北条顕時
| 北条 顕時 | |
|---|---|
| 時代 | 鎌倉時代中期 - 後期 |
| 生誕 | 宝治2年(1248年) |
| 死没 | 正安3年3月28日(1301年5月7日) |
| 改名 | 時方、顕時、恵日 |
| 別名 | 越後四郎時方、赤橋殿 |
| 墓所 | 横浜市金沢区称名寺 |
| 官位 | 左近将監、越後守、従五位上 |
| 幕府 | 鎌倉幕府評定衆、引付4・3番頭人 |
| 主君 | 宗尊親王→惟康親王→久明親王 |
| 氏族 | 北条氏(金沢流) |
| 父母 | 父:北条実時、母:北条政村の娘 |
| 兄弟 | 顕時、時直、実政、時国 長井宗秀室、名越長頼室、飛鳥井雅有室 |
| 妻 | 正室:安達千代野 遠藤為俊の娘、千葉泰胤の娘 |
| 子 | 顕弁、顕実、時雄、顕景、貞顕、 名越時如室、千葉胤宗室、 足利貞氏室(釈迦堂殿) |
北条 顕時(ほうじょう あきとき)は、鎌倉時代中期から後期にかけての武将。北条氏の一門。金沢顕時とも。父は金沢流北条氏の初代で鎌倉幕府の重職を歴任した北条実時。正室は安達泰盛の娘・千代野。
[編集] 生涯
正嘉元年(1257年)11月23日、10歳で北条時頼邸において元服し、越後四郎時方と名乗る。加冠役は時頼の嫡子で7歳の北条時宗であった。のちに顕時に改名。文応元年(1260年)に将軍家庇番衆となして宗尊親王に仕え、歌学などの学問を学ぶ[1]。文永6年(1269年)に引付衆となった後、弘安元年(1278年)には評定衆に加えられ、弘安3年(1280年)には越後守に任官。弘安4年(1281年)には引付四番頭人へと昇進。その間、左近将監、越後守に任じられている。弘安6年(1283年)には従五位上に叙任。
弘安8年(1285年)11月17日、幕政を主導していた安達泰盛らが内管領・平頼綱に滅ぼされた霜月騒動では[2]、泰盛の娘婿にあたる顕時は騒動には関与しなかったが、縁戚として連座し金沢家の領地であった下総埴生庄に隠棲し、出家して「恵日」(えにち)と名乗ったが、実際は謹慎処分であり出家したために助命されている[3]。
永仁元年(1293年)4月22日に執権・北条貞時が平禅門の乱で頼綱を滅ぼした。その5日後の4月27日に顕時は鎌倉に戻って幕政に復帰し[4]、10月には貞時が引付を廃止して執奏を新設し、顕時は北条宗宣らと共に任命された[5]。永仁2年(1294年)には引付四番頭人[6]、永仁4年(1295年)には三番頭人加わり、赤橋館を与えられる。
晩年は長年の激務から胃病を患って政務を退くが、貞時の信頼は厚く度々諮問を受けたという[7]。
正安3年(1301年)3月28日に死去[8]。享年54[9]。跡を子の貞顕が継ぎ、金沢北条家は引き続いて得宗家の厚い信任と抜擢を受け続けることになる[10]。
[編集] 脚注
[編集] 参考文献
- 永井晋 『金沢貞顕』 吉川弘文館 人物叢書、2003年
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