天苗加命

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天苗加命(あめのなえますのみこと)は日本の神で、香取神宮の神職首座(大宮司、大禰宜)を代々つとめる香取氏の祖神である。(天)苗益命、朝彦命、朝彦ノ命とも称し、物部小事や天太玉命あるいは天日鷲命かその子の大麻比古命(麻比古命)の別名との説も。

香取氏の系図によれば経津主神の子(兄という説もある)とされる [1]。 神社の祭神としては香取神宮の摂社の一つ、又見神社(または、若御児神社ともいう)に祭られている。

また、安房神社の極めて近くに香取神社(梶取神社)が大正5年までは存在していたが、その祭神は経津主神ではなく、天富命に従ってこの地に来たと言われる宇豆毘古(槁根津日子)だったという。

弘化二年(1845)『下総国旧事考』:朝彦ノ命の別名「苗加(ナヘマス)ノ命」

香取神宮の主祭神
香取神宮:普都の大神、経津主神、斎主(イハヒヌシ)の神
・『日本書紀』の一書の二:「経津主神」または「斎主」「斎の大人」。岐神をクニの導きとして各地をめぐり歩き平定し、従わない者を斬り殺し、帰順するものには褒美をあたえ、この時に帰順したのが大物主神と事代主神とある。
・『日本書紀』『続日本後記』『文徳実録』等の正史や『延喜式』の春日祭祝詞:「伊波比主命」
・『常陸風土記』信太郡の項:「天より降り来たれる神。名は普都大神と号す。」
・『常陸風土記』香島郡の項:「其処にいませる天の大神の社。坂戸の社。沼尾の社。三処を合せて惣べて香島の大神と称う。」
・『先代旧事本紀』:「今下総国香取に坐す大神是なり。」
・大同二年(807)斎部広成『古語拾遺』や『旧事本紀』:「経津主」
・吉田大洋『謎の出雲帝国』『竜神よ、我に来たれ!』:クナトノ大神
・経津主は天太玉命の孫又は曾孫とする説もある。(香取神宮第一の摂社とされる側高神社の祭神は、一説に忌部氏系の天日鷲命とも。)

香取神宮の本殿からほど近いところに不開殿(あけずどの)という摂社があったが、不開殿とは鹿島神宮の正殿のことをいい、毎年三月には、祭神が不開殿に神幸されたというが、斎主が御在世のころ、その住居処のかたわらに神籬を設けて、常時フツノミタマの神に奉仕しておられた

フツ、フツシ、フル[編集]

神社伝承学によると、フツという大陸から来た人がフツシ(スサノオ)の父で日本国を創始した人であり、フツシ(スサノオ)の子がフル(ニギハヤヒ)とされている。 一方、フツは発音からも経津主神であり、経津主神の子と伝えられる天苗加命はフツシ(スサノオ)である可能性が高い。

フル(ニギハヤヒ)は、天孫ニニギの兄とも伝えられ、神武天皇が東遷する前に既に大和を統治していたことが古事記や日本書紀にも記述されており、天皇家が大和を征服する前の大和の王または王朝であったことが示唆されている。

また、大神神社や石上神宮などの神武東遷以前から存在していたとされる日本最古級の神宮・神社の祭神が揃ってフツ、フツシ、フルであることからも間違いがないと思われる。

また、フツ(フツヌシ、経津主神)は、日本神話の「出雲の国譲り」にもある通り、軍を直接率いているが、ヤマトタケルのミコト(日本武尊)の九州進出や、神武東征でもわかるとおり、古代の日本では王(トップ)が直接軍を率いて戦に臨むのが一般的であった。よって、フツ(フツヌシ、経津主神)は、王であった可能性が高く、当時の日本の最大勢力であった出雲を組み入れた新しい日本の王であった可能性が高い。 その子であるフツシ(スサノオ、天苗加命)は、父のフツを継ぎ、国を治めたのであろう。また、フツシ(天苗加命)がスサノオと同体であるのは、スサノオが日本に穀物の栽培を普及させたと伝承されていることと、「苗を加える」という名である天苗加命と一致する。 また、フツ(フツヌシ、経津主神)の孫であり、フツシ(スサノオ、天苗加命)の子であるフル(ニギハヤヒ)の正式名称は「天照国照彦天火明櫛玉饒速日命」であり、日本の神の中で唯一「天照」の名を有する神である。ニギハヤヒ(フル)は三輪の大物主であるとも伝えられており、作者不詳の古い能の演目「三輪」には、キリ(終りの部分)で「思えば伊勢と三輪の神。一体分身の御事。今更、なんと、いわくら(磐座・言わくら)や」との言葉がある。これは三輪の神と伊勢の神が同じ神であるということ示唆しており、天照大御神が実はニギハヤヒ(フル)であることを示唆するといえる。

関連項目[編集]