鶴澤探山

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鶴澤[1] 探山(つるさわ たんざん、1655年明暦元年)[2]または1658年万治元年)[3] - 1729年8月7日享保14年7月13日[4]))は、日本の江戸時代前期から中期に活躍した狩野派絵師。名は守見、良信、兼信。探山は号で、別号に幽泉、探春、探川など。狩野探幽の門人で、後に京都へ移り鶴澤派の祖となった。

略伝[編集]

出身は江戸とも京都とも言われるが、後に京都で活躍したことを踏まえれば後者の可能性が高い。探幽最晩年の弟子で、探幽四天王の中に探山が入ることもある。元禄年間に東山天皇の勅書により上洛、それまでの探川の号を探山に改める。1700年(元禄13年)に法橋位を得る。1708年宝永5年)に完成した第五皇子・慶仁親王(中御門天皇)の御所障壁画を制作する。その後も宝永度の内裏障壁画や、1713年正徳3年)の近衛尚子女御御所障壁画、小浜千石荘障壁画などに彩管を振った。こうした禁裏御用絵師としての活躍が認められてか、晩年の1724年(享保9年)法眼に叙されたが、その5年後に死去。享年75。墓は京都の善導寺。息子の鶴澤探鯨が鶴澤派を継いだ。弟子に橘守国など。

壮年期の御所障壁画が殆ど失われたため、画名の割に現存作品数は多くない。画風は探幽によく似ており、余白を広めの取り、構図を簡略化し、少ない筆致で対象を描き出している。そのため、落款の「山」の字を「幽」に書き換えて探幽画とする者がいたという逸話が残り[5] 、実際そうした改変の跡が認められる作品も残っている[6]

代表作[編集]

作品名 技法 形状・員数 所有者 年代 落款 備考
寿老人松鶴竹鶴図 絹本著色 3幅対 七宝庵コレクション 1712年(正徳2年) 「探山行年五十八歳筆」落款
富嶽図 絹本著色 1幅 北観音山保存会 1717年(享保2年) 「探山行年六十三歳筆」落款
「守見」朱文方印
溌墨山水図屏風 紙本金地墨画 六曲一双 千葉市美術館 1719年(享保4年) 「探山行年六十五歳筆」落款
「守見」朱文方印
押絵貼図屏風 紙本著色 六曲一双 七宝庵コレクション 1721年(享保6年) 「探山行年六十七歳筆」落款
「守見」朱文方印
林和靖図 絹本墨画淡彩 1幅 京都府立総合資料館(京都文化博物館管理) 1721年(享保6年) 「探山行年六十七歳筆」落款
「守見」朱文方印
鶴沢家伝来
鶴図 紙本墨画淡彩 1幅 七宝庵コレクション 1724年(享保9年) 「享保九年辰年正月二日 探山行年七十歳筆」落款
「守見」朱文方印
五節句図 絹本墨画淡彩 5幅対 京都府立総合資料館(京都文化博物館管理) 1724年(享保9年) 「探山行年七十歳筆」落款
「法眼」朱文方印
鶴沢家伝来
琴棋書画図屏風 紙本著色 六曲一双 七宝庵コレクション 「法眼探山」朱文方印
風俗十二ヶ月屏風 六曲一双 大阪府立中之島図書館
鉄拐・山水図 東京国立博物館 「法眼探山」落款
松竹梅図屏風 紙本金地著色 六曲一双 個人[7]

脚注[編集]

  1. ^ 「鶴澤」は「鶴沢」の文字が一般的に用いられているが、子孫が鶴澤姓を名乗っていることを鑑み、「鶴澤」で立項している(野口(2003)p.20)。
  2. ^ 古画備考』に、「享保十四己酉正月二日 法眼探山七十五歳」款記を持つ作品の存在が記されていることから逆算。
  3. ^ 『綱平公記』、『御用日記』(陽明文庫蔵)、『宣下略案』(宮内庁書陵部蔵)の記述から逆算。
  4. ^ 善導寺の過去帳の記載より。
  5. ^ 増訂古画備考』四十二狩野門人譜「狩野探山伝」。
  6. ^ 榊原悟 『狩野探幽 御用絵師の肖像』 臨川書店、2014年6月、p.78、ISBN 978-4-653-04085-9
  7. ^ 弘前市市制百周年記念 津軽家の名品展図録』 弘前市立博物館編集・発行、1989年3月31日、pp.8-9。

参考文献[編集]

展覧会図録
  • 佐々木丞平編著 日本美術調査研究センター調査編集協力 『平成8年春季企画展図録 江戸期の京画壇 --鶴沢派を中心にして』 京都大学文学部博物館、1996年8月
  • 京都文化博物館学芸課編集 『近世京都の狩野派展』 京都文化博物館、2004年9月
    • 野口剛 「鶴澤探山の画歴─失われた御所障壁画」、pp.162-165
  • 兵庫県立歴史博物館編集 『彩 ~鶴澤派から応挙まで~』 「彩」実行委員会、2010年4月
論文
  • 野口剛 「鶴澤派研究序論」『京都文化博物館紀要 朱雀』第15集、2003年3月31日、pp.1-26