小笠原信元

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小笠原 信元[注釈 1]
時代 戦国時代 - 江戸時代初期
生誕 天文13年(1544年
死没 慶長17年7月28日1612年8月24日[2]
戒名 慈照院殿瑚林正珊大居士[3]
官位 安芸守[4]
幕府 江戸幕府 船手頭
主君 徳川家康
氏族 小笠原氏[4]
父母 父:小笠原広重、母:小笠原安元の娘[4]
兄弟 信元広朝広忠小笠原貞頼の妻、小笠原長隆の妻[2]
三浦備後守の妹
養子:信重[2]
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小笠原 信元(おがさわら のぶもと)は、安土桃山時代から江戸時代初期の武将。徳川家康の家臣。

略歴[編集]

三河国幡豆郡寺部城の城主小笠原広重の長男。三河小笠原氏は当初駿河遠江三河を治める戦国大名今川氏に属したが、永禄年間には徳川氏に従った[5][4]

永禄11年(1568年)には武田氏に備えて父とともに船方山城に入り、以後三方ヶ原の戦い長篠の戦いに従軍した。天正4年(1576年)からは同族で外伯父の小笠原安次とともに松平康親の守る諏訪原城に在番した。天正7年(1579年)駿河持船城攻めに武功があった。天正10年(1582年天正壬午の乱では後北条氏に備えて駿河三枚橋城を守備し、同年9月伊豆三島千貫樋の戦いでは伯父の小笠原安次や家臣の小笠原市蔵が戦死するなどの激戦となった。この戦功により信元は駿河国富士郡内に1,000石を加増されている[4]

天正18年(1590年小田原征伐に従軍し、鷹ノ巣城攻略や小田原城篠曲輪の夜戦に戦功があった。徳川氏が関東に移封されると、信元も上総国周淮郡富津に2,500石で移り、江戸湾内の鳥狩りを許されている。同年、徳川水軍の船手頭に任じられた。天正19年(1591年)の奥州討伐に伴う徳川軍の岩出山城出張や、文禄元年(1593年)の名護屋城出張に供奉した。慶長5年(1600年関ヶ原の戦いでは西軍九鬼嘉隆の押さえとして、千賀重親松平家信や弟の広朝、外従兄の小笠原広勝とともに尾張国知多郡師崎を守備した。戦後は大坂城下福島・転法の両口に在番した[6][2]

慶長17年(1612年)本領の富津で死去。甥で養嗣子の信重慶長11年(1606年)に早世していたため、家督は信重の嫡男で6歳の信盛が継承した[2]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 三河小笠原氏の菩提寺である安泰寺の過去帳は、信元の実名を信正としている[1]

出典[編集]

参考文献[編集]

  • 幡豆町誌編集委員会 編『愛知県幡豆町誌』国書刊行会、1981年。 
  • 富津市史編さん委員会 編『富津市史』 通史、富津市、1982年。 
  • 富津市史編さん委員会 編『富津市史』 史料集2、富津市、1980年。 
  • 寛政重修諸家譜』 4巻、高柳光寿(監修)、続群書類従完成会、1964年。ISBN 978-4-7971-0208-6