シェイクスピア・アンド・カンパニー書店

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シェイクスピア・アンド・カンパニー書店外観。2004年

シェイクスピア・アンド・カンパニー書店( - しょてん)は、パリ5区セーヌ川左岸にある書店。本の販売だけでなく、1万冊の蔵書を持つ英語文学専門の図書室も併設している(閲覧のみ)。この書店はまた無一文の若い書き手に宿を貸すことで知られており、「タンブル・ウィード」の愛称で呼ばれるこれらの若者は毎日数時間、店の手伝いをすることで食い扶持を得ている。現在の書店は、第二次世界大戦期まで存在した店の名を襲名した二代目に当たる。

初代「シェイクスピア・アンド・カンパニー」[編集]

初代のシェクスピア・アンド・カンパニーは、ニュージャージーから移住してきたアメリカ人女性シルヴィア・ビーチによって1919年に開かれた[1]。場所は当初はデュプイトラン通り8番地で、1921年5月にオデオン通り12番地に移り、以後1941年の閉店までこの場所にあった。この店は書店であると同時に貸し出しの可能な図書室としても機能しており[2]、扱われる書物はビーチ自身の鑑賞眼を反映した洗練されたものであった。

シルヴィア・ビーチが店主を務めた初代シェイクスピア・アンド・カンパニーは第二次大戦期まで、パリにおけるアングロ・アメリカン文学とモダニズム文学の中心地であり、アーネスト・ヘミングウェイエズラ・パウンドスコット・フィッツジェラルドガートルード・スタインジョージ・アンタイルマン・レイ、そしてジェイムズ・ジョイスなどがこの書店で多くの時を過ごした。シェイクスピア・アンド・カンパニーは、ヘミングウェイの『移動祝祭日』で店の常連たちとともに繰り返し言及されている。この店の愛顧者は、D.H.ロレンスの『チャタレイ夫人の恋人』のように英米で発禁になった書物も手に入れることができた。

シルヴィア・ビーチのシェイクスピア・アンド・カンパニーは1922年、アメリカ合衆国とイギリスで発禁処分を受けていたジョイスの『ユリシーズ』の最初の出版元となり、以降の『ユリシーズ』の続刊は「シェイクスピア・アンド・カンパニー」のインプリントの元に出版された[3]

オデオン通りのシェイクスピア・アンド・カンパニーは1941年12月、第二次世界大戦中の枢軸国によるフランス占領のために閉店した。伝えられるところでは、ドイツ人士官にジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』の残された原稿を渡すことを命じられ、これを拒否したために閉店を命じられたのだという。オデオン通りにあったこの店は以降二度と再開することはなかった。

二代目「シェイクスピア・アンド・カンパニー」[編集]

1951年、アメリカ人のジョージ・ウィットマンによって、もう一つの英語書籍の専門店がまず「レ・ミストラル」という店名で開かれた。初代の「シェイクスピア・アンド・カンパニー」と同様に、この店もまたパリ左岸のボヘミアンたちの文学活動の中心地となり、1950年代にはアレン・ギンスバーググレゴリー・コルソウィリアム・バロウズといったビート・ジェネレーションの作家たちの拠点となった。1962年のシルヴィア・ビーチの死に際して、この店は「シェイクスピア・アンド・カンパニー」を襲名した。店はサン・ミシェル広場ノートルダム寺院にほど近いビュシュリー通り37番地に位置しており、建物はもともと16世紀に修道院として建てられたものであった[4]

当時の店主ウィットマンは、この書店を「書店に見せかけた社会主義者のユートピア」と表現しており、常連の中にはヘンリー・ミラーなどもいた。この店にはまた13基のベッドを具えた宿泊施設があり、ウィットマンはこれまでに4万人もの人物がここで寝泊りしたと語っている[5]

現在はジョージ・ウィットマンの娘シルヴィア・ウィットマンが店を切り盛りしており、父に倣って若い作家へ仕事と生活場所を提供している[6]。店内では日曜の茶会や詩の朗読、作家の会合などが常時開かれているほか[7]、二年に一度文学フェスティバル「フェスティバルアンドシーオー(FestivalandCo)」を開催し、ポール・オースタージャネット・ウィンターソンユン・チアンマルジャン・サトラピなどの作家がそのホストを務めている[8]

シェイクスピア・アンド・カンパニー書店、店内風景

出典[編集]

脚注

関連文献[編集]

外部リンク[編集]

座標: 北緯48度51分09秒 東経2度20分49秒 / 北緯48.85250度 東経2.34694度 / 48.85250; 2.34694