孝宗 (宋)
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| 孝宗 趙昚 | |
|---|---|
| 南宋 | |
| 第2代皇帝 | |
| 王朝 | 南宋 |
| 在位期間 | 1162年7月24日 - 1189年2月18日 |
| 姓・諱 | 趙伯琮 趙瑗(入宮時改名) 趙瑋(高宗の養子となった際に改名) 趙昚(立太子時に改名) |
| 諡号 | 紹統同道冠徳昭功哲文神武明聖成孝皇帝 |
| 廟号 | 孝宗 |
| 生年 | 1127年11月27日 |
| 没年 | 1194年6月28日 |
| 父 | 秀安僖王・趙子偁 |
| 陵墓 | 永阜陵 |
| 年号 | 隆興 : 1163年 - 1164年 乾道 : 1165年 - 1173年 淳熙 : 1174年 - 1189年 |
孝宗(こうそう)は南宋の第2代皇帝(在位:1162年7月24日 - 1189年2月18日)。
目次 |
[編集] 生涯
1127年、喜王趙子偁の子として生まれる。北宋の太祖(趙匡胤)の次子趙徳芳の6世孫であり、太祖の子孫で初めて宋の皇帝となった人物である。初代皇帝・高宗の実子である趙旉(元懿太子)が早世して他に男子が無かったため、遠縁に当たる趙昚が皇太子として迎えられ、1162年に高宗から譲位されて皇帝として即位した。
南宋は金の要求により毎年多額の歳弊を献上していたが、この時期は1161年の海陵王の南宋遠征、そして海陵王死後の南宋による金への逆侵攻によって、戦争状態にあった。金では世宗が即位し、南宋の逆侵攻を撃退した。その後の世宗は南宋との関係修復に務め、孝宗も友好関係に務める中、1165年に和議が成立。この時の講和条件により、金へ送られる歳弊負担は軽減されることとなった(乾道和約)。
余剰な官吏の削減・当時乱発されていた会子(紙幣)の発行抑制、農村の生産力回復、江南経済の活性化など様々な国内改革に取り組んだほか、高宗時代に処刑された対金強硬派の代表人物岳飛の名誉回復を行うなど、南宋の全盛期を現出した。
日本との関係では平氏政権の平清盛との日宋貿易を行なっている時期に相当するが、あくまで民間交流・貿易であり、正式な国交は無かった。
1189年、子の趙惇に譲位して太上皇となるが、なおも実権は掌握していた。晩年は孫の趙拡の立太子問題などで光宗と対立し、不和になったと伝えられる。1194年に68歳で崩御した。
[編集] 宗室
[編集] 父母
- 父:趙子偁
- 養父:高宗
[編集] 皇后
- 郭氏
- 夏氏
- 謝氏
[編集] 子
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