嘉靖帝

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
嘉靖帝 朱厚
第12代皇帝
明世宗.jpg
王朝
在位期間 1521年 - 1566年
都城 北京
姓・諱 朱厚
諡号 欽天履道英毅聖神宣文広武洪仁大孝粛皇帝
廟号 世宗
生年 正徳2年(1507年)9月16日
没年 嘉靖45年(1566年)1月23日
朱祐杭
蒋太后中国語版
皇后 孝潔皇后陳氏
廃后張氏
孝烈皇后方氏中国語版
陵墓 永陵
年号 嘉靖:1522年 - 1566年

嘉靖帝(かせいてい)は、朝の第12代皇帝(こうそう)(の字は火偏+總)。廟号世宗(せいそう)。日本では治世の元号から一般的に嘉靖帝と称される。

生涯[編集]

弘治帝の弟の興王朱祐杭の次男で、先帝である正徳帝の従弟に当たる。兄・朱厚熙が先に没したために父の後継者(世子)となる。正徳14年(1519年)に父が没するが、興王位を継承する前の正徳15年(1521年)に正徳帝が崩御した。正徳帝の子が早世していたため、正徳帝にもっとも血筋の近い皇族ということで、傍系でありながら皇帝に即位した。

即位後、正徳帝が寵愛していた銭寧江彬を処刑して、宮中の官員を整理し、先代の弊風を一新した。しかし嘉靖帝は傍系であったため、大礼の議問題が発生した。嘉靖帝は弘治帝から従兄の正徳帝を経て帝位を継承したため、形式上は弘治帝の子になり、弘治帝を父とする必要があった。しかし嘉靖帝は、実父の興献王(「献」は朱祐杭の諡号)を皇考(皇帝の父)として扱うこととしたため、系譜上では弘治帝が消滅することになった。そのため、弘治帝を皇考とすることを求める廷臣たちと論争し、意見の異なる臣下を200人あまりも解任または投獄した。この事件により、皇帝に諫言を行う臣下が減少したとされる。

正徳帝の遺詔で、正徳期の悪政が一掃された。嘉靖帝の功績として評価する見方もあるが、実際は正徳帝の遺臣が行ったことである。嘉靖帝自身は朝政を省みることはなく、道教に熱中し、青詞(道教における祭文)に長じているという理由で高官に人材登用を行った。そのため、この時登用され内閣大学士に任じられた厳嵩は「青詞宰相」と称された。

対外的には北方のアルタン・ハーン率いる右翼モンゴルによる侵攻、南方では倭寇による衝突が発生し、国事多難の時期であったが、嘉靖帝は紫禁城の中にこもり、自らの生活を享受していた。嘉靖45年(1566年)に丹薬を長年服したことによる中毒死で崩御した。

宗室[編集]

明世宗著龍袍像

后妃[編集]

  • 孝潔皇后陳氏
  • 継后張氏(廃)
  • 孝烈皇后方氏
  • 康妃杜氏 - 孝恪太后隆慶帝の母
  • 端和恭順温僖皇貴妃王氏、栄安恵順端僖皇貴妃閻氏荘順安栄貞静皇貴妃沈氏、恭僖貞靖貴妃文氏、恭淑安僖栄妃楊氏、懐栄賢妃鄭氏
  • 端恵安栄靖妃盧氏、恭僖麗妃王氏、栄昭徳妃張氏、徽妃王氏、雍妃陳氏、粛妃江氏、温靖懿妃趙氏
  • 宸妃王氏、寿妃尚氏、淑妃張氏、栄安貞妃馬氏、安妃沈氏、端恵永妃徐氏、定妃呉氏、晏妃褚氏、平妃耿氏、康妃王氏、宜妃包氏、静妃陳氏、順妃李氏、晏妃禇氏、荘妃王氏、睦妃何氏、荘妃杜氏、和妃張氏、懐妃王氏、常妃張氏
  • 恭妃文氏端妃曹氏、寧嬪王氏
  • 荘嬪王氏、恵嬪韋氏、常嬪陳氏、常嬪李氏、裕嬪王氏、懐嬪王氏、御嬪黄氏、宛嬪趙氏、常嬪馬氏、常嬪劉氏、常嬪楊氏、常嬪張氏、康嬪劉氏、常嬪傅氏、常嬪張氏、常嬪劉氏、昭嬪張氏、常嬪武氏、寧嬪郭氏、静嬪田氏、安嬪孟氏、麗嬪宋氏、和嬪任氏、常嬪高氏、常嬪王氏

男子[編集]

女子[編集]

  • 常安公主朱壽媖 、母は端妃曹氏
  • 思柔公主朱福媛、母は徽妃王氏
  • 寧安公主朱祿媜、母は端妃曹氏、養母は皇貴妃沈氏
  • 帰善公主朱瑞嬫、母は雍妃陳氏
  • 嘉善公主朱素嫃、母は徳妃張氏

登場作品[編集]

テレビドラマ