バーレーン国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
バーレーン国
دولة البحرين
:en:History of Bahrain (1783–1971) 1971 - 2002 バーレーン
バーレーンの国旗 バーレーンの国章
国旗国章
国歌: 我等のバーレーン
バーレーンの位置
バーレーンの位置
公用語 アラビア語
首都 マナーマ
首長
1971年8月16日 - 1999年3月6日 イーサ・ビン・サルマーン・アール・ハリーファ
1999年3月6日 - 2002年2月14日ハマド・ビン・イーサ・アール・ハリーファ
首相
1971年8月15日 - 2020年11月11日ハリーファ・ビン・サルマーン・アール・ハリーファ
面積
現在758km²
人口
1971年216,078人
2001年650,604人
変遷
イギリスより独立 1971年8月15日
立憲君主制に移行2002年2月14日
通貨バーレーン・ディナール
時間帯UTC +3(DST: 無し)
ccTLD.bh
国際電話番号973
現在バーレーンの旗 バーレーン

バーレーン国(バーレーンこく、アラビア語: دولة البحرينDawlat al-Baḥrayn)は、1971年から2002年までのバーレーン国名及び政体である。

バーレーンは1971年にイギリス植民地から首長国として独立し、2002年に立憲君主制王国に移行した。

概要[編集]

バーレーンは長年イギリスの植民地であったが、1971年8月15日に独立した。当初は周辺の首長国と共にアラブ首長国連邦を結成する予定であったが、バーレーンは単独独立を選び、首長国連邦には加わらなかった[1]

独立後もアメリカイギリスなどと友好関係を維持し、湾岸戦争では多国籍軍の一員としてイラクと交戦した[2]。なお、この時バーレーンに多国籍軍の司令部が置かれた。

典型的なレンティア国家であり、王族ハリーファ家による絶対君主制の下で石油輸出が進められ、飛躍的な経済発展が成し遂げられたが、絶対君主制に対する国民不満が増大。2001年民主化運動が起こり、翌2002年2月14日議会が開設されて立憲君主制に移行して現在のバーレーン王国となった[3]

脚注[編集]

  1. ^ バーレーン概観”. 在バーレーン日本国大使館 (2022年1月9日). 2022年1月19日閲覧。
  2. ^ バーレーンとは”. コトバンク. 2022年1月19日閲覧。
  3. ^ バーレーン”. 世界史の窓. 2022年1月19日閲覧。