伊号第百五十二潜水艦

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伊号第五十二潜水艦
艦歴
計画 1919年度(八六艦隊案)
起工 1922年2月14日
進水 1923年6月12日
就役 1925年5月20日竣工
除籍 1942年8月1日
その後 戦後解体
性能諸元
排水量 基準:1,390トン 常備:1,500トン
水中:2,500トン
全長 100.85m
全幅 7.64m
吃水 5.14m
機関 ズルツァー式3号ディーゼル2基2軸
水上:6,800馬力
水中:1,800馬力
速力 水上:21.5kt
水中:7.7kt[1]
航続距離 水上:10ktで10,000海里
水中:4ktで100海里
燃料 重油:284.5t
乗員 58名
兵装 45口径12cm単装砲1門
8cm単装高角砲1門
53cm魚雷発射管 艦首6門、艦尾2門
六年式魚雷16本
Kチューブ
備考 安全潜航深度:45.7m

伊号第百五十二潜水艦(いごうだいひゃくごじゅうにせんすいかん)は、大日本帝国海軍潜水艦。艦級は海大2型で同型艦はない。1925年に竣工。竣工時は伊号第五十二潜水艦(初代)という名称であったが1942年に改称され伊号第百五十二潜水艦と称した。実戦に投入されることなく老朽化のために1942年8月1日に除籍。

概要[編集]

本艦(海大2型)は海大1型伊号第五十一潜水艦 [I])と同じく八六艦隊案で計画された。計画番号S25。伊51から約1年遅れた1925年(大正14年)5月20日に呉海軍工廠で竣工。呉鎮守府籍となる。

計画当初の艦名は第五十一潜水艦であったが、建造途中の1924年(大正13年)11月1日に伊号第五十二潜水艦と改名された。

本艦の主機はズルツァー社に依頼していた大出力ディーゼル機関(3,400馬力)が完成したためそれを搭載した。そのため主機は2基(伊51は1,300馬力ディーゼル4基)となり、船殻は通常の円形断面となった(伊51はめがね型)。また速力を増すため船体はより細長い形状となった。公試では速力21.5ノットを記録したが、新型機関は故障が多く、実用では19.5ノットがせいいっぱいであった。

兵装は12cm砲の他に8cm高角砲1門を装備したとされる。昭和に入り留式7.7mm機銃1挺と交換されたらしい。またケルビン式探信儀を装備したと言われる。[2]

本艦は1隻のみの建造で同型艦はなく試験的な艦であった。後に本艦を改良した海大3型aおよび海大3型bが量産された。

1925年(大正14年)12月1日、伊51と共に第二艦隊第2潜水戦隊第17潜水隊を編成。

1928年(昭和3年)12月10日、第17潜水隊は呉鎮守府付属となる。

1935年(昭和10年)11月15日、第17潜水隊の解隊に伴い、呉鎮守府付属となる。

1939年(昭和14年)2月1日に舞鶴鎮守府籍となる。

太平洋戦争開戦時には呉鎮守府付属。老朽化のため専ら練習潜水艦として使用されていた。1942年(昭和17年)5月20日伊号第百五十二潜水艦と改称。

8月1日、伊152は除籍された。

その後は呉港に係留されたまま海軍潜水学校の練習艦として使用。

1946年(昭和21年)から1948年(昭和23年)にかけて播磨造船所呉船渠で解体された。

潜水隊の変遷[編集]

呉鎮守府籍の伊52は海大1型海大3型a伊53の3隻で1個潜水隊を編成し、呉鎮の固有番号を与えられて第17潜水隊を編成した。

第十七潜水隊[編集]

呉鎮守府籍の伊52と、海大1型の伊51海大3型a伊53の3隻で編成。呉で改修や練習に使用され、昭和10年11月15日に解隊された。

1925年(大正14年)12月1日:伊51、伊52で編成。第二艦隊第2潜水戦隊。
1927年(昭和2年)3月30日:竣工した伊53を編入。編成完結。
1928年(昭和3年)12月10日:呉鎮守府付属。
1935年(昭和10年)11月15日:解隊。伊51、伊52は呉鎮守府付属に、伊53は第18潜水隊にそれぞれ転出。
(1940年(昭和15年)4月1日:伊51除籍。)
(1942年(昭和17年)8月10日:伊152除籍。)

艦長[編集]

※『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」に基づく。

  • (心得)松野省三 少佐:1924年9月2日[3] - 1925年12月1日
  • 樋口修一郎 少佐:1925年12月1日 - 1927年12月1日
  • 堀江吉正 中佐:1927年12月1日[4] - 1928年12月10日[5]
  • 駒沢克己 少佐:1928年12月10日 - 1929年11月30日
  • 福沢常吉 少佐:1929年11月30日 - 1930年12月1日
  • 志波国彬 少佐:1930年12月1日[6] - 1931年7月16日[7]
  • 久米幾次 少佐:1931年7月16日[7] - 1932年11月1日[8]
  • 奥島章三郎 少佐:1932年11月1日[8] - 1933年4月10日[9]
  • 松尾義保 少佐:1933年4月10日[9] - 1934年11月1日[10]
  • 浜野元一 少佐:1934年11月1日[10] - 1935年7月3日[11]
  • 奥島章三郎 少佐:1935年7月3日[11] - 1936年11月2日[12]
  • 遠藤敬勇 少佐:1936年11月2日[12] - 1937年11月15日[13]
  • 藤井明義 少佐:1937年11月15日 - 1938年12月15日
  • 大谷清教 少佐:1938年12月15日[14] - 1939年2月20日[15]
  • 七字恒雄 少佐:1939年2月20日[15] - 1939年11月1日[16]
  • 広川隆 少佐:1939年11月1日[16] - 1940年10月15日[17]
  • 川崎陸郎 少佐:1940年10月15日[17] - 1941年7月31日[18]
  • 大田武 少佐:1941年7月31日[18] - 1941年10月31日[19]
  • 関戸好密 少佐:1941年10月31日[19] -

脚注[編集]

  1. ^ データは『写真 日本の軍艦 第12巻 』より。要目一覧では水上速力20.1ノットとなっているが、「公試で21.5ノットを記録した」ことが2回、別ページで別の著作者がそれぞれ言及しているのでこちらの値を採った。
  2. ^ この項は『写真 日本の軍艦 第12巻』p54の記述による。
  3. ^ 『官報』第3619号、大正13年9月13日。前職:第五十一潜水艦艤装員。
  4. ^ 『官報』第279号、昭和2年12月2日。
  5. ^ 『官報』第587号、昭和3年12月11日。
  6. ^ 『官報』第1179号、昭和5年12月2日。
  7. ^ a b 『官報』第1364号、昭和6年7月17日。
  8. ^ a b 『官報』第1754号、昭和7年11月2日。
  9. ^ a b 『官報』第1881号、昭和8年4月11日。
  10. ^ a b 『官報』第2353号、昭和9年11月2日。
  11. ^ a b 『官報』第2550号、昭和10年7月4日。
  12. ^ a b 『官報』第2953号、昭和11年11月4日。
  13. ^ 海軍辞令公報 号外 第91号 昭和12年11月15日付」 アジア歴史資料センター Ref.C13072072500 
  14. ^ 海軍辞令公報(部内限)号外 第273号 昭和13年12月15日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072074800 
  15. ^ a b 海軍辞令公報(部内限)第303号 昭和14年2月20日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072075400 
  16. ^ a b 海軍辞令公報(部内限)第397号 昭和14年11月1日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072076600 
  17. ^ a b 海軍辞令公報(部内限)第543号 昭和15年10月15日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072079000 
  18. ^ a b 海軍辞令公報(部内限)第681号 昭和16年7月31日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072081600 
  19. ^ a b 海軍辞令公報(部内限)第737号 昭和16年10月31日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072082900 

参考文献[編集]

  • 雑誌「丸」編集部『写真 日本の軍艦 第12巻 潜水艦』光人社、1990年 ISBN 4-7698-0462-8
  • 海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第9巻、第10巻、第一法規出版、1995年。

関連項目[編集]