スティーブン・デランシー

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スティーブン・デランシーと妻のアン・ヴァン・コートランド

スティーブン・デランシー(Stephen Delancey, 1663年10月24日 - 1741年11月18日)は、ニューヨーク植民地の主要人物。彼の子供は、アメリカ合衆国の独立まで大きな影響力を振い続けた。

背景[編集]

デ・ランシー家の紋章

1663年10月24日[1]フランスカーンでジャック・ド・ランシーとマルグリット・ベルトランの一人息子エティエンヌ・ド・ランシー(Etienne de Lancy)として生まれた。ド・ランシー家はフランスの小貴族(Noblesse de France Royale)で、ユグノー信仰にもかかわらず、200年以上も行政官や官僚などを務めた。

ジャック・ド・ランシーは、ラヴァル子爵およびヌヴィオン子爵ギー・ド・ランシー(1432年生)の子孫で、その息子ジャンが1436年に後を継ぎ、息子もまたジャン(1470年生)である。ジャンの息子シャルル(1525年生)は2度結婚した。2度目の結婚でマリー・ド・ヴィリエと結婚し、2人の息子をもうけた。第5代ラヴァル子爵シャルル(1535年生)とラレー領主クリストフである。シャルルはブロー領主フルシー・ブランシュの娘イザボー・ブランシュと1534年4月15日に結婚した。3人の息子がいた。シャルル、ジャック、クロードである。次男のジャックの息子にはニヴィユ領主ピエールがおり、その息子がエティエンヌの父ジャックである。ランシー家にはアメリカ・ニューヨークの分家もあったが、エドゥアール・フロイド・ド・ランシーが1885年に家長として、その名を冠しただけだった。その他の分家は男系が絶えた[2]。エティエンヌの孫に始まるバハマの分家もある。バハマの裁判長を務めたスティーブンは、デランシーまたはデラニーと称していた。

15世紀初頭にさかのぼると、ランシー家(古書では de Lanci とも)の当主は代々ラヴァル子爵、ヌヴィオン子爵、ラレー男爵, ネリー領主、ファヴロレー領主、ヴリネー領主、リブクール領主、アラモン領主を継いできた。

家紋には、以下のように記されている。

Armes : d'or à l'aigle de sable becqué et membré de gueules chargé en coeur d'un écusson d'azur surchargé de trois lances d'or posées en pal.
ピカルディ地域圏のラレー城

1600年頃、ラレーの土地は王の顧問、戦争の正規出納官、オルレアン公ガストンの家令ニコラ・ド・ランシーに売却された。彼は現在城を建築し、狩猟犬と2つの編み垣を造り、城の評判と名誉となった。ラレー城は1946年のジャン・コクトー監督の映画『美女と野獣』の撮影場所となった。

1686年、ルイ14世によるフォンテーヌブローの勅令によって、20万のユグノーがカトリック教徒から厳しい迫害を受け、故国を離れることになった。最初に母から貰った[3]家族の宝石の一部を衣服に縫い付け、ロッテルダムに逃亡し、さらにイングランドに渡航、1686年3月3日に ジェームズ2世による "Act of Denization" により帰化した。

ニューヨーク[編集]

その後すぐに、北アメリカのイングランド植民地に渡航、1686年6月6日にニューヨークに上陸した。約1ヶ月後の7月7日、総督ドンガンから国籍を付与する追加書簡を受け取り、1687年9月9日には Colonial Act of 1683 の元、国王忠誠宣誓をした。 この時に名前を Stephen Delancey. と英語化した。持ち込んだ宝石の一部を300スターリング・ポンドで売却し、商人となった[3]

1700年1月23日、アン・ヴァン・コートランドと結婚した。1700年夏に、ニューヨーク市の54 Pearl Street(妻の父から結婚祝いでもらった土地)に新宅の建設を開始した。1762年にこの家は、相続人から競売によりサミュエル・フランシスに渡り、Queen Charlotte Tavern(現在のフランシス・タバーン)へと変貌を遂げた。

Delancey and Co. として知られる有名な穀倉、倉庫、小売店など、ニューヨーク植民地の中で最も成功した商人の一人となった。アン女王戦争中、紅海海賊との貿易に従事する彼に対して、フランス人に対する marque の文字が表紙を務めた。1730年代までには、ちょうどトリニティ教会より高い大邸宅をブロードウェイに建築するほど、豊かな商人になっていた。この邸宅は最終的に1792年に City Hotel の建築のために取り壊され、その土地は現在 Boreil Building が建っている。

デランシーは数年間にわたり市会議員を務め[1]都市生活の中で積極的な役割を果たし、ニューヨーク州議会と知事会のメンバーも務めた。[1]、市で最初の時計台と消防車を贈ったと言われている。1741年11月18日に死亡した時点で、10万スターリング・ポンド(現在の米ドルで約1800万)を超える価値の不動産を残した。

家族[編集]

1700年1月23日、ステファヌス・ヴァン・コートランドの3子アン・ヴァン・コートランドと結婚し、10人の子供がいたが、5人は夭折した。 3人の息子(ジェームズ・デランシー英語版(1703年 - 1760年)、ピーター・デランシー(1705年 – 1770年)、オリヴァー・デ・ランシー英語版)と2人の娘(スザンナ、アン))であった。

ジェームズはニューヨーク州副知事英語版などを務めた。ピーターは商人となり、ブロンクス区に大工場を持ち、何年間もニューヨーク州議会に務めた。オリバーも商人で、アメリカ合衆国の独立の際にはイギリス陸軍准将を務めた。

スザンナ・デランシー(1707年 – 1771年)はピーター・ウォーレン英語版と、アン・デランシー(1713年 - ?)は著名な実業家ジョン・ワッツと結婚した。

脚注[編集]

  1. ^ a b c Kenneth T. Jackson: The Encyclopedia of New York City: The New York Historical Society; Yale University Press; 1995. P. 324.
  2. ^ History of Huguenot emigration to America,1885,Charles Washington Baird
  3. ^ a b Wikisource-logo.svg “[[wikisource:Appletons' Cyclopædia of American Biography/{{{1}}}|{{{1}}}]]”. Appletons' Cyclopædia of American Biography. (1900). 

参考文献[編集]

  • D.A. Story, The de Lancey's: Romance of a Great Family, Toronto: Nelson & Sons, 1931.
  • George Lockhart Rives: Genealogical Notes (New York: Knickerbocker, 1914).