ジョージ・マチューナス

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索

ジョージ・マチューナス(George Maciunas、1931年11月8日 - 1978年5月9日)はアメリカ現代美術家フルクサスの創始者として知られる。リトアニア語名、ユルギス・マチューナス(Jurgis Mačiūnas)。

日本語では「マチュナス」「マチウナス」と表記されることがある。

人物[編集]

1931年リトアニアカウナスで、リトアニア人の父とロシア人の母の間に生まれた。旧ソ連の侵攻を逃れて、ドイツを経てアメリカに移住。

1949年1952年クーパー・ユニオンで美術、グラフィック・アート、建築を学ぶ。

1952年1954年カーネギーメロン大学で建築と音楽を学ぶ。

1954年1960年ニューヨーク大学でヨーロッパとシベリア移民の美術を学ぶ。

学校で学ぶ間に、過去のあらゆる芸術様式や芸術運動、各学派、芸術家などをまとめた複雑なチャート(未完)を数多く作っている。

1950年代後半の世界的な前衛アートやイヴェントの潮流に共感したマチューナスは、1961年、マディソン・アヴェニューに「AGギャラリー」を設立し、ラ・モンテ・ヤングジャクソン・マクロウなどの作品を上演し始める。しかし、同年秋に経営が破綻し、債権者から逃れるために西ドイツに渡る。アメリカ空軍のデザイナーという職を得て、生活が安定し始めると、また芸術活動のプロデュース活動に舞い戻った。

1962年6月、ヴッパータールベン・パターソンディック・ヒギンズらとともに「小さな夏/ジョン・ケージ以降」というイヴェントを行い、翌7月にはパリの複数の場所で、後にメンバーとなる十数人の作品が上映された。これらの内容は紛れもなく後に続いていくフルクサス・コンサートそのものであった。

1962年9月、ヴィースバーデン市立美術館で「フルクサス国際現代音楽祭」(全4回)を企画、制作した。「フルクサス」という言葉は、彼が編集していた二番目のアンソロジーのタイトルとして考えられたもので、その宣伝のためにこの名前を大々的に用いた。フルクサスとは、ラテン語で「流れる、変化する、下剤をかける」などの意味を持つ。

「フルクサス国際現代音楽祭」は大きな反響を呼び、デンマークイギリスフランスドイツオランダの各都市を巡回。同調した現代美術家を巻き込みながら、「フルクサス」は育っていった。

その最中の1963年2月に、フルクサスのマニフェストを書き上げ、フルクサスを共同体としてまとめようとするが、反芸術主義的、全体主義的、社会的、政治的な内容のため、誰もサインする事はなかった。全てのコンサートが終了した後、マチューナスはニューヨークのキャナル・ストリートに居を構え、フルクサスの名簿の作成、コンサートの企画・運営、新聞の作成などを行い、フルクサスメンバーの作品を様々な形態(「フルックス・キット」など)で販売するなど、フルクサスを芸術グループとして組織していった。また、世界をいくつかの区分に分け、それぞれの区分に統括責任者を置き、自らはニューヨーク本部のチェアマンとして君臨した。

1960年代後半にマチューナスは方向転換し、独裁主義的な部分を泣く泣く削り、自らの建築の腕前を生かした「現実的な共同体」を模索した。まず最初に手をつけたのは「ロフトを改造し、内装を整え、芸術家に廉価で売る」という事業で、これは「フルックス・ハウジング・コーポレイティヴ」と呼ばれ、のちに「ソーホー」が芸術家の街に変貌するきっかけを作った。しかし、1976年に、工事を請け負っていた業者とトラブルを起こして襲撃され、片目を失明、片方の肺を失う。

フルクサス・アーティストの励ましでどうにか再起し、1977年夏、マサチューセッツに農場を買い、そこをアーティストの共同生活の場所にしようと考えていたが、体調が悪化し、1978年2月、数ヶ月仕事を手伝っていた女性と死を直前に結婚。1978年5月9日ボストンの病院で膵臓癌で死去した。