泰昌帝

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泰昌帝 朱常洛
第15代皇帝
明光宗.jpg
明光宗著袞龍袍半身像
王朝
在位期間 1620年
都城 北京
姓・諱 朱常洛
諡号 崇天契道英睿恭純憲文景武淵仁懿孝貞皇帝
廟号 光宗
生年 万暦10年(1582年)8月28日
没年 泰昌元年(1620年)9月26日
万暦帝
恭妃王氏
皇后 孝元貞皇后
陵墓 慶陵
年号 泰昌:1620年
明光宗常服像

泰昌帝(たいしょうてい)は朝の第15代皇帝常洛(じょうらく)。廟号光宗(こうそう)。日本では在位中の元号を取って一般的には泰昌帝と呼ばれる。

生涯[編集]

万暦帝の長子として生まれる。万暦帝は常洛を愛さず、寵妃鄭貴妃との間に出来た第三子の朱常洵皇太子に立てたがっていたが、孝定太后の命により常洛を皇太子に立てた。しかしその後も鄭貴妃の手の者に命を狙われる事件(挺撃の案)が発生したが、万暦帝はこれを黙視し、臣下から鄭貴妃が事件の黒幕であると上訴されても鄭貴妃を庇っていた。

そのような事がありながらも万暦48年(1620年7月、父帝の崩御により何とか常洛が即位する事ができた。泰昌帝は幼い頃から英邁だったので臣下たちの期待は高かったのだが、即位して一ヶ月で崩御してしまった。この泰昌帝の死に関わる事件が「紅丸の案」である。即位してほどなく下痢を催した泰昌帝に、鴻臚寺丞を務めていた李可灼紅鉛丸(丸薬)を勧め、泰昌帝が一つ服用したところ気分がよくなった。ところが、もう一丸飲んだところ、翌日俄かに崩御したという事件である。これを陰謀と見なして、背後関係を追及するべきだと言い出す者が現れ、まず丸薬を勧めた李可灼が弾劾され、次いで紅丸を勧めるのを止めなかったという理由で、大学士の方従哲も弾劾された。

改元は前皇帝が崩御した翌年の元日と決まっており、泰昌の元号が用意されていたが、その暇も無く泰昌帝は崩御してしまった。このまま新しい皇帝が即位し、次の元日からその皇帝のための新しい元号を使うとすると泰昌という元号は存在しなくなり、ひいては泰昌帝の存在が消滅することになる。臣下たちは話し合い、この年の7月以前を万暦、8月以降を泰昌とすることにした。

宗室[編集]

后妃[編集]

  • 孝元貞皇后
  • 孝和皇太后
  • 孝純皇太后
  • 康妃李氏
  • 荘妃李氏
  • 選侍趙氏
  • 選侍王氏
  • 懿妃傅氏
  • 敬妃馮氏
  • 慎嬪邵氏

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  • 懐淑公主朱徽娟-母は孝元皇后郭氏
  • 悼淑公主
  • 寧徳公主-母は懿妃傅氏
  • 遂平公主-母は懿妃傅氏
  • 楽安公主-母は康妃李氏
  • 悼温公主-母は慎嬪邵氏