森徹山

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

森 徹山(もり てつざん、安永4年(1775年) - 天保12年5月6日1841年6月24日)は、江戸時代後期に大坂で活躍した森派、四条派絵師。名は守真、字は子玄または子真、通称は文蔵、徹山は号。森周峰の実子で、叔父・森狙仙養子となり、森派を継いだ。晩年の円山応挙の弟子となって、応挙十哲に数えられる。

略伝[編集]

大坂船町(現在の大阪市大正区)で、森周峰の子として生まれる。寛政2年(1790年)徹山16歳時の『浪華郷友録』では、森周峰、森狙仙の次に徹山の名も記載されており、既に狙仙の養子となり、名の知られた絵師だったことがわかる。狙仙の勧めで、晩年の円山応挙について画を学び、寛政7年(1795年)の大乗寺障壁画制作では、わずか21歳で小画面ながら『山雀図』を描いている。徹山の妻はゑんといって京都の仏師・田中弘教利常の娘だったが、ゑんの姉・幸は応挙のあとを継いだ円山応瑞の妻であり、徹山と応瑞は義兄弟といえる。

大坂に住み、しばしば木村蒹葭堂宅を訪ねている。また、大坂と京都と行き来し、円山派を大坂にひろめた。更に晩年には、熊本藩細川家に仕えている。67歳で病没。墓は、森家の菩提寺である大阪北区兎我野町西福寺と、京都仏光寺大宮西入にある森寛斎系の菩提寺・帰命院にある。

画風は実父・周峰から学んだ狩野派と、養父・狙仙ゆずりの動物写生に円山派の写実を加味し、中心的画題を包み込む雰囲気の描写に意を凝らし、情緒性に富むのが特色である。特に動物画を得意とし、狙仙のように猿だけでなく、あまり描かれない動物も巧みに描いている。

徹山には二男二女がいたが、男子は共に妻の実家・田中家の養子となり、仏師となったため森派を継がなかった。弟子に長女・柳と目合わせ婿養子となった森一鳳、養子となった森寛斎、他に森雄山和田呉山など。

作品[編集]

作品名 技法 形状・員数 寸法(縦x横cm) 所有者 年代 落款・印章 備考
双牛図屏風 紙本銀地著色 四曲一隻 164.8x281.2 東京国立博物館
孔雀図[1] 絹本著色 双幅 三の丸尚蔵館 款記「徹山」
唐人市馬図 紙本著色 1幅 93.7x177.2 三の丸尚蔵館 款記「徹山」[2]
百鶴図屏風 紙本著色 六曲一双 158.7x353.0 ハラ ミュージアム アーク 款記「徹山」/白文方印2顆 下記の「千羽鶴図屏風」より先行する作品で、海岸線が逆方向に伸びている[3]
牡丹孔雀図 紙本金地著色 襖4面 善行寺
秋山孤鹿図 襖4面 紙本墨画淡彩 仁和寺小書院 京都市指定登録文化財(美術工芸)。仁和寺の奥座敷の襖絵全20面を、徹山、東東洋谷文晁原在中岸駒らが4面ずつ制作した。
文殊菩薩 紙本著色 1幅 西福寺 1806年文化3年) 狙仙「釈迦図」、周峰「普賢菩薩図」との合作
秋草鹿図 紙本著色 二曲一双 普賢院
双鹿図屏風 紙本墨画 二曲一隻 153.9x170.6 京都国立博物館 款記「徹山」[4]
吉野画像 絹本著色 1幅 奈良県立美術館 江戸初期に一世を風靡した島原の吉野太夫の肖像。
小町亡霊図 絹本著色 1幅 福岡市博物館 落款「土佐光起図応需写之 徹山」 吉川観方旧蔵。 観方は本図の落款から、江戸前期には足のない幽霊が描かれていたとしている(『絵画に見えたる妖怪』 美術図書出版、1925年)。
群鳥図 1幅 熊本県立美術館 大幅に1300羽以上の鳥が細密に描き分けられている。
松下双虎図 絹本著色 1幅 177.1x144.3 ボストン美術館 款記「徹山」
蕨図 紙本著色 1幅 129.9x59.7 ボストン美術館 款記「添加多久利草 徹山」
琴棋書画図 絹本著色 1幅 111.9x56.5 ボストン美術館 款記「徹山」
春鶴秋鹿図屛風 紙本金地著色 二曲二双 ファインバーグコレクション 款記「徹山」
仏涅槃図 絹本著色 1幅 151x115 心遠館コレクション 1837年(天保8年) 款記「六十三翁徹山森守眞薫沐敬寫」
千羽鶴図屏風 紙本著色 六曲一双 171.7x337.6 心遠館コレクション 無款 絶筆

脚注[編集]

  1. ^ 宮内庁三の丸尚蔵館編集 『江戸の美意識─絵画意匠の伝統と展開 三の丸尚蔵館展覧会図録No.28』 2002年3月26日、p.50。
  2. ^ 宮内庁三の丸尚蔵館編集 『駒競べ─馬の晴れ姿 三の丸尚蔵館展覧会図録No.73』 宮内庁、2016年7月9日、p.14。
  3. ^ 根津美術館徳川美術館・原美術館編集 『御殿山 原コレクション』 根津美術館、1997年、第2図。
  4. ^ 京都国立博物館編集・発行 『貝塚廣海家コレクション受贈記念特別企画 豪商の蔵―美しい暮らしの遺産―』 2018年2月3日、図86。

参考文献[編集]

外部リンク[編集]