寧宗 (宋)
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| 寧宗 趙拡 | |
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| 南宋 | |
| 第4代皇帝 | |
| 王朝 | 南宋 |
| 在位期間 | 1194年7月24日 - 1224年9月18日 |
| 姓・諱 | 趙拡 |
| 諡号 | 法天備道純徳茂功仁文哲武聖睿恭孝皇帝 |
| 廟号 | 寧宗 |
| 生年 | 1168年11月18日 |
| 没年 | 1224年9月18日 |
| 父 | 光宗(第2子) |
| 陵墓 | 永茂陵 |
| 年号 | 慶元 : 1195年 - 1201年 嘉泰 : 1201年 - 1205年 開禧 : 1205年 - 1208年 嘉定 : 1208年 - 1225年 |
1194年、病弱な父が趙汝愚と高宗の皇后であった呉氏によって廃立された後に皇帝に即位した。この際に趙汝愚に協力した韓侂冑は寧宗の皇后の大叔父であったために大きな権力を有するようになり、趙汝愚を排除し独裁体制を確立した。この時に反対勢力の一人でもある朱熹も同時に追放してその理学を禁止している(慶元の党禁)。このような強引な手法で反対派を排除する方法に怨嗟の声は高まっていたが、寧宗は1205年に韓侂冑を平章軍国事に任じたため、尚も実権を掌握され続けた。皇后韓氏が死去し政権の後ろ盾を失った韓侂冑は、権力維持のために金に対する大規模な北伐を計画した。しかし準備が不十分なこともあり戦況は不利となり、金に寝返る将軍も出現する状況となった。この状況下、新しく皇后となっていた楊氏の兄・楊次山と史弥遠は、金征討失敗の責任者として韓侂冑の首と以前よりも不利な和議条件をもって金と講和することに成功し、韓侂冑に代わって権力を掌握した。
寧宗には9人の息子がいたがいずれも夭逝していたため、甥にあたる趙竑を後継者としていた。しかし趙竑は史弥遠を排除する動きがあったため、1224年に寧宗が危篤状態になると新たに趙昀を立太子し、寧宗崩御により皇帝に即位した。
[編集] 関連項目
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