泰昌帝

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泰昌帝 朱常洛
第15代皇帝
Taichang.jpg
王朝
在位期間 1620年
都城 北京
姓・諱 朱常洛(じょうらく)
諡号 崇天契道英睿恭純憲文景武淵仁懿孝貞皇帝
廟号 光宗
生年 1582年
没年 1620年
万暦帝(長子)
恭妃王氏
陵墓 慶陵
年号 泰昌:1620年

泰昌帝(たいしょうてい 1582年 - 1620年 在位1620年)は中国朝の第15代皇帝常洛(じょうらく)。廟号光宗(こうそう)。日本では在位中の元号を取って泰昌帝と呼ぶのがほとんどである。

目次

[編集] 生涯

万暦帝の長子として生まれる。万暦帝は長子の常洛を愛さず、寵妃鄭貴妃との間に出来た第三子の朱常洵皇太子に立てたがっていたのだが、皇太后の命により常洛を皇太子に立てた。しかしその後も鄭貴妃の手の者に命を狙われる事件(挺撃の案)が発生したが、万暦帝はこれを黙視し、臣下から鄭貴妃が事件の黒幕であると上訴されても鄭貴妃を庇っていた。

1620年7月、そのような事がありながらも何とか常洛が即位する事が出来た。泰昌帝は幼い頃から英邁だったので臣下たちの期待は高い物があったのだが、しかし即位して一ヶ月で死去してしまった。この泰昌帝の死に関わる事件が「紅丸の案」である。即位してほどなく下痢を催した泰昌帝に、鴻臚寺丞を務めていた李可灼なる者が丸薬(紅鉛丸)を勧め、泰昌帝が一つを服用したところ気分がよくなった。ところが、もう一丸飲んだところ、翌日俄かに死去したという事件である。これを陰謀と見なして、背後関係を追及するべきだと言い出す者が現れ、まず丸薬を勧めた李可灼が弾劾され、次いで紅丸を勧めるのを止めなかったという理由で、大学士の方従哲も弾劾された。

改元は前皇帝が死んだ翌年の元日と決まっており、泰昌と言う元号が用意されていたのだが、その暇も無く泰昌帝は死んでしまった。このまま新しい皇帝が即位し、次の元日からその皇帝のための新しい元号を使うとすると泰昌と言う元号は存在しなくなる。言ってしまえば泰昌帝の存在が消滅する事になる。臣下たちは話し合い、この年の7月以前を万暦、8月以降を泰昌とする事にした。

[編集] 宗室

[編集] 后妃

  • 孝元貞皇后
  • 孝和皇后
  • 孝純皇后
  • 康妃李氏
  • 荘妃李氏
  • 選侍趙氏
  • 選侍王氏
  • 選侍李氏
  • 定懿妃
  • 敬妃

[編集]

[編集]

  • 懷淑公主
  • 寧徳公主
  • 遂平公主
  • 楽安公主

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