河]]
*[[マゼラン銀河]]
*[[マニラ・ガレオン]]
*[[マニラ・ガレオン]]

== 外部リンク ==
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*[http://libweb5.princeton.edu/visual_materials/maps/websites/pacific/magellan/magellan.html Ferdinand Magellan-Princeton University Library]


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2011年10月12日 (水) 04:23時点における版

フェルディナンド・マゼラン
フェルディナンド・マゼラン(Ferdinand Magellan)
生誕 1480年
ポルトガルポルト近郊
死没 1521年4月27日
フィリピンマクタン島の戦い
職業 探検家、航海者
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フェルディナンド・マゼラン(Ferdinand Magellan、1480年 - 1521年4月27日)はポルトガルの航海者、探検家1522年マゼランが率いた艦隊が史上初の世界一周航海を成し遂げたことで知られる。

概要

マゼランはヨーロッパから西回り航路での東洋の香料諸島(モルッカ諸島)への渡航ルート発見を目指して世界一周へ旅立った航海者である。1519年スペイン王のもとで5隻の艦隊を率いてスペインセビリアを出発したマゼランは南アメリカ大陸の南端マゼラン海峡を発見して太平洋に到達し、マゼラン自身は途中1521年フィリピンで戦死したが、残された艦隊が史上初めての世界一周を達成した[1][註 1]。マゼラン自身は世界一周を成し遂げてはいないが[註 2]、人類初の世界周航航海を達成した艦隊はマゼランの艦隊として後世に名を残している。[1]マゼラン海峡のほかマゼラン星雲[2]マゼランペンギン[3]宇宙探査機マゼラン[4]など多くの物が航海者マゼランの名にちなんで名付けられている。

ポルトガル語名(本名)はフェルナン・デ・マガリャンイス[註 3]Fernão de Magalhães)、スペイン語(カスティーリャ語)名はフェルナンド・デ・マガリャネスFernando de Magallanes, 名はエルナンドHernandoとも)。「マゼラン」は英語での綴りを基にした慣用表記で(発音はマゼランではなく「マジェラン」)、世界的にこの呼び方(Magellan)が浸透している[5]。この項では「マゼラン」で統一する。

世界周航まで

前歴

1519年までのマゼランの記録は確かなものは少なく確実なことはあまり分かっていないが、1480年ごろにポルトガル北部ミーニョ地方ポルト近郊ポンテ・ダ・バルカの下級貴族である父ルイ・マガリャンイスと母アルダ・デ・メスキータの間に生まれたとされている[6][7]。1492年、王妃レオノーラの小姓としてポルトガル宮廷に入る[8]。このポルトガル宮廷小姓時代にコロンブスの新世界発見やヴァスコ・ダ・ガマの喜望峰経由の東洋航路発見の業績を知ることになり航海への関心を深めたと言われる[9]ヴァスコ・ダ・ガマの東洋航路発見を受けて1500年からポルトガルは次々に東洋へ艦隊を送り出すが[10]1505年東洋の覇権をポルトガルの物にするべくフランシスコ・デ・アルメイダの20隻の艦隊がポルトガルを出発した[11]。このアルメイダの艦隊に25歳のマゼランは希望して加わり、これがマゼランの初の航海となった[10]。最初のマゼランの地位は代理士官であり、貴族とはいえ下級貴族出身のマゼランは船室は下級船員と同じと言う待遇であった[11]。同じ艦隊には弟ディエゴと従兄弟のフランシスコ・セラーンが加わっていたが[11]、このセラーンはマゼランの世界周航西ルート開拓の動機に後に関わってくる。アルメイダの艦隊は東アフリカのイスラム勢力の排除にかかるが、マゼランは2年3ヶ月ほど東アフリカのポルトガル拠点の構築に働いている。その働きの中で指揮官の1人ペレイラに認められ副舵手に抜擢され、戦士としてまた船乗りとして経験を積んでいる[12]。こののちマゼランはインドのコチンに行くことになるが[10]、この海域でイスラムとポルトガルの覇権を争う海戦が起こり1509年2月3日ポルトガル艦隊19隻とイスラム船200隻の海戦でポルトガルは勝利しインド洋でのポルトガルの覇権を確立する。この戦いでマゼランは5ヶ月コチンの病院に入院するほどの重傷を負っている[13]。1509年9月回復したマゼランはペレイラ率いるマラッカ遠征に加わった。この時点でポルトガルは胡椒を除く多くの香料の産地がインドではなく香料諸島であること、ライバルであるスペインが西回りルートでの東洋航路を模索していることなどを把握し早期の香料諸島の覇権を急ぎ、まずは香料諸島への重要な中継拠点であるマラッカの確保に乗り出したのである。しかしポルトガルにとって最初のマラッカ遠征であるペレイラの艦隊はマラッカ王の策略によって大敗。この敗戦のなかでマゼランは水際で戦い危うい状況であった従兄弟セラーンをボートで救う活躍をしている[14]。ポルトガルの最初のマラッカ遠征は失敗に終るものの、この遠征中の業績によってマゼランは船長の位を授かることになる[15]。実力よりも家柄で地位が決まることの多い中世で、見習い士官から船長の地位にまで上ったマゼランの船乗りあるいは戦士としての能力は相当に高かったものと想像されている。インドの支配を固めたポルトガルは1511年4月再度マラッカに大艦隊を送りこれを制圧。このポルトガルのマラッカ制圧戦の功績でマゼランは指揮する大型のカラベラ船の1隻と個人的な奴隷(マラッカのエンリケ)を与えられた。引き続いて、ポルトガルは香料諸島への遠征隊を派遣する。この香料諸島遠征隊にはマゼランは参加していなかったものの従兄弟のセラーンが参加している[16][17]

セラーン

マゼランの従兄弟であり、同じ東洋派遣部隊の将校であるフランシスコ・セラーンはポルトガルの最初の香料諸島遠征に参加したが、艦隊は途中で遭難。セラーンは孤立しながらも通りかかった中国のジャンク船を奪い香料諸島に到達する[18]。セラーンは香料諸島において島の一つテルテナの王の軍事顧問のような役割をはたし、王の重臣として高い地位と裕福な生活を手に入れる。セラーンは香料諸島に王につぐ地位を持ち滞在しながら、ポルトガルやマゼラン宛に手紙を書き報告している、マゼランにあてた手紙でセラーンは香料諸島がうわさ通り豊富な香料を産すること、ポルトガルの支配がまだ確立できていないこと、そして『私はヴァスコ・ダ・ガマが見たよりもより豊かで、大きく、より美しい新世界を発見した。あなた(マゼランのこと)がここで私と一緒になり、私のまわりにある喜びを自ら味わうことを望む -引用 イアン・キャメロン『マゼラン』草思社、1978年、p.34』とマゼランに書き送っている。セラーンの手紙によってマゼランは、胡椒以外の香料の大部分を香料諸島が産出し海洋交易国のポルトガルやスペインにとって重要であることと、香料諸島がマラッカよりはるか東方にあり、その支配をポルトガルがなかなか確立できそうにないこと、香料諸島が大変に豊かな島であること(これは後にピガフェッタは否定しているが)を知り、このことはのちにマゼランがスペイン王の元で西回りの香料諸島渡航ルート開拓を志願する動機の一つとなっている。セラーンはこの後、マゼランがスペインから西回りの東洋航路発見の航海についている間に香料諸島の王の1人に計略で殺害されている[19][20][21]

1511年のマラッカ制圧の後、1年半ほどはマゼランが何をしていたのかは記録はない。おそらくはマラッカ周辺海域の哨戒任務についていたのではないかとされる。マゼランは1513年1月に帰国の途に付きたが、帰国した訳も分かっていない[22]。およそ8年の東洋艦隊勤務で船乗りとしても戦士としても十分な経験を積んでの帰国であった[22]

1513年のポルトガルの情勢

バスコ・ダ・ガマが始めて喜望峰回りのインド航路を開いた1499年からマゼランが帰国した1513年までのわずか14年でポルトガルは安定したインドへの航海ルートを確立していた。マゼランが8年の勤務を終え帰国したポルトガルは香料貿易が栄え、、16世紀まで香料貿易を独占していたベネチアからその地位を奪い大海洋国としての地位を固めていた。香料貿易を独占し遠洋貿易を独占する勢いのポルトガルにはヨーロッパ中の有力商人とくにイタリア人商人とドイツ商人とが取引を希望してその商権を争う状態であった[23]。ドイツの大商人であるフガー商会はその代理人としてクリストバル・アロをリスボンにおいていた。クリストバル・アロは優れた商人であり、バスコ・ダ・ガマの喜望峰回りのインド航路発見以前、コロンブスの新世界発見の直後から西回りでのアジアへの航海ルート探索に関心を持っていた。アロはポルトガルが開拓した喜望峰回りでの東洋交易の詳細も把握しポルトガルが開拓した喜望峰回りでのインド交易ルートに多額の投資を行うのに加え、アロは自身がスポンサーとなり西回りの東洋交易ルート開拓の探検隊を派遣するまでになっている。しかし、アロはイタリア人商人の中傷によってポルトガル王マヌエルの信任を失い、1516年スペインに活動の場を移す。アロは後に1519年からのマゼランの世界周航に大きな役割をはたすことになる[24]

マゼランの北アフリカ遠征

1513年にポルトガルに帰国したマゼランがその後何をしていたのかは記録が少ない、ただし、帰国後ほどなく1513年8月にはポルトガルの北アフリカ征服の一貫であるモロッコのアザムール攻略に鹵獲品管理担当将校として参加している。アムザール攻略でマゼランは戦士としても戦い戦傷を受け右足が不自由になっている。後年の研究者はこのときのマゼランは必ずしも最前線で戦うべき職務ではないのに最前線で負傷しているのは、マゼランが騎士として正々堂々とした戦闘を好む性格であったからであろうと推察している[註 4][25]。マゼランが付いていた鹵獲品管理担当将校という役職は私腹を肥やすことが可能な役職であったためにマゼランは言われ無き中傷と嫉妬にさらされ、鹵獲品の横流しで私腹を肥やしたとあらぬ疑いをかけられている[26]。汚職の汚名を着せられたマゼランは無断で帰国、ポルトガル王マヌエルに無実を訴え、香料諸島への派遣を直訴するが、当然に王はこれを無視、モロッコへの戻るよう命令する。一旦、北アフリカに戻されたマゼランは疑惑がうやむやの内にポルトガルに帰国する[27]。後年の研究者達はマゼランの性格と行動からマゼランへの汚職の告発はおそらくは冤罪であろうとしている[28][29]

ポルトガル宮廷を去る

1515年、北アフリカ遠征から帰ったマゼランはポルトガル王マヌエルに謁見し、その後ポルトガル宮廷を去っている。

マゼランがポルトガル宮廷を去った詳細や理由についての確実な資料はないが、通説では、マゼランはポルトガル王に2つの要求をし、拒絶されたとしている。まずは2度も大怪我をした勤務の功績に対しての月棒の増額である。しかしマゼランが要求した増額の幅はわずかなものであり銀貨1枚分に過ぎず[註 5]、これは金銭の要求よりも月棒に宮廷での地位と名誉が象徴される現状で自分の功績を認めて欲しかったからだとされる。ポルトガル王はこれを拒否。続いてマゼランは東洋へ派遣される船の指揮を任せてくれるよう王に依頼する。しかし、これもポルトガル王に拒絶される[30]。通説では、ポルトガル王とマゼランはマゼランの小姓時代から馬が合わなかったとも[31]、面会のときのマゼランの態度が当時の宮廷世界での慣わしに沿っていなかったからだとも、[32]。あるいはマゼランがセラーンから得た情報で香料諸島はトルデシリャス条約(後記)によってポルトガルではなくスペインの領域にあるとの認識を持っていたからだとも言われる[20]

1515年スペインの情勢

マルテルス図 (1490年) コロンブスやマゼランの世界観に近い地図である。アメリカは独立した大陸ではなく、東アジアの大半島としてとらえられていた

マゼランがポルトガル宮廷を去った当時のスペインはすでに西回り航路の発見に重大な関心を持ち、すでに幾多のアジアへの西回り航路の開拓の為に幾多の艦隊を派遣していた。すでにポルトガルが喜望峰まわり(東回り)の航路を固めて大きな利益を上げていた比べ、拠点を持たなかったスペインが西回り航路に寄せる期待は大きかった。決して西回りでのアジア航路発見はマゼランが最初に思いついた訳ではなく、1492年のコロンブスの航海がスペインの支援の下に行われたように、むしろマゼランの初航海以前からのスペインの国家的関心事項であったとも言える。コロンブス自身が最後まで自分がたどり着いたアメリカをアジアの一部だと思い込んでいたように、西回りでアジアに到達できるということはすでに既定のこととされていた。当時はアメリカは東アジア東端の大半島だと思われていた。しかし、東アジア東端の大半島から、インドあるいは香料諸島へ繋がる海峡は幾多の探検隊も発見することができないままであった。マゼランがポルトガル王宮を去ったのと同じ1515年、スペイン王フェルナンドホアン・ディアス・デ・ソリスの探検隊を南アメリカに派遣、ソリスはアルゼンチンのラ・プラタ川河口までたどり着いている[註 6][33]

フォンセカとアロ

当時、スペインの外洋航海を仕切っていたスペイン王宮の実力者にロドリゲス・デ・フォンセカという貴族がいた。フォンセカはスペインの植民地の貿易や殖民などの業務を担当する通商院の事実上の最高責任者であり、コロンブスの2回目の航海の準備も担当した人物である。フォンセカの関心事はポルトガルの影響下にない東洋への航路開拓にあったとも言える。そのがフォンセカに前述の商人アロ(ポルトガルでの地位を失いスペインに移動していた)が接近し、ソリスの後継となる航海者を探していた。フォンセカとアロが最初に見出した者はエステヴァン・ゴメスというポルトガルの熟練の航海者であった[34]

トルデシリャス条約

コロンブスの発見でスペインはアメリカとアフリカのほぼ中間の子午線より西の新しく発見した土地をスペイン領とするローマ教皇の勅旨を得た。現在の南北アメリカ大陸をすべてスペイン領とするものである(ただし、当時はアジア大陸と思われていた)これにポルトガルはただちに反発。交渉の結果、ヴェルデ岬諸島の西370レグアを通る西経46度37分にあたる子午線をスペイン・ポルトガル領の境とするトルデシリャス条約が1494年に結ばれた。この結果、現在のブラジルはポルトガル領、ブラジル以外の南北アメリカはスペイン領となったのだが、トルデシリャス条約によるスペイン・ポルトガルを分ける子午線が地球の裏、アジア側ではどこを通っているかは定かにはなっていなかった。当時スペインとポルトガルはライバルとして激しく競っていたが、同時に両国は隣国でもあり、両国の国王は親戚関係でもあり、トルデシリャス条約による領土の取り決めには敏感であった[35]

フォンセカとアロが西回りの航海者として見出したエステヴァン・ゴメスは優秀な航海者であったが、トルデシリャス条約に関わるような微妙な政治情勢には疎く、ゴメスの渡航計画ではフェルナンド王の後を継いだスペイン王・カルロス1世(後の神聖ローマ帝国皇帝・カール5世)を政治的に安心させる(ポルトガルの領分を侵さないという)ことが出来ず、ゴメスを指揮者として艦隊を派遣するフォンセカとアロの計画は頓挫する[註 7][36]

ゴメスを指揮者として艦隊を派遣するフォンセカとアロの計画が頓挫するのと同じタイミングで、セビリアでスペイン王に仕えていたポルトガル人デュアルテ・バルボーザはスペインの関心事が西回りでの香料諸島到達であることを知り、ポルトガルで失意の元にある古い友人であるマゼランに白羽の矢を立てることになる。セラーンの手紙によってもとより香料諸島への渡航を希望していたマゼランは、盟友である天文学者ルイ・デ・ファレイロとの同行を条件にデュアルテ・バルボーザの誘いに乗ることになる。1517年のことである[37]。また、マゼランはデュアルテ・バルボーザの妹ベアトリスを妻にむかえることになる[38]

マゼランの任命

ゴメスで失敗したフォンセカとアロはデュアルテ・バルボーザの推薦するマゼランの存在を知り、ただちにマゼランを新たな探検隊の指揮官に押すことに決め、マゼランはスペイン王・カルロス1世の謁見を得て、その航海の計画を説明することになる[39]

スペイン王に謁見したマゼランは、自分の西周りでの香料諸島への渡航計画について、大アジア半島の南に香料諸島・インドへ通じる海峡があること、香料諸島がトルデシリャス条約で定められたスペインの領域内にあること、東回りよりもはるかに航路の短い西回りルートはポルトガル人よりはるかに安いコストで香料を手に入れることが出来ることを自信をもって説明する。実はマゼランの自信の根拠となるマルティン・べハイムの世界観[註 8]はまったくの誤りであり、また従兄弟のセラーンの知らせでは香料諸島はマラッカのはるか東方であることを知らされており(これも誇張であったのだが)その情報によって香料諸島がスペインの領域内であるとし、マゼランの自信を持った説明にスペイン王は納得し、マゼランに艦隊を預ける決断をするのであった[40][41]

スペイン人からみたらライバル国ポルトガル人であるマゼランにスペイン王が艦隊を任せる決断をした背景にはフォンセカとアロという有力者の推薦があったことはたしかであろう[42]。その推薦の見返りにフォンセカは自分の意に沿う者たちをマゼランの艦隊の幹部に据え、主導権を握ろうと画策する。いわば、マゼランの航海技術のみをもとめ、その艦隊を自分の統制下におき、利益はマゼランではなくフォンセカとアロで握ろうとしたのである。マゼランの盟友である天文学者ルイ・デ・ファレイロも艦隊から外され[註 9]、これに反発したマゼランはスペイン王に交渉し自分の親族や自分の意に沿うポルトガル人を幹部に入れることに成功するが、しかし、それでも幹部の大半はフォンセカの息のかかった者たちであり[43]、艦隊に同行したアントニオ・ピガフェッタはその著書のなかでマゼランの指揮下の船長達は何故かマゼランを憎んでいたと書いている[44]

スポンサー・プロデューサーであるアロ

ビクトリア号の復元船 マゼランの艦隊で世界一周に成功した船

有能な商人であるアロは、マゼランが艦隊の指揮を執ることに決まると、資金調達に奔走する。結局は艦隊の費用の大半をアロとアロが代理を務めるフガー商会が出したと言われる[註 10]東洋交易に通じ、商務に通じたアロは船そのものの調達や艤装、艦隊の装備品、武器、食料、交易品などの調達をすべて指揮したと言われる[45][46]。マゼランとアロが用意した船と装備品・物品のリストは明細で現在に残っている。艦隊は旗艦トリニダー号(110トン)以下、サン・アントニオ号(120トン)、コンセプシオン号(90トン)、ビクトリア号(85トン)、サンティアゴ号(74トン)の5隻に人員は約270人[註 11][47]、食料はたっぷり2年分を用意し、主食である航海用ビスケットは21万3800ポンド、塩漬牛肉7万2000ポンド、塩漬豚肉5万7000ポンド、エジプト豆1万80ポンド、ほか塩漬魚、アンチョビ、乾し豆、乾しぶどう、イチジク、米、蜂蜜など、ワインも船員1人に一日に1パイントの割り当てで2年分の用意をしている[註 12]。香料との交易品としては銅2万ポンド、水銀2100ポンド、ドイツ製の小刀4800本、鏡1000個、鋏600個、櫛1500個、鈴1800個、水晶500ポンド銅や真鍮の腕輪挿み4000個など、これらの選択は東洋の事情に通じたアロの経験に基付いたものであり、東洋でとりわけ喜ばれるものであった。武器も大掛かりに積んでいる。5隻の大砲が合計で71門、小銃50挺、槍1000本などである[48]。しかし、これを知ったポルトガルは妨害工作を行い、もともと極めて長期の航海になることが予定されていたので準備に手間取り、当初の出発予定の1518年末はもちろん、1519年8月になっても準備は終らなかった。ついにしびれを切らしたスペイン王は1519年8月10日を出帆日と決め、準備が整っていなくとも出発するように命じた[48]

世界周航

出帆

1544年に書かれ17世紀前半まで5ヶ国語合計35版発行されたドイツ人セバスチャン・ミュンスター(Sebastian Münster)による著作「Cosmographia」に掲載されているアメリカ図。ブラジルはCanibali「食人国」。パタゴニアはRegio Gigantum 「巨人国」とか書かれている[49]。本図は1561年の版からの着色図である。

マゼランの艦隊は王の命令通り1519年8月10日にセビリアを出発する。しかし、準備が整っていない艦隊は120キロメートル先のサンルーカル・デ・バラメーダ港でさらに約6週間留まり、1519年9月20日にいよいよ航海に旅立つ。艦隊はカナリア諸島に立ち寄りそこからマゼランは南に進路を取った。予定の航路は南西であり、南に向かうマゼランの指示は当初の計画からは外れていたのだが[註 13]、これに早速スペイン人の総監察官カルタヘナが異議を唱えた。マゼランはカルタヘナの異議を無視。反抗的な態度を取ったカルタヘナを逮捕する。やがて南西に進路を取った艦隊は12月13日、現在のリオ・デ・ジャネイロ地方に到着する。リオ・デ・ジャネイロ地方でマゼランたちは裸族トゥピナンパ族と出会う。トゥピナンパ族は人食いの習慣を持ち、この16世紀の地図ではカニバリと呼ばれる人々であったが、マゼランたちはトゥピナンパ族とは極めて友好的な交友を持ったようである。マゼランの世界周航の記録を書いたアントニオ・ピガフェッタはあるエピソードを書き残している『ある日のことである。私が旗艦にいるときひとりの美しい若い女性がやってきた。あてずっぽうな目的で来たらしかったが、副長の部屋を眺めやると、指よりも長い1本の釘が落ちているのに気が付いた、女はひどくうれしそうにして上手にそれを拾い、陰唇のあいだにそれを差し込み、深くお辞儀をしてすぐ帰っていった。総司令官も私もこの情景を眺めていた。-増田『マゼラン』p.117』[50]

パタゴニアと反乱

リオ・デ・ジャネイロ地方を後にした艦隊は香料諸島へ通じる海峡を探して南アメリカ東岸を南下する。ソリスも探索しおそらくは海峡でなく川であろうと結論したラプラタ川をマゼランは探るがやはり海峡ではなく、さらに南下しパタゴニア・サンフリワン湾に到達する。厳しいパタゴニアの冬を迎えしばらく停泊している艦隊にマゼランは食料の節約を命ずるが、豊かで友好的な交友を持ったリオ・デ・ジャネイロ地方での良い経験に比べ厳しいパタゴニアでの停泊に船員達には不満がつのっていった。その雰囲気の中でスペイン人幹部が反乱を起こす。先に囚われた艦隊の総監察官であるスペイン人カルタヘナは同じスペイン人のガスパル・デ・ケサーダが船長を務めるコンセプシオン号に囚われていたが、ケサーダと謀ってサン・アントニオ号を急襲、ポルトガル人船長を拘束し副長を殺してサン・アントニオ号を手中にする。さらにビクトリア号のスペイン人船長も加わって3隻が反乱側に付く事態となった。しかしスペイン人幹部は反乱は起こしたもののスペイン王の信任で総司令官の地位にあるマゼランを完全に退けることも躊躇しているうちに、マゼランはすばやく反撃、ビクトリア号の船長を刺殺して反乱を制圧する。反乱の首謀者カルタヘナは追放、ケサーダらを処刑もして反乱を収める事態となった。これ以降スペイン人はしぶしぶマゼランに従うが、マゼランへの反感は根強く残り、後にフィリピン・セブ島でマゼランが敵の大軍に囲まれているときにスペイン人は救援を出さずマゼランを見殺しすることになる。[51]。反乱を収めた後、停泊中のマゼランたちはピガフェッタが巨人と呼ぶ原住民に出会う。マゼランは彼らにパタゴンと名付けるが[52]、これは現在のパタゴニアの地名の由来となっている。

艦隊は1520年8月24日に航海を再開、さらに南下を続けるが、それまでの調査航行中にサンティアゴ号が難破して失われてしまった[53]

そして1520年10月21日、ついに西の海へと抜ける道を発見した。これは後にマゼランの名前をとってマゼラン海峡と呼ばれることになる。しかしマゼラン海峡を抜ける途中で艦隊最大の船であったサン・アントニオ号(エステバン・ゴメスが航海長である)がはぐれた。サン・アントニオ号の船長メスキータはあくまで艦隊を探し合流することを主張したが航海長ゴメスが反対して船長を拘束、艦隊に残る食料の多くを積んだまま、スペインに引き返し、1521年5月6日スペインに帰国した。[註 14]。艦隊は2年分積み込んだはずの食料が2重に領収する手違いのもあってマゼラン海峡の途中の時点で既に残り3ヶ月分しか食料がなく、ゴメスは3ヶ月分の食料で未知の海洋に乗り込むことを恐れ反対したがマゼランに退けられてマゼランへの反抗心を持ち、乗組員もゴメスを支持したものとされている[54]ピガフェッタはその背景にゴメスが一度は手にしそうになった艦隊の指揮権をマゼランに取られたことで憎しみを持っていたからだと推測している[55]。これで艦隊は3隻となってしまった。

マゼランの艦隊がマゼラン海峡を進むと左側の島でおびただしい数の火が見えた。マゼランたちはこの地方の住民が艦隊を見つけてたがいに合図の烽火を上げているのだろうと推測している。しかし、マゼランたちは住人の姿は見ていない[56]。このエピソードから後にティエラ・デル・フエゴ(火の島)と名付けられたこの島は人が住む世界最南端の地である。

海峡を抜けるとそこは広大な海だった。マゼランはついに大西洋から太平洋につながる航路を発見したのだった。ピガフェッタは『提督は喜びのあまりはらはらと涙を流し、水路の出口の岬を「待望の岬」と命名した-ピガフェッタ『マゼラン最初の世界一周航海』長南 訳、岩波文庫、2011、p.49』と伝えている[57]

太平洋

太平洋に出たマゼランはしばらくはチリ沿岸に沿って進みやがて北西に進路をとる。太平洋での航海をピガフェッタは次のように記録している『1520年11月28日水曜日にわれわれはあの海峡から抜け出て、太平洋のまっただ中に突入した。三ヶ月と20日のあいだ新鮮な食べ物は何ひとつ口にしなかった。ビスコット(乾パン)を食べていたが、これはビスコットというよりむしろ粉クズで、虫がうじゃうじゃ沸いており良いところはみな虫に食い荒されていた。そして、鼠の小便の臭いがむっと鼻につくようなしろものだった。日数がたちすぎて腐敗し黄色くなった水を飲んだ。また、主帆柱の帆桁に張り付けてあった牛の皮さえも食べた。-ピガフェッタ『マゼラン最初の世界一周航海』長南 訳、岩波文庫、2011、p.60』太平洋での航海でマゼラン艦隊では19人の乗組員とブラジルで乗せたインディオ、パタゴニアで乗せたパタゴンが壊血病と栄養失調で死んでいる。無人島をいくつか通り過ぎ、餓死寸前のマゼランの艦隊は1521年3月6日、現在でいうマリアナ諸島にたどり着く。ピガフェッタによるとマリアナ諸島に着き上陸の準備をしていた艦隊を島民の小船多数が取り巻き、さらに船に忍び込んできて手当たり次第に装備品を盗んでいき、それに酷く立腹したマゼランは武装兵40人を上陸させ島民を7人殺害し家屋を40-50軒焼き払い、島に泥棒諸島と名付けたとされる。トランシルヴァーナは曖昧な記述しかしていない。[註 15][58]。1521年3月9日泥棒諸島を後にした後マゼランたちは一週間後の3月16日フィリピン諸島を発見した。

フィリピン諸島

フィリピン諸島での最初の寄港地には安全な無人島を選んだ。翌3月18日、初めてフィリピン人つまり近くのスルアン島の住人に出会うが、マゼラン達は出合ったフィリピン人を「ものの道理が分かる人」と評価している。つまり、王の元での秩序ある社会を築き、文化を持っている人々とみなしたのである[59]。3月28日にはレイテ島付近で出会ったフィリピン人に試しにマゼランのマレー人奴隷エンリケが呼びかけるとマレー語で答えが返ってきた。マレー人と交流のある地域に達したのだった。この後、レイテ島南端沖のリマサワ島で王コランプ[註 16]はさらにマレー語に通じ、エンリケの通訳を介して会話が可能[註 17]になったマゼランとコランプは親密になり、リマサワ島でフィリピン最初のミサをあげ十字架を立てている。さらにコランプは艦隊が補給をするのに最適な地としてセブ島を紹介し案内する。4月7日セブ島に上陸したマゼランはセブ王が付近の王(首長)たちの中でも有力であることを見て熱心に布教を始める。マゼランが熱心に説くキリスト教の教えにセブ王をはじめ500人の人が洗礼を受けた。また、マゼランとセブ王は何度も抱き合うほど親しくもなり、このことに気を良くしたマゼランはセブ島周辺の王(首長)たちにもキリスト教への改宗と(先にキリスト教徒になった)セブ王への服従を要求するようになる。いわば現地の政治情勢に到着したばかりのマゼランが首を突っ込んでしまったのである。[註 18][60]

マゼランの死

セブ島で食料も補給し多くの島民を改宗させたマゼランだが、何故か目的の香料諸島へは向かわず布教を続けている。4月27日セブ島対岸の小島マクタン島に突然出撃した。ピガフェッタによるとマクタン島の首長の一人ズラはマゼランの要求に従う気はあるがもう一人の首長シラプラプが従わないので困っているのだと伝えてきたからだとしている。これを聞いたマゼランはシラプラプを従わせようと兵を率いてマクタン島に乗り込んだのだが、シラプラプは既にこれを察知しておりマゼランの49人に対して1500人の軍勢を配置していた[註 19]しかしマゼランは圧倒的に多数の敵を前にして部下に『諸君、われらの敵であるこれらの住民たちの数に恐れをなしてはならない。神が我らを助け給うであろうから。諸君、思い出すがよい、あのエルナン・コルテス隊長がユカタン地方で、200人のエスパニャ人でもって、しばしば20万、30万の住民たちを打ち破ったということを我々が耳にしたのはつい最近のことではないか-引用、ピガフェッタ,トランシルヴァーノ著『マゼラン最初の世界一周航海』長南 実 訳、p.303-304』と演説し、寡兵にも関わらず戦闘に突入。30倍の数の敵と1時間に渡って戦ったのち遂にマゼランは戦死する[61]

マゼランの死後

マゼランの航路

マゼランの死後数日して、セブ王はマゼランの艦隊の幹部を宴会に招待する。マゼランの死後、艦隊はマゼランの親族に当たるものを後継の指揮官にしていたが、それを含めてマゼランの艦隊の幹部24名はセブ王の宴会に出席するが、それは罠で全員虐殺されることになる。ピガフェッタはマゼランの奴隷エンリケが謀ってセブ王に計略を持ちかけたのだとしている。

アントニオ・ピガフェッタの記録やトランシルヴァーノの聞き取りによれば、マゼランの死後、負傷したエンリケは通訳の仕事を放棄して艦内で横になっていた。そこにマゼランの後を継いだ艦隊の指揮官はエンリケに『主人のマゼランが死んだからといって自由になったと思ったら大間違いだ。スペインに帰ったら未亡人のベアトリス様の奴隷になるのだ。今上陸しなかったら鞭を食らわすぞ -引用 ピガフェッタ『マゼラン最初の世界一周航海』長南 実 訳、角川文庫、2011年、p122』と脅し、エンリケはセブ王の元に使わされた[62]

戻ってきたエンリケは艦隊の首脳をセブ王の宴会への招待の報をもたらしたが、宴会に出席した艦隊幹部は全員殺されることとなってしまった。ピガフェッタや同行の乗組員の推測ではエンリケがセブ王と図ってマゼランの遺書[註 20]ではエンリケはマゼランの死後解放されるはずなのに遺書を無視して自分の開放を認めようとしなかったマゼランの後継者に復讐を遂げたのだとされている[62][63]。その後のエンリケの消息は分かっていない。

大幅に人員が減り3隻の運行が難しくなった艦隊はコンセプシオン号を破棄、残るトリニダー号とビクトリア号は迷走しながらも1521年11月8日香料諸島にたどり着く。香料諸島では王の厚遇を得て大量の丁子を積むが、丁子を積みすぎてトリニダード号は浸水。艦隊は修理に取り掛かったトリニダード号を香料諸島に残し(4ヶ月後に修理がかなったトリニダード号だが結局はポルトガルに拘束され、3年後に乗組員のうち4人が帰国するのみである)フアン・セバスティアン・エルカーノを船長としてビクトリア号1隻60人の人数で香料諸島を出発、ポルトガルの勢力圏内で途中の港に立ち寄れないスペイン船ビクトリア号では壊血病と栄養失調で多くの死者を出しながら1522年9月6日スペインに帰国する。スペイン帰国時の乗組員は21名内3人は途中で乗せたインディオなので、出発時約270人の乗組員の内世界周航を達成できたのはエルカーノや艦隊の報告を書いたピガフェッタら18人だけであった[64]。ほぼ3年にわたる航海であった。

その後、スペインは上流貴族ロアイサを名目上の指揮官、マゼラン艦隊の最終的な指揮官エルカーノを実質上の指揮官にした第二の西回りでの艦隊を送り出すがロアイサの艦隊はマゼラン艦隊以上の損失を出し失敗。ロアイサもエルカーノも死んでしまう。その後も西回りで送り出すスペインの艦隊はことごとく失敗。マゼランが提唱した西回り航路は危険が大きすぎるために省みられずに結局はポルトガルへ売却されることになり、ヨーロッパから西回りでの香料貿易ルートは閉ざされることになる[65]。マゼランが開拓しようとした西周りでのアジア航路は失敗に終った。しかしマゼランの功績は世界史的な意味で太平洋を発見し(太平洋はバルボアが発見したが、バルボアは太平洋が大洋であることは認識していなかった)、地球の真の大きさを世界に指し示したことだと考えられている。なお、マゼランを殺したシラプラプはフィリピンで侵略者を撃退した英雄として伝説になっている。

マゼランが発見した海峡はマゼラン海峡と呼ばれるようになり、またマゼランが航海中に観測したという話から大マゼラン銀河小マゼラン銀河の名がついた。また、太平洋は、マゼランが一度も嵐に合うことなく、大きな海を乗り切った静かなる海という意味で名付けられたといわれる。

マゼランの記録

マゼランの業績について語る資料は少ないが以下の物が主だった記録である。

  • アントニオ・ピガフェッタ「最初の世界周航の報告書」 マゼラン艦隊に同行したイタリア人ベネチア貴族によるもの。帰国後ローマ法王の薦めもありマゼラン艦隊の記録を書く。これが改竄を受けながらもヨーロッパ中で発行され広く読まれたものと思われている。後年の伝記作家や研究者はピガフェッタの記録を中心にマゼランの航海を考察している。ピガフェッタの記録は2011年岩波文庫、1965年岩波書店大航海時代叢書などがピガフェッタの和訳全文を刊行し、2011年岩波文庫で240ページほどの記録である。
  • トランシルヴァーノの調書 スペイン王の秘書トランシルヴァーノが航海直後、フアン・セバスティアン・エルカーノら乗組員3名からの聞き取り調査をまとめたもの。マゼラン寄りのピガフェッタがマゼランとスペイン人の対立に関しては口を濁しているのに比べ、パタゴニアでは反乱側であったエルカーノではあるが、トランシルヴァーノの調書は反乱に関しては赤裸々に書いている。トランシルヴァーノの調書も2011年岩波文庫でピガフェッタの記録とあわせて和訳刊行されており、2011年岩波文庫で78ページの記録である。
  • アルボの航海日記 ビクトリア号の航海長 航海日記であるだけに客観的な記録である。航路などのデータに関してはピガフェッタより信頼されている。
  • セビリアのインディアス総合古文書館 インディアス総合古文書館には乗組員名簿や積荷のリスト、王の命令書などマゼラン艦隊に関する公的な書類が多く残されている。

脚注

註釈

  1. ^ マゼラン遠征についてもっとも詳細で著名な報告をしたのは艦隊の乗組員で世界一周を達成してスペインに生還したピガフェッタである。ピガフェッタの記録は岩波文庫、『マゼラン最初の世界一周航海』2011年刊、や岩波書店、大航海時代叢書 第1巻『航海の記録』1965年刊で和訳全文を読むことができる。ピガフェッタの記録は岩波文庫で240ページほどの分量である。
  2. ^ マゼランの記録は確実なものは少ないが、諸説の中には1505-1513年、ポルトガル艦隊の一員として東洋の長期滞在中にフィリピンに到達していて(ポルトガルから東回りでフィリピン)、1519年からの遠征でのフィリピン到達(スペインから西周りでフィリピン)、つまり2つの航海をあわせて世界一周をなしとげている可能性があるという説もある。
  3. ^ 国際音声記号による正確な表記の一例は [fɨɾˈnɐ̃w̃ dɨ mɐɣɐˈʎɐ̃j̃ʃ]
  4. ^ この性格の為、後々マクワン島で数千の敵に対し数十人で正面から戦いを挑み、戦死することになる
  5. ^ ピガフェッタによるとマゼランの要求は月に1テストーネ、それは銀貨1枚であり-ピガフェッタ(2011)p.169-、1938年に出版されたツヴァイクのマゼランの伝記によればマゼランの月棒増額の要求は月に半クルサードであり、それは1938年のイギリスの1シリングに相当する。イギリスポンドが強かった時代の1シリング=1/20ポンドとは言え、1シリングはやはり銀の硬貨1枚に過ぎない-ツヴァイク(1972)、p.64
  6. ^ ソリスは現地部族民に殺され、ソリスの探検は失敗に終っている
  7. ^ ゴメスは後にマゼランの下でサン・アントニオ号の航海長となるが、ゴメスはパタゴニアで反乱を起こし、サン・アントニオ号はマゼラン艦隊を離脱することになる。
  8. ^ この当時のヨーロッパ人の世界観はアメリカ大陸を東アジアの大半島と捉え、太平洋を大半島の西の内海と捉えるものであった。ポルトガルの王室付き地図製作者のマルティン・べハイムが作成した地球儀もその世界観で作られたものであったが、そのべハイムが作成した地球儀をみたマゼランもその世界観にとらわれていたのである。のちにマゼランは太平洋の広大さを身をもって知ることになる-アン・カメロン(1978)、p48-49
  9. ^ 航海の実務を知らないファレイロをマゼラン自身が外したがったという説もある
  10. ^ スペイン王の秘書トランシルヴァーノの記録では、最終的にはスペイン王が費用を出したとしている。ただし、トランシルヴァーノはあくまでスペイン王側の人間である。1522年ビクトリア号が持ち帰った香料はアロが扱っている。
  11. ^ マゼランに関する最も著名なツヴァイクの伝記など各種の伝記ではマゼラン艦隊の総員を265人としているものが多い。またセビリアインディアス総合古文書館に残るマゼラン艦隊の乗組員名簿はいくつかあり、数字はそれぞれ若干違いがあるが270から280人程度とされる。乗組員のなかでもっとも多いのはスペイン人だが、ポルトガル人37人イタリア人30人以上などヨーロッパ各地の人々や少数であるがアジア人アフリカ人も含まれている。マゼラン遠征についてもっとも有名な報告をした艦隊の乗組員ピガフェッタはその遠征の記録の中で「我々は総勢237人」としているが、「我々」の定義は不明である。スペイン王がマゼランに指示した艦隊の定員は230-235人であり、員数外の(特にマゼランと同国のポルトガル人が)相当数いて265人以上だったのは確実である。伊東(2003)、pp.82-83、ツヴァイク(1962)、p.120、合田(2006)、p.157
  12. ^ ただし、実際には物品は帳簿上で2重に領収しており、実際にはこの半分しか乗せていないことが、後にわかる
  13. ^ ポルトガルの追撃を避けるためだったとか、風を読んだとも、ポルトガルの領域を避けるためであったとも言われるが、マゼランはスペイン人たちに黙って従うように要求し航路についての説明をしていない。説明のないことにスペイン人たちのマゼランへの反感はますます高まるのであった。-増田(1993)、pp.102-103
  14. ^ なお、この船は引き返す途中にサン・アントン諸島、現在の呼び名でフォークランド諸島を発見している
  15. ^ 非友好的で暴力的な出会いにも関わらず、ピガフェッタはマリアナ諸島民の住居や暮らし、島の食品について詳しく書き残している、しかし島民の住居や島の食品について言及し餓死寸前であったにも関わらずピガフェッタはマリアナ諸島での自分達の食料の入手方法について書いていない。艦隊がマリアナ諸島を後にする際の島民達の非友好的で攻撃的な様子もピガフェッタは強調している。マゼランやピガフェッタはマリアナ諸島の島民を泥棒呼ばわりしているが、島民が泥棒ならばおそらくマゼラン達は強盗殺人犯であろう。どちらが先に手を出したのかはわからない。リオ・デ・ジャネイロのトゥピナンパ族とは友好的な出会いをしたマゼランたちであるが、パタゴニアではパタゴンを誘拐、マリアナ諸島では餓死寸前の状況とはいえ強盗殺人である。ピガフェッタによるとマゼランは次に出会うフィリピン人を「ものの道理の分かる人」つまり理知的な人々と認めたが、逆に南米やマリアナ諸島の人のことは「理知的な人々とは認識していなかった」のであろう。マゼランの死後、フィリピンとボルネオの中間パラワン島で艦隊はたまたま出合った人を人質に取り食料を要求し、ティモール島でも人質を取り身代金として食料を要求している。つまり営利誘拐もしているが、その様子を報じているピガフェッタは悪びれた様子も無く、むしろ無邪気である-ピガフェッタ(2011)p.157。艦隊はフィリピンから香料諸島への間で海賊行為も多数行っている-合田(2006)p.204。(ただし、異教徒人への海賊行為はマゼラン艦隊だけでなく、この時代のスペインやポルトガルの航海者は普通に行っている。)中世人の倫理観は21世紀の現代人とは同じではない。
  16. ^ ピガフェッタは王と呼んでいるが、当時のフィリピンには中央政府はなく多くの首長がそれぞれ小さな領地を治めていた。ピガフェッタの記録にはフィリピンだけでもたくさんの王が登場する。
  17. ^ トランシルヴァーノはエンリケと王の間にもうひとり通訳が入ったと書いている
  18. ^ セブ王の改宗とマゼランへの行為が本心からのものか、それともスペイン人の武力を取り入れるためのものだったのかは分からない。
  19. ^ ピガフェッタによる。ピガフェッタ自身、このときの戦闘に加わっておりピガフェッタも負傷している。ピガフェッタはマゼランの最後を見ていたとされる。トランシルヴァーノの調書ではマゼランの兵は40人、敵は3000人としている。トランシルヴァーノによるとマゼランは味方であるセブ人に手を出さず自分達の戦闘を見ているように指示したとのことである。一説では船に残っていたスペイン人は圧倒的な敵に取り囲まれているマゼランを見ながら救援を出そうとしなかったという。出航いらいの反感が出たのかもしれない。-イアン・キャメロン『マゼラン』p.158
  20. ^ マゼランが出航前に残した遺書では、マゼランの死後、エンリケは解放し、一定の遺産を与えることになっている。マゼランの生前は忠実にマゼランに仕え、マゼランの戦死の際もマゼランと一緒に戦って負傷しているエンリケである。-ツヴァイク『マゼラン』みすず書房、1972年、p.131、ピガフェッタ『マゼラン-最初の世界一周航海』岩波文庫、2011年、pp.122-123

出典

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参考文献

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  • 伊東 章 著『マゼランと初の世界周航の物語』鳥影社、2003年、ISBN 4-88629-750-1
  • 合田 昌史 著『マゼラン : 世界分割を体現した航海者』京都大学学術出版会、2006年、ISBN 4-87698-670-3
  • 増田 義郎 著『マゼラン』原書房、1993年、ISBN 4-562-02307-4
  • イアン・カメロン『マゼラン』草思社、1978年
  • シュテファン・ツヴァイク 著『マゼラン』ツヴァイク伝記文学コレクション、関 楠生、河原忠彦 訳、みすず書房、1962年
  • ピガフェッタ 著『マゼラン最初の世界一周航海』長南 実 訳、岩波書店、岩波文庫、2011年、ISBN 978-4-00-334941-0

関連項目

外部リンク


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