ミハイル・バリシニコフ

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Mikhail Baryshnikov
ミハイル・バリシニコフ
1984年、ニューヨークにて
生誕 1948年1月28日(66歳)
ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦リガ
出身校 ラトビア国立劇場附属バレエ学校
ワガノワ・バレエ学校
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ミハイル・ニコラエヴィチ・バリシニコフ (: Михаи́л Никола́евич Бары́шников, Mikhail Nikolaevitch Baryshnikov, 1948年1月28日 - ) はソ連出身のバレエダンサー振付家俳優。愛称はミーシャ。1974年米国に亡命し、1986年に帰化した。

経歴[編集]

旧ソ連・ラトビア社会主義共和国リガに生まれる。両親はともにロシア人。父親はソ連軍の将校、母親は仕立て屋であった。

9歳[1]のときに母親[2]の勧めでバレエを始め、その後ラトビア国立劇場附属バレエ学校の生徒となる。バレエ団の公演にも参加するようになり、16歳のレニングラード巡演の際に名門ワガノワ・バレエ学校に推薦されて入学した。ワガノワではA・プーシキンに師事し、在校中の1966年ヴァルナ国際バレエコンクールのジュニア部門で第1位を獲得。翌1967年の卒業後キーロフ劇場バレエ団に入団した。

キーロフでは初年度から『眠れる森の美女』の青い鳥、『ショピニアーナ』の青年などソロ役を踊り、身体能力、役柄の解釈、音楽性などあらゆる点で評価される。1969年モスクワ国際バレエコンクールで金賞受賞。このコンクール用に作られた『ヴェストリス』(L・ヤコプソン振付)はのちにキーロフのレパートリーに加えられ海外でも有名になった。1971年にはN・カサトキナ振付の喜劇 『天地創造』(A・ペトロフ作曲)の初演で主役のアダムを与えられた。このように新作を振付けられてはいたものの、全体としてキーロフ・バレエ団は覆っていたのは沈鬱と停滞の空気であった[3]1974年カナダ巡演の最中に失踪[4]米国に現れ政治亡命を申請した[5]

同年アメリカン・バレエ・シアター(ABT)にプリンシパルとして入団。これまでの鬱憤を晴らすかのように様々な役を踊り、中でも初めてのモダン・ダンス挑戦となったT・サープ振付の新作『プッシュ・カムズ・トゥ・ショヴ』(1976年)が注目を浴びた。振付と演出にも関わるようになり、バリシニコフ版 『くるみ割り人形』(1977年)、『ドン・キホーテ』(1978年)を作り、後者はのちに英国ロイヤル・バレエ団でも上演された[6]

1978年ニューヨーク・シティ・バレエ団に移籍。振付家のG・バランシンとの創作に期待をかけていたが、高齢のバランシンの健康がすぐれなかったためほとんど実現しなかった。1980年にABTにプリンシパル兼芸術監督として復帰し、以後10年にわたってABTを率いた。時折舞台に立ちつつ芸術監督として古典の再演出に取り組んだが、その評価はまちまち。新作としてK・マクミラン振付『レクイエム』(A・L・ウェバー作曲)などを送り出したが、自ら手がけた新演出『白鳥の湖』は莫大な費用をかけた末に失敗に終わった。

1989年のABT退団[7]後は専らポスト・モダンダンスに取り組み、1990年から2002年までホワイト・オーク・ダンス・プロジェクトの芸術監督を務めた。

女優ジェシカ・ラングとの間に娘アレクサンドラを、元バレリーナのL・ラインハートとの間に一男二女をもうけている。

動画[編集]

映画出演[編集]

バレエのほかブロードウェイ、映画、TVにも出演している。1977年には映画『愛と喝采の日々』でオスカーにノミネートされた。ヒット作となったTVシリーズの『セックス・アンド・ザ・シティ』では、元ABT研究生のサラ・ジェシカ・パーカーが演じる主人公キャリーの恋人役で出演した。

脚注[編集]

  1. ^ Biography - Mikhail Baryshnikov, TCM
  2. ^ 12歳のときにこの母親は自殺した。父親はすぐに再婚したがバリシニコフは新しい家庭になじめなかった。ワガノワ・バレエ学校に入校後、父親とは絶縁状態になった。cf. "Михаил Барышников", Кто Есть Кто, Международный Объединенный Биографический Центр.
  3. ^ ローラン・プティがバリシニコフのために無償で作品を提供することを申し出たところ、キーロフ側が拒否したことがあったという。cf. ibid,
    なお1970年には同じキーロフの先輩であったナタリア・マカロワがロンドン公演中に亡命している。このときバリシニコフは「僕のことばかり監視していたけれど、去ったのはマカロワの方だったね」と笑いながら話していたという。N・カサトキナ談。Известия on line, 2004
  4. ^ 『ボリショイのスターたち』と題したボリショイ・バレエ団主体のガラ公演。そのトロント公演が終わるや否や、待ち受けていた車に乗り込んで姿を消した。cf. "Mikhail Baryshnikov defects from the Soviet Union," CBC degital archives
  5. ^ 仮にバリシニコフが亡命せずソ連に留まっていたらどうなったか?との問いに対し、親友のI・ブロトスキーは、「飲んだくれになっていただろう」と答えたという。 cf. "Михаил Барышников", op. cit.,
  6. ^ ただし『ドン・キホーテ』はキーロフのA・ゴールスキー版を下敷きにしたもので、完全なオリジナルではない。Greskovic, Robert, "Mikhail Baryshnikov", International Encyclopedia of Dance, vol.4, p.372, ISBN 0-19-517585-9
  7. ^ 『白鳥の湖』で費用を使いすぎ、経営陣との間に軋轢が生じた。"2 Directors Succeed Baryshnikov at Ballet Theater", The New York Times, 9 March 1990

外部サイト[編集]