スティーブン・デランシー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
スティーブン・デランシーと妻のアン・ヴァン・コートランド

スティーブン・デランシー (Stephen Delancey、フランス語ではEtienne de Lancy) (1663年10月24日 - 1741年11月18日)は植民地時代のニューヨーク州主要人物。彼の子供は、アメリカ合衆国の独立まで大きな影響力を振い続けた。

背景[編集]

デ・ランシー家の紋章

1663年10月24日[1]フランスカーンでジャック・ド・ランシーとマルグリット・ベルトランの一人息子Etienne de Lancyとして生まれた。ド・ランシー家はフランスの小貴族("Noblesse de France Royale")で、ユグノー信仰にもかかわらず、200年以上も行政官や官僚などを務めた。

ジャック・ド・ランシーは、LavalとNouvion子爵(1432)ガイ・デ・ランシーの子孫で、その息子ジャンが1436年に後を継ぎ、息子もまたジャン(1470)である。ジャンの息子チャールズ(1525)は二度結婚した。二度目の結婚では、マリー・ドゥビリエと結婚し、2人の息子がいた。第5代Laval子爵(1535)チャールズとlord of Rarayクリストフ(クリストファー)である。チャールズはlord of BréauのFourcy・ブランシェの娘Isabeau・ブランシェと1534年4月15日に結婚した。3人の息子がいた。チャールズ、ジャック、クロードである。次男のジャック, Crown prosecutor in the provost, には息子lord of Nivilleピエールがおり、その息子がエティエンヌの父ジャックである。デランシー家のアメリカニューヨークの分家もあったが、エドワード・フロイド・デ・ランシーが1885年に家長として、その名を冠しただけだった。その他の分家は男系が絶えた。[2]エティエンヌの孫からバハマ分家もある。スティーブンはバハマの裁判長として、 デランシーまたはデラニーとして行っていた。

15世紀初頭にさかのぼると、デ・ランシー家(古書ではde Lanciとも)の当主は代々Laval-in-Laonnois and of Nouvion子爵、Raray男爵, Lord of Nery and of Faverolles, Verines, Ribecourt and Haramontを受け継いできた。 (子爵 de Laval-en-Laonnois英語版 et de Nouvion-le-Vineux英語版, 男爵 de Raray英語版, et 封建領主 de Néry英語版 et de Faverolles, Aisne英語版, Néry英語版,[3] Ribécourt-Dreslincourt英語版, et Haramont英語版)

家紋は、以下のように記述されている: Arms: Or with Sable Eagle beaked and membered of Gules charged in the heart of an escutcheon of Azure overloaded with three spears of Or raised in pale. (Armes : d'or à l'aigle de sable becqué et membré de gueules chargé en coeur d'un écusson d'azur surchargé de trois lances d'or posées en pal.)

1600年頃、Rarayの土地は王の顧問、戦争の正規出納官、 Chamberlain of ガストンニコラ・ド・ランシーに売却された。彼は現在城を建築し、狩猟犬と2つのhurdlesを造り、城の評判と名誉となった。Raray城は1945年のジャン・コクトーの映画美女と野獣の撮影場所となった。

1686年、ルイ14世による20万のユグノーが故国を離れることになったフォンテーヌブローの勅令(1685年10月18日)によって、カトリック教徒から厳しい迫害をうけることになった。最初に母から貰った[4]家族の宝石の一部を衣服に縫い付け、ロッテルダムに逃亡し、さらにイングランドに渡航、1686年3月3日に ジェームズ2世による"Act of Denization"により、帰化した。

ニューヨーク[編集]

その後すぐに、北アメリカのイングランド植民地に渡航、 1686年6月6日にニューヨークに上陸した。約1ヶ月後(7月7日)、ドンガン知事から国籍を付与する追加書簡を受け取り、 1687年9月9日には、Colonial Act of 1683の元、国王忠誠宣誓をした。 この時に名前をStephen Delancey.と英語化した。持ち込んだ宝石の一部を300スターリング・ポンドで売却し、商人となった。[4]

1700年1月23日、アン・ヴァン・コートランドと結婚した。1700年の夏に、ニューヨーク市の54 Pearl Street(妻の父から結婚祝いでもらった土地)に新宅の建設を開始した。1762年にこの家は、相続人から競売によりサミュエル・フランシスに渡り、Queen Charlotte Tavern.(現在のフランシス・タバーン.)へと変貌を遂げた。

"Delancey and Co."として知られる有名な穀倉、倉庫、小売店など、ニューヨーク植民地の中で最も成功した商人の1人となった。アン女王戦争中、紅海海賊との貿易に従事する彼に対して、フランス人に対するmarqueの文字が表紙を務めた。1730年代までには、ちょうどトリニティ教会 より高い大邸宅をブロードウェイに建築するほど、豊かな商人になっていた。この邸宅は最終的に1792年にCity Hotelの建築のために取り壊され、その土地は現在Boreil Buildingが建っている。

数年前間に渡り、市会議員を務めるなど、[1]都市生活の中で積極的な役割を果たし、ニューヨーク州議会と知事会のメンバーも務めた。[1]また、市で最初の時計台と消防車を贈ったと言われてる。1741年11月18日に死亡する時点で、10万スターリング・ポンド(現在のアメリカ合衆国ドルで約1800万)を超える価値の不動産を残した。

家族[編集]

1700年1月23日、ステファヌス・ヴァン・コートランドの三子アン・ヴァン・コートランドと結婚し、10人の子供がいたが、5人は夭折した。 3人の息子(ジェームズ・デランシー英語版(1703–1760)、ピーター(1705–1770)、オリバー・デ・デランシー (American loyalist)英語版)と2人の娘(スザンナ、アン)であった。

ジェームズはニューヨーク州副知事英語版などを務めた。ピーターは商人となり、ブロンクス区に大工場を持ち、何年間もニューヨーク州議会に務めた。オリバーも商人で、アメリカ合衆国の独立の際にはイギリス陸軍准将を務めた。

スザンナ・デランシー(1707年–1771年)はピーター・ウォーレン (admiral)英語版と、アン・デランシー(1713年-?)は著名な実業家ジョン・ワッツと結婚した。

脚注[編集]

  1. ^ a b c Kenneth T. Jackson: The Encyclopedia of New York City: The New York Historical Society; Yale University Press; 1995. P. 324.
  2. ^ History of Huguenot emigration to America,1885,Charles Washington Baird
  3. ^ http://charlesfevre.perso.sfr.fr/genealogie/page_nery.htm
  4. ^ a b Wikisource-logo.svg “[[wikisource:Appletons' Cyclopædia of American Biography/{{{1}}}|{{{1}}}]]”. Appletons' Cyclopædia of American Biography. (1900). 

参考文献[編集]

  • D.A. Story, The de Lancey's: Romance of a Great Family, Toronto: Nelson & Sons, 1931.
  • George Lockhart Rives: Genealogical Notes (New York: Knickerbocker, 1914).