多賀常則

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多賀 常則
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 不明
死没 天正15年4月20日1587年5月27日
別名 新左衛門尉(通称)
戒名 洞悦
官位 伊予守
主君 浅井長政織田信長豊臣秀吉秀長
氏族 多賀氏
常直[1]
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多賀 常則(たが つねのり)は、戦国時代から安土桃山時代武将浅井氏織田氏豊臣氏家臣

生涯[編集]

はじめ近江国北部の戦国大名浅井長政に仕えた。その後、尾張国美濃国の織田信長に仕えたといわれており、元亀元年(1570年)には、織田軍の一員として近江南部の大津穴太で浅井・朝倉連合軍と対峙している[2]。以後、天正元年(1573年)8月の越前国朝倉義景滅亡戦(一乗谷城の戦い)、天正9年(1581年)9月の伊賀攻め、天正10年(1582年)2月からの武田征伐にそれぞれ参加した。6月に本能寺の変が起こり信長が死去した後は羽柴秀吉に仕えたが、本能寺の変における動向はわかっていない[2]

天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いにも300の軍勢を率いて参加。その後、秀吉の命令で実弟の羽柴秀長付の家臣となり、大和において2000石を知行として与えられた[2]。天正15年(1587年)2月、九州征伐において秀長軍の一員として従軍するが[2]、4月20日に病気のために陣中にて死去した[3]。ただし没年に関しては天正17年(1589年)説、慶長2年12月23日1598年1月30日)説なども存在する(『寛政重修諸家譜』)。

人物[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 寛政重修諸家譜』巻第六百七十六
  2. ^ a b c d 岡田正人 編『織田信長総合事典』雄山閣、1999年、239頁。ISBN 4639016328 
  3. ^ 多聞院日記』同年5月7日条には「去月廿日、於西国多賀新左衛門尉病死了ト云々」とある。