澄川久

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
すみかわ ひさし
澄川 久
本名 村井武雄
生年月日 (1898-10-13) 1898年10月13日
没年月日 (2000-04-03) 2000年4月3日(101歳没)
出生地 東京府
死没地 東京都国分寺市
身長 170cm
職業 腹話術師、声楽家
配偶者 村井満寿
著名な家族 村井祐児(三男)
 
受賞
第1回日本音楽コンクール 最優秀賞
テンプレートを表示

澄川 久(すみかわ ひさし、1898年明治31年〉12月15日 - 2000年平成12年〉4月3日)は、日本腹話術師声楽家。本名は村井武雄。妻はアルト歌手の村井満寿(満寿の2人目の夫)[1][2]、三男はクラリネット奏者の村井祐児[3]

経歴[編集]

東京府で誕生した[3]慶應義塾大学を卒業後、劇作家の小山内薫の招きで、築地小劇場に参加した[4]。声楽を学んだ後、田谷力三らと共に、日本劇場の専属歌手として、終戦近くまで活動した[5]。1932年(昭和7年)に日本音楽コンクールで、バリトン歌手として最優秀賞を受けた[2][5]

村井満寿の前夫である高階哲夫と友人だったこと、高階と離婚後の満寿に澄川が歌を習ったことが縁で、1933年(昭和8年)に満寿と結婚[1][2]。1937年(昭和12年)頃、帝国劇場社長であった秦豊吉からアメリカの腹話術師、エドガー・バーゲン英語版の教則本を渡されたことがきっかけで[3][6]、日本最初の腹話術師となった[5][8]。腹話術では、バリトン歌手としての発声を流用した人形操作を得意とした[7]。第二次世界大戦中には慰問団長を務め[1]日劇ダンシングチームと中国の戦地を訪れ、多くのファンを得た[5]。他にも劇場でギター、ヴァイオリン、タップダンス、手品など、持ち芸は多彩であった[6]

1960年(昭和35年)にはパリのムーラン・ルージュにも出演し、日本の名コメディアンとして評価された[4]。1年間のパリに滞在中に、パリの路傍で画家の作品を参考にして独学で絵を学び、帰国後は二紀展に入選するなど、多才ぶりは健在であった[4]

晩年の1992年(平成4年)には千葉の文化グループに招かれ、パリ公演から32年ぶりに腹話術の復活公演を行った。相棒である腹話術人形「チャッカリ坊や」を相手に腹話術を披露し、約150人の観客からの笑い声に包まれて、話題を呼んだ[4][5]。グループ代表者は「足元がふらふらしていたが、ステージに上がると背筋が伸び、あっという間に客を引き込んだ」と、その芸人魂に感心していた[6]

この千葉の公演が最後の舞台となり、2000年(平成12年)4月3日、東京都国分寺市の病院で、肺炎のため101歳で死去した[4]。没後、千葉公演の1992年にいっこく堂が腹話術を始めた縁もあり、いっこく堂に澄川の相棒の人形「チャッカリ坊や」が寄贈された[9]

人物[編集]

当時としては170cmの長身、日本人離れした高い鼻が容姿の特徴であった。チャップリンを意識していたようで、シルクハットに蝶ネクタイ、ステッキを手に、胸にハンカチを飾った[6]。東京の下町生まれにもかかわらず、「アメリカ生まれで、6歳までカリフォルニアに住んでいた」「同盟国ドイツ人とのハーフ」などと嘯いていた[6]。晩年にも朝、鏡の前で髪をなでつけ、「うん、いい男だな」と、1人で満足感に浸っていた[6]

遠縁の人物の談によれば、「本当はヴァイオリンがとてもうまいのに、お客さんを笑わせるために、わざと下手に弾かなければならないなんて、家で苦労していた」という[6]。声楽で名を売ったにもかかわらず芸人へ転身したことについては、三男の村井祐児も「そのまま声楽家になっていれば、もっと世の中に名前を残せたかもしれない」と疑問に感じており、「器用貧乏が災いしたんでしょうか」とも語っていた[6]

脚注[編集]

  1. ^ a b c 宮良 1983, pp. 22–23
  2. ^ a b c 前川 2001, p. 77
  3. ^ a b c 日外アソシエーツ 2010
  4. ^ a b c d e 「訃報 澄川久さん、死去 歌手、日本初の腹話術師」『毎日新聞』、2000年4月6日、東京朝刊、31面。
  5. ^ a b c d e 「幻の腹話術師として知られる澄川久さん、32年ぶりに復活公演 千葉・稲毛記念館」『毎日新聞毎日新聞社、1992年4月20日、東京夕刊、11面。
  6. ^ a b c d e f g h 徳毛貴文「追悼抄 4月 ボードビリアン・澄川久さん 多芸多才「いい男」貫く」『読売新聞読売新聞社、2000年4月30日、東京朝刊、24面。
  7. ^ a b 樋口 2014, p. 2
  8. ^ 1970年(昭和15年)頃に川田義男古川ロッパが、司会や漫談や漫芸の中に腹話術を取り入れたのが日本初の腹話術であり、一度に数多くの人達に腹話術を見せたのが澄川久だとする資料もある[7]
  9. ^ 斎藤正利「人模様「チャッカリ坊や」を寄贈 村井靖児・聖徳大教授と祐児・東京芸大教授」『毎日新聞』、2001年8月16日、東京夕刊、4面。

参考文献[編集]

  • 樋口誠「腹話術への取り組み」(PDF)『長崎女子短期大学紀要』第38号、長崎女子短期大学、2014年3月、NAID 400200012302022年3月4日閲覧 
  • 前川公美夫『響け「時計台の鐘」』亜璃西社、2001年10月1日。ISBN 978-4-900541-41-2 
  • 新撰芸能人物事典』 明治〜平成、日外アソシエーツ、2010年11月25日。ISBN 978-4-8169-2283-1https://kotobank.jp/word/澄川%20久-16476622022年3月4日閲覧 
  • 宮良高弘編 編『北海道を探る』 3巻、北海道みんぞく文化研究会、1983年9月1日。 NCID BA3320265X