フラガ
| 州 | アラゴン州 |
|---|---|
| 県 | ウエスカ県 |
| 面積 | 437.64km² |
| 標高 | 118m |
| 人口 | 14,302人(2009年) |
| 人口密度 | 32.67人/km² |
| 住民の呼称 | Fragatino, -na, Fraguense |
北緯42度31分0秒 西経0度20分 / 北緯42.51667度 西経0.333度{{#coordinates:}} 関数に無効な引数が渡されました |
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フラガ (スペイン語およびカタルーニャ語Fraga)は、スペイン、アラゴン州、ウエスカ県の自治体(ムニシピオ)。カタルーニャのナショナリストの一部は、フラガをラ・フランハ地方(アラゴン州の東端の狭く南北に細長い地域の名称。カタルーニャ語話者が9割を占めている)の中心とみなしている。
目次 |
地理 [編集]
ムニシピオは、シンカ谷という灌漑された相対的に湿気の多い地域にある。高地の一部にはステップが見られる。
ムニシピオ内は、12世紀以降つくられたフラガ地区とフラガ・ラ・ビエハ地区(旧市街)とに分かれ、間に川が流れ橋でつながっている。その他の郊外地区として、ミラルソト地区とリテラ地区があり、工業団地がある。
大陸性の特徴を持つ地中海性気候である。年間平均気温は14.7℃、年間平均降水量は387mm(特に春と秋)。
交通 [編集]
サラゴサ=バルセロナ間をつなぐ主要道A2が通っている。トルトーザ、ビナロス方面を行けばバレンシアへ、ウエスカ方面の道路を利用すればピレネー山脈を経由してフランス、ナバーラ州、バスク州へ行くことが可能である。道路網の充実とは対照的に、フラガには鉄道駅がない。約25kmしか離れていないリェイダへ行けば、マドリード=サラゴサ=バルセロナ区間を走るAVEが利用できる。
歴史 [編集]
イベリア人が定住したのは紀元前4世紀頃である。ポエニ戦争ではカルタゴと同盟してローマと戦ったが、紀元前205年にローマに占領され、以後ローマ化された。ローマ時代は、リェイダとともに、ヒスパニア・タラコネンシスに属するカエサラウグスタ行政区にあった。ムニシピオ内には現在ローマ遺跡はないが、数キロ離れた場所には2世紀のヴィッラ跡がある。この頃には地域の中心であったとされ、小さな集落にはアラゴン有数の美しさとされるローマ時代のモザイクが残る。イルカに乗る子供が描かれたこのモザイクは、現在サラゴサ博物館にある。このモザイクのある建物は、西ゴート王国時代までバシリカとして使用されていた。
アラブ支配時代、灌漑が整備され谷と周辺は緑化された。その富は有名であった。同時代のアラブ人文筆家Kitab ar-Rawd al-Mitarは、『オリーブの木が並ぶ川のほとりのフラガは、城壁でよく守られた町である。』と記した。
1010年、コルドバの太守国が滅亡すると、以後はサラゴサのタイファ支配下に入った。11世紀になると、アラゴン王サンチョ・ラミレスやペドロ1世がフラガ近郊へ迫った。1089年にモンソンがレコンキスタで陥落した。当時のフラガは、対キリスト教徒の抵抗拠点であった。
1149年10月24日、フラガはキリスト教国軍に降伏した。バルセロナ伯ラモン・ベレンゲー4世はイスラム教徒のフラガ残留と、彼らがイスラム法で自治体を営むことを許可した。
中世、フラガがアラゴン王国とカタルーニャのどちらに属していたかは明らかでない。フラガはリェイダ司教区に属してきたが、アラゴン、カタルーニャ双方の百科事典ではどちらもフラガが自分の地域に入ると主張している。1707年にフェリペ5世が公布した新国家基本法では、フラガはアラゴン王国に属すると明記している。
レコンキスタ後のフラガは、イスラム教徒、ユダヤ人、キリスト教徒が暮らす文化と信仰のモザイクの地となった。テンプル騎士団がフラガ城を所有し、広大な荘園を持っていた。1384年、1460年の2度、コルテスが開催されている。1391年には市場を開く特権が授けられた。
1610年、モリスコ追放でフラガ経済は大打撃を受けた。800年あまり住民の主流であったイスラム教徒が国外追放されたのである。この追放と平行して、カトリックの修道会が次々とフラガへやってきた。
収穫人戦争中、フェリペ4世はフラガに一時滞在した。この遠征ではディエゴ・ベラスケスが同行し、フラガでの王の肖像画を描いている。
都市に昇格したのは1709年、フェリペ5世によってであった。
スペイン継承戦争、スペイン独立戦争、スペイン内戦でフラガは搾取され続けた。特にスペイン内戦では、共産主義とアナーキスムを掲げるCNT(en)とFAIの人民委員会がフラガを支配し、委員会は通貨を廃止して全ての私有財産と土地を没収した。