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'''ドイツ系ロシア人'''は、[[ロシア]]国籍を持つ[[ドイツ人]]ないし[[ドイツ]]に民族的なルーツを持つ[[ロシア人]]の総称である。
'''ドイツ系ロシア人'''とは、[[ロシア人]]と認められている[[人民]]のなかで、そのルーツをドイツ系民族に認められる人々の総称である。彼らが祖国[[ドイツ]]を離れ、[[ロシア]]に渡来し、ロシア人となった例は数多く存在し、彼らは、今でもロシアやその周辺([[フィンランド]]、[[エストニア]]等)に暮らしている。彼らが、ロシア人となった経緯は様々で、支配層からの搾取や圧力、政治的経緯、戦争による被害を恐れた、等様々である。                主なドイツ系ロシア人のひとびとには、のちに[[ロシア帝国]]の[[皇族]]となった、[[ロマノフ家]]が著名である。

== 歴史 ==
ドイツとロシアの関係は古く[[キエフ・ルーシ]]の時代にまで遡るが、[[ロシア帝国]]時代の1702年には[[ピョートル1世]]によって招待令が布告され、多くのドイツ人が技師・医師・教師・軍人等の専門家としてロシアへと招かれた。これは[[大北方戦争]]における当初の苦戦によってピョートルが軍の再編やインフラストラクチュアーの整備の必要を痛感したためだった。この戦争で[[スウェーデン]]に勝利したロシアは[[バルト海]]沿岸地方を獲得、そこに暮らしていた[[バルト・ドイツ人]]がロシア帝国の支配下に入り、[[サンクトペテルブルク]]の建設など近代化に貢献することになった。ピョートル以降、[[ロマノフ朝]]はドイツ貴族との結婚政策により親ドイツ的な傾向を強めた<ref name="fukuzumi">{{Cite journal|和書|author=福住誠|title=ロシア (旧ソ連) のドイツ人―その歴史的運命について―|year=1994|journal=ロシア・東欧学会年報|issue=23|publisher= ロシア・東欧学会 |pages=92-98|doi=10.5823/jarees1993.1994.92}}</ref>。

その後もロシアへのドイツ人の移住・入植は続いた。1763年に[[エカチェリーナ2世]]が外国人招待令を布告したことで、[[七年戦争]]で荒廃していた[[ヘッセン]]や南西ドイツからの入植が増加した。彼らは主に[[ヴォルガ川]]流域に移住し、後に[[ヴォルガ・ドイツ人]]となる。1897年のロシア初の国勢調査ではその人口は約180万人となっていた。1914年に第一次世界大戦が勃発しロシアとドイツとが戦争状態に入ると、ロシアのドイツ人は反ドイツ感情に直面した。ドイツ語の使用は禁じられドイツ語の地名は改名された。サンクトペテルブルクもペトログラードに改名されている。1915年には[[ヴォルィーニ]]のドイツ人入植者約20万人が追放され、1917年2月にはヴォルガのドイツ人入植者の追放も決定されたが、これは[[2月革命 (1917年)|二月革命]]が発生したために実行されなかった<ref name="fukuzumi" />。

ロシア革命後、1924年1月6日に[[ヴォルガ・ドイツ人自治ソヴィエト社会主義共和国]]が成立した。革命政府としてはドイツのプロレタリアートへの宣伝効果を期待してヴォルガ・ドイツ人の自治を推進し、ドイツにおける共産主義革命が失敗に終わった後には、民族・社会問題解決のモデルケースとして、あるいは西側資本の導入のために自治共和国を利用した。1930年代に入ってソ連とドイツとの関係が緊張すると状況が変わり、1941年に[[独ソ戦]]の勃発によって[[ヨシフ・スターリン|スターリン]]はヴォルガ・ドイツ人の[[シベリア]]・[[中央アジア]]への追放を決定した。1941年8月28日になされたこの決定は他の全ドイツ系住民にも適用された<ref name="fukuzumi" />。

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2020年5月19日 (火) 16:52時点における版

ドイツ系ロシア人は、ロシア国籍を持つドイツ人ないしドイツに民族的なルーツを持つロシア人の総称である。

歴史

ドイツとロシアの関係は古くキエフ・ルーシの時代にまで遡るが、ロシア帝国時代の1702年にはピョートル1世によって招待令が布告され、多くのドイツ人が技師・医師・教師・軍人等の専門家としてロシアへと招かれた。これは大北方戦争における当初の苦戦によってピョートルが軍の再編やインフラストラクチュアーの整備の必要を痛感したためだった。この戦争でスウェーデンに勝利したロシアはバルト海沿岸地方を獲得、そこに暮らしていたバルト・ドイツ人がロシア帝国の支配下に入り、サンクトペテルブルクの建設など近代化に貢献することになった。ピョートル以降、ロマノフ朝はドイツ貴族との結婚政策により親ドイツ的な傾向を強めた[1]

その後もロシアへのドイツ人の移住・入植は続いた。1763年にエカチェリーナ2世が外国人招待令を布告したことで、七年戦争で荒廃していたヘッセンや南西ドイツからの入植が増加した。彼らは主にヴォルガ川流域に移住し、後にヴォルガ・ドイツ人となる。1897年のロシア初の国勢調査ではその人口は約180万人となっていた。1914年に第一次世界大戦が勃発しロシアとドイツとが戦争状態に入ると、ロシアのドイツ人は反ドイツ感情に直面した。ドイツ語の使用は禁じられドイツ語の地名は改名された。サンクトペテルブルクもペトログラードに改名されている。1915年にはヴォルィーニのドイツ人入植者約20万人が追放され、1917年2月にはヴォルガのドイツ人入植者の追放も決定されたが、これは二月革命が発生したために実行されなかった[1]

ロシア革命後、1924年1月6日にヴォルガ・ドイツ人自治ソヴィエト社会主義共和国が成立した。革命政府としてはドイツのプロレタリアートへの宣伝効果を期待してヴォルガ・ドイツ人の自治を推進し、ドイツにおける共産主義革命が失敗に終わった後には、民族・社会問題解決のモデルケースとして、あるいは西側資本の導入のために自治共和国を利用した。1930年代に入ってソ連とドイツとの関係が緊張すると状況が変わり、1941年に独ソ戦の勃発によってスターリンはヴォルガ・ドイツ人のシベリア中央アジアへの追放を決定した。1941年8月28日になされたこの決定は他の全ドイツ系住民にも適用された[1]

脚注

  1. ^ a b c 福住誠「ロシア (旧ソ連) のドイツ人―その歴史的運命について―」『ロシア・東欧学会年報』第23号、ロシア・東欧学会、1994年、92-98頁、doi:10.5823/jarees1993.1994.92