メイ・アーウィン

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メイ・アーウィン
Irwin in an ornate white dress.
1905年のアーウィン。
生誕 Georgina May Campbell
(1862-06-27) 1862年6月27日
カナダ オンタリオ州ウィットビー
死没 1938年10月22日(1938-10-22)(76歳)
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 ニューヨーク州ニューヨーク
職業 女優、歌手
活動期間 1870年代1922年
配偶者
Frederick W. Keller
(m. 1879; d. 1886)

Kurt Eisenfeldt
(m. 1907)
子供 2
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トーマス・エジソンによる1896年4月の映画M・アーウィンとJ・C・ライスの接吻』。

メイ・アーウィン(May Irwin、出生名ジョージナ・メイ・キャンベル、Georgina May Campbell、1862年6月27日 - 1938年10月22日)は、女優、歌手で、ヴォードヴィルのスター。カナダ出身の彼女は、姉のフロー・アーウィン (Flo Irwin) とともに、父親の死後、舞台に立つようになった。彼女は、クーン・シャウター (coon shouter) としてのパフォーマンスや録音で知られた。

生い立ちと経歴[編集]

1862年6月27日オンタリオ州ウィットビーに生まれた[1]ジョージナ・メイ・キャンベルは[2][3][4]、13歳の時に父ロバート・E・キャンベル (Robert E. Campbell) が死去し、元々舞台に関心を寄せていた母ソフォリア・ジェーン・ドレイパー (Sophoria Jane Draper) がお金を必要としていたこともあり、メイと姉のアデリン・フローラ(Adeline Flora:通称 "Flo" ないし "Addie")を促して、舞台に立たせた。姉妹は歌を歌い「アーウィン・シスターズ (Irwin Sisters) 」として1874年12月にニューヨーク州バッファローのアデルフィ劇場 (the Adelphi Theatre) でデビューした。1877年後半、キャリアを積んだ姉妹は、ニューヨークのメトロポリタン劇場 (Metropolitan Theater) に出演し、さらに人気の高いミュージックホールだったトニー・パスター英語版劇場に出演した。

ミス・メイ・アーウィン

姉妹の人気は高く、6年間にわたってレギュラー出演者の地位を保ったが、やがて21歳になったメイは、自分一人での活動に乗り出した。彼女は、1883年から1887年にかけて、オーガスティン・ダリー英語版の劇団に加わり、初めて演劇の舞台に立った。コメディ女優となった彼女は、その即興の才によって知られた。たちまち人気を博した彼女は、1884年8月にはトゥール劇場英語版に出演してロンドンの舞台デビューを果たした。25歳になった彼女は、週給 $2,500 を稼いでいた[5]1886年、8年間連れ添った夫フレデリック・W・ケラー (Frederick W. Keller) が急死した。姉のフローラは、ニューヨーク州議会の上院議員トーマス・F・グラディ英語版と結婚した。

1890年代はじめ、アーウィンは2度目の結婚をし、ヴォードヴィルの世界でキャリアを積んで、当時「クーン・シャウティング (Coon Shouting)」として知られていた演目に取り組み、アフリカ系アメリカ人の影響を受けた歌を歌っていた。1895年のブロードウェイのショー『The Widow Jones』では、「The Bully Song」を歌い、この曲は彼女を代表する持ち歌となった。このショーには、長い接吻の場面が含まれていたが、この場面を見たトーマス・エジソンは、アーウィンと共演者ジョン・C・ライスを雇って、この場面を映画に再現させた。1896年、エジソンのキネトスコープ作品『M・アーウィンとJ・C・ライスの接吻 (The Kiss)』は、映画の歴史上最初の接吻の場面となった[6]

彼女が主演した舞台作品には『The Widow Jones』、『The Swell Miss Fitzswell』、『Courted Into Court』、『Kate Kip-Buyer』、『Sister Mary』などがあった[7]

元々ブロードウェイミュージカルCourted Into Court』で歌われたアーウィンの歌の一つを取り上げた楽譜の表紙。

演技や歌唱に加え、アーウィンはいくつもの歌の作詞も手がけ、その一つ「Hot Tamale Alley」にはジョージ・M・コーハン英語版が曲を書いた。1907年、彼女はマネージャーのクルト・アイスフェルト (Kurt Eisfeldt) と結婚し、また、ベルリナー/ビクターへの吹込みを始めた。こうした録音の一部は現存しており、彼女の魅力がどのようなものであったかを伝えている。

アーウィンの豊満な体格は、当時の流行でもあり、彼女の魅力的な人柄とも相まって、30年以上にもわたり彼女をアメリカで最も愛されたパフォーマーとした。1914年、彼女はサイレント映画への2度目の出演をしたが、今回は長編映画で、ジョージ・V・ホバート英語版の戯曲を改作した『Mrs. Black is Back』といい、アドルフ・ズコールフェイマス・プレイヤーズ・フィルム・カンパニーが制作して、大部分がニューヨークのアーウィンの自宅で撮影された。この映画は、メイを捉えた場面のスチル写真が現存している。

高い報酬を得ていた演技者であったアーウィンは、賢明な投資家でもあり、大変金持ちの女性となった。彼女は、サウザンド諸島グラインドストーン島英語版に近い小島であるクラブ島 (Club Island) に構えた夏の家や、フロリダ州メリット島の冬の家で多くの時間を過ごしていたが、その後は、ニューヨーク州クレイトン英語版近傍の農場に引退し、さらに後には当地の通りの名が彼女を讃えて改称された。サウザンドアイランドドレッシングはアーウィンが広めたという説がある[8]

アーウィンは、1925年に引退した[1]

私生活[編集]

メイ・アーウィンは、2度結婚した。最初の結婚は、セントルイスのフレデリック・W・ケラー (Frederick W. Keller) とのもので、1878年から夫が死去した1886年まで続いた。1907年から死去するまで、彼女はクルト・アイスフェルト (Kurt Eisfeldt) と結婚していた。夫妻はニューヨークの西44丁目に住んでいた。

アーウィンは、最初の結婚から二人の息子、すなわち、彼女が17歳だった1879年ころに生まれたウォルター・ケラー (Walter Keller) と、彼女が20歳だった1882年に生まれたハリー・ケラー (Harry Keller) をもうけていた[9]

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メイ・アーウィンは、1938年10月22日に、ニューヨーク市で、76歳で死去した。彼女は、ニューヨーク州バルハラ英語版ケンシコ墓地英語版に葬られた。

フィルモグラフィ[編集]

脚注[編集]

  1. ^ a b Foster 2000, p. 14.
  2. ^ Gracyk, Tim (2006年). “May Irwin”. Tim Gracyk's Phonographs, Singers, and Old Records. 2019年7月8日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年2月21日閲覧。
  3. ^ de Lafayette, Maximillien. “World of Cabaret - American Music and the Birth of Cabaret from the Early Jazz Era to Present”. International News Agency. 2008年10月12日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年1月2日閲覧。
  4. ^ Lunman, Kim (2009年4月13日). “May Irwin and her Keeper”. Thousand Islands Life Magazine. オリジナルの2010年5月13日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20100513202510/http://www.thousandislandslife.com/BackIssues/Archive/tabid/393/articleType/ArticleView/articleId/214/May-Irwin-and-her-Keeper.aspx 2009年12月28日閲覧。 
  5. ^ Callwood, June (1977). The naughty nineties, 1890-1900. Toronto: Natural Science of Canada. pp. 79. ISBN 0-919644-21-X. OCLC 5172430 
  6. ^ Dirks, Tim. “Sex in Cinema: Pre-1920s Greatest and Most Influential Erotic / Sexual Films and Scenes”. AMC Filmsite. 2019年10月29日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年2月22日閲覧。
  7. ^ Morgan, Henry James, ed (1903). Types of Canadian Women and of Women who are or have been Connected with Canada. Toronto: Williams Briggs. p. 172. https://archive.org/details/typesofcanadianw01morguoft 
  8. ^ McNeese, Tim (2005). The St. Lawrence River. Infobase Publishing, ISBN 978-0-7910-8245-4
  9. ^ Edwards, Bill. “Georgina May (Campbell) (Keller) Irwin (Eisfeldt)”. RagPiano.com. 2018年9月15日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年2月22日閲覧。

参考文献[編集]

関連文献[編集]

  • Ammen, Sharon (2016). May Irwin: Singing, Shouting, and the Shadow of Minstrelsy. Urbana, Chicago, and Springfield: University of Illinois Press. ISBN 0252040651 

外部リンク[編集]