高崎親廣

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高崎 親廣(たかさき ちかひろ、1819年文政2年) - 1877年明治10年)6月26日)は、日本武士鹿児島藩士)。高崎親広。通称は九郎左衛門。長男に高崎親章薩摩国鹿児島県日置郡市来郷出身。

経歴[編集]

藩校造士館で学び、1839年天保10年)には大坂留守居の高崎金之進に従い上坂。京都・大坂で遊学した。帰藩後八田知紀国学和歌を学んだ後、市来郷で学舎を開いて子弟を教育した。

尊皇家で、毎朝皇居の方角を向いて遙拝し、決してその方角に足を向けて寝ることはなかった。しかし幕末討幕運動は、故郷を離れられず、もっぱら子の親章に託していたという。1863年薩英戦争に藩士として参戦。

明治維新後も故郷を離れなかったが、新政府への忠誠心は厚かった。西郷隆盛下野し、1877年に中央政府と不穏な空気が高まると、中央にいた親章に政府の注意を促した。西南戦争が勃発すると、西郷軍に皇軍に抗してはならないと主張し、事態の収拾に当たった。しかし、西郷の私学校党たちの怒りを買い、5月26日自宅を襲撃され投獄された。6月26日、獄中で西郷軍の兵士に殺された。

西南戦争が政府軍の勝利に終わると、9月26日官命により遺骸を葬り、祭祀料を下賜された。