宰相殿の空弁当

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宰相殿の空弁当(さいしょうどののからべんとう)とは、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおける毛利氏の去就にまつわる故事。略して「空弁(からべん)」とも。

関ヶ原の戦いに際して、五大老の1人である毛利輝元は、石田三成の要請を受けて西軍の総大将となった。毛利輝元は豊臣秀頼を保護する名目で大坂城に入り(結局度重なる参戦要求にもかかわらず、輝元自身は大坂城から出ようとはしなかった)、主戦場(西軍は丹後、三重、滋賀など散らばっている)には養子毛利秀元を大将として派遣し、吉川広家をその補佐につけた。だが、広家はこの戦いが西軍の敗北に終わることを予想しており、敵である徳川家康の重臣榊原康政本多忠勝らと極秘に単独停戦の交渉を進めていた[1]

関ヶ原の戦いでは、毛利軍は家康本陣の背後にある南宮山に布陣した。単独停戦の交渉を知らない秀元は、南宮山を降りて徳川軍の背後から総攻撃をかけるつもりであったが、先陣を務める吉川広家が出撃に反対(恵瓊の参戦の催促に対して「坊主に戦の何が分かりましょうや」と発言している)して道を空けない為、動けずにいた。 毛利軍の背後に陣を構えていた長宗我部盛親の出陣要請に困惑した秀元は、苦し紛れに「今弁当を作っている」と答えた。これは編年譜に「秀元兵卒ニ糧ヲ食セシムト称シテ時ヲ移ス、故ニ世之ヲ伝ヘテ宰相殿ノ穀弁当ト云ヘリ」と記述されており、「宰相(秀元の官位)殿の空弁当」の由来となった。

その結果、毛利軍(毛利秀元の本隊とは違い、吉川広家の部隊は山には登ってはいない)は兵を動かすことなく、西軍が敗北するのを傍観することになった。広家の思惑通りになったわけである。

だが、戦後になると家康は毛利氏の中立違反の事実をあげつらって、毛利氏の所領である中国地方の大半を没収した(長州藩)。120万石を保持していた大大名・毛利氏は、わずか30万石・周防長門の2国にまで減らされたのである。当初は毛利氏を取り潰し、吉川に与える意向であったが、広家が家康に嘆願し、この処分に落ち着いたという[2]。後に広家と徳川側との交渉の事実を知った秀元は大いに憤激して激しい怒りを抱き、長府藩(秀元の子孫)と岩国領主家(広家の子孫)の間には長く確執が残ったという。 また、徳川氏に対する毛利氏の恨みも大きく、その後の長州毛利家の新年の挨拶では、必ず「徳川討伐の戦をいつ始めましょうか?」「まだ時期尚早である」と言うのが恒例になったという。

[編集] 脚注

  1. ^ これは、広家の三成や安国寺への憎しみからであるとも言われる。また、毛利が三成側についてもらわないと徳川家康は勝った後で東軍の諸将に報償として与える土地が不足するし、何より西軍の旗頭・まとめ役がいなくなるので、反徳川勢力のあぶり出しがやりにくくなる。 (京の都の地理的に近い位置に120万石余の外様大名を置くことは非現実的である)徳川は毛利の内情は把握しており、吉川広家は操られていたに過ぎないという説もある。
  2. ^ このことを生涯家康は後悔しており、晩年は「敵は西方から来る」と言ってやまなかったという。薩摩島津氏や長州毛利氏などの西国の有力な外様大名を取り潰せなかったことを指していると思われる。

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