宮崎利秀

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宮崎 利秀(みやざき としひで、1919年 - 1982年1月1日[1])は、日本教員俳人[1]

杉森久英の小説『黄色のバット』のモデルになったことで知られる[1]

来歴[編集]

群馬県伊勢崎市に生まれる[1]。生後すぐに埼玉県妻沼町(現・熊谷市)に転居した[1]

熊谷中学校(現・埼玉県立熊谷高等学校、1937年卒業)を経て、横浜高等工業学校(現・横浜国立大学工学部)を卒業した[1]。熊谷中学校では金子兜太と同窓だった[1]。1942年に東京工業大学機械工学科を卒業すると、陸軍兵技将校として相模造兵廠監督課に勤務した[1]満州派遣されている際に敗戦となる[1]

敗戦後は占領軍の英語通訳を務めながら、1946年に『東京ジョー』を刊行した[1][2]

その後英語教師として、神奈川県立上溝女子高等学校(現・神奈川県立上溝高等学校)、橋本農学校、桜美林学園相模原市立田名中学校に勤めたが、リウマチに罹患、1951年に帰郷して母校の熊谷高等学校に勤めた後、1957年に埼玉県立浦和高等学校に転任し、俳句『あざみ』の初代編集長となる[1]

没後の1983年3月に、妻沼の大我井神社境内に句碑が建立された[3]

著書[編集]

  • 『句集 星の微笑』

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i j k 宮崎利秀 - 熊谷文化財 2023年6月22日閲覧
  2. ^ 東京ジョー - 国立国会図書館サーチ
  3. ^ 宮崎利秀句碑 - 熊谷デジタルミュージアム(2023年6月22日閲覧)