松平容敬

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松平 容敬
時代 江戸時代後期
生誕 享和3年12月23日1804年2月4日
(公式上は文化3年4月28日1806年6月14日
死没 嘉永5年2月10日1852年2月29日
改名 慶三郎(幼名)→容敬
別名 靱負(通称)
神号 忠恭霊神
墓所 福島県会津若松市東山町会津藩主松平家墓所
官位 従四位下侍従肥後左近衛権少将正四位下、左近衛権中将
幕府 江戸幕府
主君 徳川家斉家慶
陸奥会津藩
氏族 水戸徳川家高須松平家会津松平家
父母 父:松平義和、母:平松氏
公式上の父:松平容住、公式上の母:白岩氏
養父:松平容衆
兄弟 義質義建容敬遠藤胤昌、宣(松平直諒正室)
公式上の兄弟:容衆
正室節姫佐竹義和の娘)
継室厚姫前田斉広の娘)
側室:小寺氏、岡崎氏
敏姫(松平容保正室)
養子:容保煕姫保科正丕の娘、奥平昌服正室)
特記
事項
公式上は徳川秀忠の最後の男系子孫

松平 容敬(まつだいら かたたか)は、陸奥会津藩の第8代藩主。会津松平家第8代。

生涯[編集]

享和3年12月23日1804年2月4日)に常陸国水戸藩徳川治保の次男保友(後の松平義和)の庶子(三男)として生まれる。文化元年(1804年)に父が尾張藩連枝の高須藩を相続するにあたり、その扱いが問題となった。

他方、会津藩では文化2年(1805年)に容頌容住の両藩主が立て続けに死去し、他に後継者がいないこともあり、3歳の容衆が相続した。幼児死亡率の高い当時において、場合により無嗣断絶の危険すらあるため、会津藩家老田中玄宰は義和のこの庶子を万一の備えとして引き取りたいという申し出て、極秘のうちに引き取られた。

こうして文化3年4月28日1806年6月14日)、容住の死去後に白岩氏を母として出生した容衆の異母弟として幕府に届けられたのが容敬である。なお、『若松市史』では事実が、『会津松平家譜』などの公式史料では幕府への届出内容が採られている。

いわゆる保険的な存在であったが、田中玄宰の予感は的中し、容衆が嗣子なく没したので、その弟ということになっていた容敬が末期養子となり、文政5年(1822年)に家督を継ぎ、文政8年(1825年)に左近衛権少将に任じられる。 弘化3年(1846年)、高須藩主を継いだ次兄・義建の六男・容保に娘・敏姫を嫁がせ、養嗣子とした。文政10年(1827年)、正四位下左近衛権中将に叙任。

嘉永5年(1852年)に死去した。公式上での享年は47。家督は容保が継いだ。

容敬の代の会津藩主要家臣[編集]

弘化4年(1847年)の武鑑に登場する会津藩の家老などの主要家臣は以下のとおり。なお、武鑑では諸藩で呼び名が違う役職名を標準化しているので、実際の藩職と相違する場合もある。

家老
西郷頼母、梁瀬三左衛門、山川兵衛定府、世子容保の附役を兼務)、萱野権兵衛
大目付など
諏訪大四郎、樋口源太、一瀬傳兵衛、高橋一之進
用人
山田一兵衛、坂本覚兵衛、田母神兵庫(定府)、梁瀬木内、丸山五太夫、大原左近兵衛、川手佐左衛門、間瀬新兵衛、山崎小助、白井五郎大夫
側用人
中澤主膳(定府)、水野清兵衛(定府)
城使(江戸留守居)
荒川善蔵、堀七大夫、鈴木六兵衛

参考文献[編集]

  • 『三百藩家臣人名事典1』(新人物往来社
  • 『三百藩藩主人名辞典1』(新人物往来社)
  • 『大武鑑・中巻』(橋本博、名著刊行会)