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'''近藤 朔風'''(こんどう さくふう、[[1880年]]([[明治]]13年)[[2月14日]] - [[1915年]]([[大正]]4年)[[1月14日]])は、訳詞家。原詩に忠実、歌いい訳詞で、西欧歌曲市民の耳を開いた。泉に沿いて茂る菩提樹』・『なじかは知らねど心侘びて』・『わらべは見たり野中のばーらなどは、今も歌い継がれる。本名'''逸五郎'''。筆名には'''近藤あきら'''・'''羌村'''もあった。
'''近藤 朔風'''(こんどう さくふう、[[1880年]]([[明治]]13年)[[2月14日]]<ref name=":0">{{Citation|和書|title=近藤朔風とその訳詞曲再考|author=坂本麻実子|year=1997-03-21|url=https://doi.org/10.15099/00000469|publisher=富山大学教育学部|language=ja|doi=10.15099/00000469|access-date=2022-11-29}}</ref> - [[1915年]]([[大正]]4年)[[1月14日]]<ref name=":0" />)は、日本の訳詞家。原詩に忠実、かつ歌いやすい訳詞で、西欧歌曲の普及に貢献した。泉に沿いて茂る菩提樹」「なじかは知らねど心侘びて」「わらべは見たり野中のばーらなどは、今も歌い継がれる。本名'''逸五郎'''。筆名には'''近藤あきら'''・'''羌村'''もあった。


== 生涯 ==
== 生涯 ==
[[桜井勉]]・八重子の第5子として、東京に生まれた<ref>「坂本麻実子:『近藤朔風とその訳詞曲再考』」のp.3</ref>。桜井家は、[[但馬国]][[出石藩]](現・[[兵庫県]][[豊岡市]][[出石町]])の藩儒の家系で、[[明治維新]]後上京した勉は、逸五郎誕生のときには[[内務省 (日本)|内務省]]山林局長を務め、東京在住の出石出身者の中心的な人物だった。叔父(勉の実弟)に、教育家[[木村熊二]]がいた。
[[桜井勉]]・八重子の第5子として、東京に生まれた<ref name=":0" />。桜井家は、[[但馬国]][[出石藩]](現・[[兵庫県]][[豊岡市]][[出石町]])の藩儒の家系で、[[明治維新]]後上京した勉は、逸五郎誕生のときには[[内務省 (日本)|内務省]]山林局長を務め、東京在住の出石出身者の中心的な人物だった<ref name=":0" />。叔父(勉の実弟)に、教育家[[木村熊二]]がいた。


1893年(明治26年)(13歳)、逸五郎は父方母方両方の叔父に当たる近藤軌四郎の養子に入った。1895年[[文京区立誠之小学校|誠之小学校]]から[[郁文館中学校|尋常中学郁文館]]へ進み、1900年に卒業した。その頃から西洋音楽を好み、1901年[[東京音楽学校 (旧制)|東京音楽学校]]の専科生となり、1902年から[[東京外国語学校 (旧制)|東京外国語学校]]伊語学科にも在籍した。1903年東京音楽学校が日本初のオペラ、[[グルック]]の[[オルフェオとエウリディーチェ|オルフェウス]]を上演したときには、[[石倉小三郎]]らと訳詞を担当した。
1893年、逸五郎は父方母方両方の叔父に当たる近藤軌四郎の養子に入った<ref name=":0" />。1895年[[文京区立誠之小学校|誠之小学校]]から[[郁文館中学校|尋常中学郁文館]]へ進み<ref name=":0" />、1900年に卒業した<ref name=":0" />中学校在学時から西洋音楽を好み<ref name=":0" />、1901年[[東京音楽学校 (旧制)|東京音楽学校]]科生となり<ref name=":0" />、1902年から[[東京外国語学校 (旧制)|東京外国語学校]]伊語学科にも在籍した<ref name=":0" />。1903年東京音楽学校が日本初のオペラ、[[グルック]]の[[オルフェオとエウリディーチェ|オルフェウス]]を上演したときには、[[石倉小三郎]]らと訳詞を担当した<ref name=":0" />


オルフェウス上演後、東京音楽学校・東京外国語学校から離れ、雑誌への寄稿を始めた。[[西洋音楽]]の手引きのほか[[リヒャルト・ワーグナー]]の紹介記事も書いた。1905年4月から音楽誌の編集主任となり、初の訳詞[[シャルル・グノー|グノー]]のセレナアデ同誌に載せた。
オルフェウス上演後、東京音楽学校・東京外国語学校から離れ、雑誌への寄稿を始めた<ref name=":0" />。[[西洋音楽]]の手引きのほか[[リヒャルト・ワーグナー]]の紹介記事も書いた<ref name=":0" />。1905年4月から音楽誌の編集主任となり<ref name=":0" />自身初の訳詞である[[シャルル・グノー|グノー]]のセレナアデ「近藤あきら」名義で発表し<ref name=":0" />。同時期、「白百合」で日本民謡の収集紹介も発表している<ref name=":0" />


1906年、日下部千穂と結婚した<ref name=":0" />。1907年頃から近藤朔風の筆名で、本格的に原詩に忠実な訳詞作りに励んだ<ref name=":0" />。訳詞は47編確認されているが、訳業による収入は十分でなく、役所勤めもしたと言う<ref name=":0" />役所勤務の実態の詳細は明らかでない<ref name=":0" />
1906年(明治39年)(26歳)、日下部千穂と結婚した。この頃、日本民謡の紹介もした。


元来酒好きで、1915年の年明けに倒れて[[順天堂病院]]に入院し<ref name=":0" />、[[面疔]]と[[肝臓]]炎のために没した<ref name=":0" />享年36歳。墓は、谷中霊園甲11号1側、桜井家墓域にある。
1907年頃から、『近藤朔風の筆名で、原詩に忠実な訳詞作りに励んだ。訳詞は47編確認されているが、訳業による収入は十分でなく、役所勤めもしたと言う。詳細は明らかでない。

酒好きで、1915年の年明けに倒れて[[順天堂病院]]に入院し、[[面疔]]と[[肝臓]]炎のために没した。35歳。墓は、谷中霊園甲11号1側、桜井家墓域にある。[http://www17.ocn.ne.jp/~ya-na-ka/kondouSakufu.htm]


== 主な訳詞 ==
== 主な訳詞 ==
訳詞は先ず雑誌に発表し、それから訳詞集に纏めたと言う。次第[[#出典|出典]]坂本麻実子の論文に詳。以下によくられる分をおよその年代順に抄し、次項に出版の表題だけを掲げる。
朔風は、訳詞をまず雑誌に発表した後、訳詞集に纏めたと言う<ref name=":0" />「菩提樹」「野ばら」「ローレライ」「シューベルト子守歌」などの訳詞名訳とされる<ref>{{Cite web |title=近藤朔風【こんどうさくふう】 {{!}} 但馬百科事典 |url=https://tanshin-kikin.jp/tajima/78 |access-date=2022-11-29 |language=ja |publisher=公益財団法人たんん地域振興基金}}</ref>。以下に、朔風が手がけた名度の高い訳詞およその年代順に掲げる。


*[[ユーゴー]]詩・グノー曲のセレナーデ
*[[ユーゴー]]詩・グノー曲のセレナーデ
*クラウディウス([[:en:Matthias Claudius|Matthias Claudius]])詩・[[フランツ・シューベルト|シューベルト]]曲のシューベルトの子守歌
*クラウディウス([[:en:Matthias Claudius|Matthias Claudius]])詩・[[フランツ・シューベルト|シューベルト]]曲のシューベルトの子守歌
*[[クリストフ・マルティン・ヴィーラント|ヴィーラント]]詩・[[カール・マリア・フォン・ウェーバー|ウェーバー]]曲のふなうた
*[[クリストフ・マルティン・ヴィーラント|ヴィーラント]]詩・[[カール・マリア・フォン・ウェーバー|ウェーバー]]曲のふなうた
*ゲレルト([[:en:Christian Fürchtegott Gellert|Gellert]])詩・[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]曲の神のみいつ
*ゲレルト([[:en:Christian Fürchtegott Gellert|Gellert]])詩・[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]曲の神のみいつ
*[[ハインリヒ・ハイネ|ハイネ]]詩・[[ロベルト・シューマン|シューマン]]曲のわすれな草
*[[ハインリヒ・ハイネ|ハイネ]]詩・[[ロベルト・シューマン|シューマン]]曲のわすれな草
*ハイネ詩・[[フランツ・リスト|リスト]]曲の花かそもなれ
*ハイネ詩・[[フランツ・リスト|リスト]]曲の花かそもなれ
*[[ラマルティーヌ]]詩・[[バンジャマン・ゴダール|ゴダール]]曲のジョスランの子守歌
*[[ラマルティーヌ]]詩・[[バンジャマン・ゴダール|ゴダール]]曲のジョスランの子守歌
*ガイベル([[:en:Emanuel Geibel|Emanuel Geibel]])詩・シューマン曲の流浪の民
*ガイベル([[:en:Emanuel Geibel|Emanuel Geibel]])詩・シューマン曲の流浪の民
*ハイネ詩・[[フリードリヒ・ジルヒャー|ジルヒャー]]曲の[[#ハイネのローレライ|ローレライ]]
*ハイネ詩・[[フリードリヒ・ジルヒャー|ジルヒャー]]曲の[[#ハイネのローレライ|ローレライ]]
*[[ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ|ゲーテ]]詩・[[フランツ・シューベルト|シューベルト]] & [[ハインリッヒ・ヴェルナー|ウェルナー]]曲の[[野ばら]]
*[[ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ|ゲーテ]]詩・[[フランツ・シューベルト|シューベルト]] & [[ハインリッヒ・ヴェルナー|ウェルナー]]曲の[[野ばら]]
*[[ポーランド]]民謡・[[フレデリック・ショパン|ショパン]]曲の乙女の願
*[[ポーランド]]民謡・[[フレデリック・ショパン|ショパン]]曲の乙女の願
*ミュラー([[:en:Wilhelm Müller|Wilhelm Müller]])詩・シューベルト曲の[[菩提樹 (シューベルト)|菩提樹]]
*ミュラー([[:en:Wilhelm Müller|Wilhelm Müller]])詩・シューベルト曲の[[菩提樹 (シューベルト)|菩提樹]]
*ハイネ詩・シューマン曲のはすの花
*ハイネ詩・シューマン曲のはすの花
*ライトン(W.T.Wrighton)曲のほととぎす、(ウーラント([[:en:Ludwig Uhland|Ludwig Uhland]])詩・シューマン曲の暗路の訳詞だったが、現在は、ライトンの旋律に乗せて歌われる。)
*ライトン(W.T.Wrighton)曲のほととぎす、(ウーラント([[:en:Ludwig Uhland|Ludwig Uhland]])詩・シューマン曲の暗路の訳詞だったが、現在は、ライトンの旋律に乗せて歌われる。)
*[[ジャン・ポール・マルティーニ|マルティーニ]]曲の愛の歓び
*[[ジャン・ポール・マルティーニ|マルティーニ]]曲の愛の歓び
*ベイリー([[:en:Thomas Haynes Bayly|Thomas Haynes Bayly]])曲の久しき昔(ロング・ロング・アゴー)
*ベイリー([[:en:Thomas Haynes Bayly|Thomas Haynes Bayly]])曲の久しき昔(ロング・ロング・アゴー)
朔風の訳詞曲は、西洋諸国の名曲を児童・生徒に紹介するため、1950年代から教科書に掲載された<ref name=":1">{{Citation|和書|title=音楽教育と近藤朔風の訳詞曲 : 没後100年に考える|author=坂本麻実子|year=2016-03-30|url=https://doi.org/10.15099/00015055|publisher=富山大学人間発達科学部|language=ja|doi=10.15099/00015055|access-date=2022-11-29}}</ref>。しかし、原語歌唱を重視する姿勢が強まった結果、今日ではドイツリートを学習する入り口の役割を担う程度の位置づけである<ref name=":1" />。


== 出版の記録 ==
== 出版 ==
*編著『歌劇オルフォイス』(翻訳台本)東文館(1903.7)
*編著『歌劇オルフォイス』(翻訳台本)東文館(1903.7)
*『独唱名曲集』如山堂書店(1907.6)(収録15篇中10篇が朔風の訳詞)
*『独唱名曲集』如山堂書店(1907.6)(収録15篇中10篇が朔風の訳詞)
*『つはもの』(独唱・合唱西欧名曲集 第3巻)如山堂書店(1907.8)(7篇)
*『つはもの』(独唱・合唱西欧名曲集 第3巻)如山堂書店(1907.8)(7篇)
*小松玉巌編『名曲新集』大倉書店(1908.9)(収録25篇中9篇が朔風の訳詞)
*小松玉巌編『名曲新集』大倉書店(1908.9)(収録25篇中9篇が朔風の訳詞)
*天谷秀と共編『女声唱歌』(三部合唱曲集)共益商社書店(1909.11)(収録25篇中14篇が朔風の訳詞)
*天谷秀と共編『女声唱歌』(三部合唱曲集)共益商社書店(1909.11)(収録25篇中14篇が朔風の訳詞)
*山本正夫と共編『西欧名曲集』(合唱曲集)音楽社(1911.4)(収録15篇中8篇が朔風の訳詞)
*山本正夫と共編『西欧名曲集』(合唱曲集)音楽社(1911.4)(収録15篇中8篇が朔風の訳詞)
*山本正夫と共編『西洋名曲叢書 第1集』(メンデルスゾーン号)楽界社(1915.3)(4篇)
*山本正夫と共編『西洋名曲叢書 第1集』(メンデルスゾーン号)楽界社(1915.3)(4篇)
*同上『第2集』(女声三部合唱集)(1915.4):(6篇)
*同上『第2集』(女声三部合唱集)(1915.4):(6篇)
*同上『第3集』(歌劇独唱曲号)(1915.5)(3篇)
*同上『第3集』(歌劇独唱曲号)(1915.5)(3篇)
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*同上『第9集』(芸術的歌曲号)(1915.11)(4篇)
*同上『第9集』(芸術的歌曲号)(1915.11)(4篇)
*同上『第10集』(近代作家歌曲号)(1915.12):(内容不明)
*同上『第10集』(近代作家歌曲号)(1915.12):(内容不明)

== 出典 ==
*[http://utomir.lib.u-toyama.ac.jp/dspace/bitstream/10110/2633/1/0719500002.pdf 坂本麻実子:『近藤朔風とその訳詞曲再考』]


== 脚注 ==
== 脚注 ==

2022年11月29日 (火) 03:05時点における版

近藤朔風

近藤 朔風(こんどう さくふう、1880年明治13年)2月14日[1] - 1915年大正4年)1月14日[1])は、日本の訳詞家。原詩に忠実、かつ歌いやすい訳詞で、西欧歌曲の普及に貢献した。「泉に沿いて茂る菩提樹」「なじかは知らねど心侘びて」「わらべは見たり野中のばーら」などは、今も歌い継がれる。本名逸五郎。筆名には近藤あきら羌村もあった。

生涯

桜井勉・八重子の第5子として、東京に生まれた[1]。桜井家は、但馬国出石藩(現・兵庫県豊岡市出石町)の藩儒の家系で、明治維新後上京した勉は、逸五郎誕生のときには内務省山林局長を務め、東京在住の出石出身者の中心的な人物だった[1]。叔父(勉の実弟)に、教育家木村熊二がいた。

1893年、逸五郎は父方母方両方の叔父に当たる近藤軌四郎の養子に入った[1]。1895年、誠之小学校から尋常中学郁文館へ進み[1]、1900年に卒業した[1]。中学校在学時から西洋音楽を好み[1]、1901年東京音楽学校選科生となり[1]、1902年から東京外国語学校伊語学科にも在籍した[1]。1903年東京音楽学校が日本初のオペラ、グルックオルフェウスを上演したときには、石倉小三郎らと訳詞を担当した[1]

オルフェウス上演後、東京音楽学校・東京外国語学校から離れ、雑誌への寄稿を始めた[1]西洋音楽の手引きのほか、リヒャルト・ワーグナーの紹介記事も書いた[1]。1905年4月から「音楽」誌の編集主任となり[1]、自身初の訳詞であるグノーの「セレナアデ」を「近藤あきら」名義で発表した[1]。同時期、「白百合」で日本民謡の収集紹介も発表している[1]

1906年、日下部千穂と結婚した[1]。1907年頃から「近藤朔風」の筆名で、本格的に原詩に忠実な訳詞作りに励んだ[1]。訳詞は47編確認されているが、訳業による収入は十分でなく、役所勤めもしたと言う[1]。役所勤務の実態の詳細は明らかでない[1]

元来酒好きで、1915年の年明けに倒れて順天堂病院に入院し[1]面疔肝臓炎のために没した[1]。享年36歳。墓は、谷中霊園甲11号1側、桜井家墓域にある。

主な訳詞

朔風は、訳詞をまず雑誌に発表した後、訳詞集に纏めたと言う[1]。「菩提樹」「野ばら」「ローレライ」「シューベルトの子守歌」などの訳詞は名訳とされる[2]。以下に、朔風が手がけた知名度の高い訳詞をおおよその年代順に掲げる。

朔風の訳詞曲は、西洋諸国の名曲を児童・生徒に紹介するため、1950年代から教科書に掲載された[3]。しかし、原語歌唱を重視する姿勢が強まった結果、今日ではドイツリートを学習する入り口の役割を担う程度の位置づけである[3]

出版物

  • 編著『歌劇オルフォイス』(翻訳台本)東文館(1903.7)
  • 『独唱名曲集』如山堂書店(1907.6)(収録15篇中10篇が朔風の訳詞)
  • 『つはもの』(独唱・合唱西欧名曲集 第3巻)如山堂書店(1907.8)(7篇)
  • 小松玉巌編『名曲新集』大倉書店(1908.9)(収録25篇中9篇が朔風の訳詞)
  • 天谷秀と共編『女声唱歌』(三部合唱曲集)共益商社書店(1909.11)(収録25篇中14篇が朔風の訳詞)
  • 山本正夫と共編『西欧名曲集』(合唱曲集)音楽社(1911.4)(収録15篇中8篇が朔風の訳詞)
  • 山本正夫と共編『西洋名曲叢書 第1集』(メンデルスゾーン号)楽界社(1915.3)(4篇)
  • 同上『第2集』(女声三部合唱集)(1915.4):(6篇)
  • 同上『第3集』(歌劇独唱曲号)(1915.5)(3篇)
  • 同上『第4集』(高名民謡号)(1915.6)(6篇)
  • 同上『第5集』(ベートーヴェン号)(1915.7)(3篇)
  • 同上『第6集』(シューベルト号)(1915.8)(3篇)
  • 同上『第7集』(シューマン号)(1915.9)(3篇)
  • 同上『第8集』(英国民謡号)(1915.10)(4篇)
  • 同上『第9集』(芸術的歌曲号)(1915.11)(4篇)
  • 同上『第10集』(近代作家歌曲号)(1915.12):(内容不明)

脚注

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w 坂本麻実子『近藤朔風とその訳詞曲再考』富山大学教育学部、1997年3月21日。doi:10.15099/00000469https://doi.org/10.15099/000004692022年11月29日閲覧 
  2. ^ 近藤朔風【こんどうさくふう】 | 但馬の百科事典”. 公益財団法人たんしん地域振興基金. 2022年11月29日閲覧。
  3. ^ a b 坂本麻実子『音楽教育と近藤朔風の訳詞曲 : 没後100年に考える』富山大学人間発達科学部、2016年3月30日。doi:10.15099/00015055https://doi.org/10.15099/000150552022年11月29日閲覧