天啓帝

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天啓帝 朱由校
第16代皇帝
明熹宗像.jpg
明熹宗著袞龍袍像(国立故宮博物院蔵)
王朝
在位期間 1620年 - 1627年
都城 北京
姓・諱 朱由校
諡号 達天闡道敦孝篤友章文襄武靖穆荘勤悊皇帝
廟号 熹宗
生年 万暦33年(1605年)12月23日
没年 天啓7年(1627年)9月30日
泰昌帝
孝和太后王氏
皇后 懿安皇后張氏
陵墓 徳陵
年号 天啓1621年 - 1627年
明熹宗常服像

天啓帝(てんけいてい)は、朝の第16代皇帝由校(ゆうこう)。廟号熹宗(きそう)。日本では在位中の元号天啓を取って天啓帝と呼ぶのが一般的。

生涯[編集]

泰昌帝の長子として生まれる。泰昌元年(1620年)、即位して間もない父帝が崩御したために即位した。

天啓帝の7年の治世はそのまま宦官魏忠賢の専横の時代である。そのせいか、天啓帝は政務の傍ら、大工仕事をするようになった。

魏忠賢は東林党を弾圧することで政界の表舞台に躍り出た。現実の政治に合わない理想論を掲げ、閣僚達を攻撃する東林党に対する閣僚達の憎しみは強く、魏忠賢による弾圧を喝采したが、後にそれを大きく後悔することになった。魏忠賢の弾圧は東林党に限らなかったのである。

魏忠賢は権勢を完全に掌握しただけでは飽き足らず、堯天舜徳至聖至神(ぎょうてんしゅんとくしせいししん、に匹敵する聖人であると自らを称えさせた)という称号を名乗り、全国に自分の祠を立てさせた。最後には自分の息のかかった者に「魏忠賢の功績は多大であるから、孔子と並んで称えるべきだ。」と進言させた。そしてこれらに反対する者は全て弾圧した。

この時期には満州ヌルハチ後金を建国して、東北に勢力を拡大していた。その時に明の頂点に立っていたのは賄賂を好む魏忠賢であったので、たとえ後金相手に負けたとしても賄賂を贈ることで勝ったとごまかすことが出来た。そのためにヌルハチの勢力は抑えられないものになっていった。

天啓7年(1627年)、次代に多大な負担を被せて崩御した。享年23。弟の信王朱由検(崇禎帝)が帝位を継いだ。

宗室[編集]

后妃[編集]

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  1. 懐沖太子朱慈燃水子。母は懿安皇后張氏
  2. 悼懐太子朱慈焴、夭折。母は皇貴妃范氏。
  3. 献懐太子朱慈炅、驚死。母は皇貴妃任氏。

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  1. 永寧公主朱淑娥、夭折。母は皇貴妃范氏。
  2. 懷寧公主朱淑嫫[1]、夭折。母は成妃李氏。[2]

脚注[編集]

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  1. ^ 『国榷』巻首之一 元潢
  2. ^ 『皇明懐寧公主墓志銘』