駿州片倉茶園ノ不二
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作者 | 葛飾北斎 |
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製作年 | 1830年(天保元年)から1834年(天保5年)ごろ[1][注釈 1]。 |
種類 | 多色刷木版画 |
寸法 | 24.4 cm × 37.5 cm (9.6 in × 14.8 in) |
「駿州片倉茶園ノ不二」(すんしゅうかたくらちゃえんのふじ)は、葛飾北斎の名所浮世絵揃物『冨嶽三十六景』全46図中の1図[3]。落款は「前北斎為一筆」とある[4]。
概要
[編集]本作品の題名となっている駿州とは駿河国を指すが、「片倉」という地名がどこを指すかについては長年不明な状態となっていたが、かつて静岡県富士市中野近辺に実在していたことが判明したのは現代に入ってからとなる[5][6]。江戸時代においても駿河国は京都の宇治市と並んで茶の産地として知られており、そこでの作業風景と富士山の景観を収めた作品となっている[7]。
しかしながら、片倉という地域に絵にあるような茶畑が広がっていたかどうかは定かでは無く、近隣の旧大渕村に存在した大渕笹場が作品の元となった場所ではないかと推考されているが、実際に北斎が目にしたものではなく、想像あるいは伝聞による作品であるとの指摘もある[5][8]。これは、作品では茶畑に集まって茶摘みを行う女性たちや力仕事に精を出す男性たちの様子が描かれているが、茶畑が枯れた色をしていることや稲刈り後の積み藁の様子から晩秋を描いたものと見られ、北斎が本来春から夏にかけて行う茶摘みの時期を誤認している証左であり、実際の作業風景を目にしていなかったためと言われる論拠となっている[9]。一方で、富士山の残雪の様子から初春を時期を描いたものであり、緑の茶畑を目にしていたが、周囲の森の色と同化させないようあえて黄色に改変したのではないかという考察もある[7]。
描かれている二頭の馬の腹掛けには、版元である西村屋与八の印がデザインされている[8]。浮世絵版画の世界において版元間の競争が熾烈化していった影響で、こうした細やかな宣伝が施されていたのではないかと言われている[10]。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 刊行年については柳亭種彦が出版した『正本製』に掲載された広告を根拠とする天保2年(1831年)に刊行したとする説、エドモン・ド・ゴンクールの著した『北斎』の記述を根拠とする文政6年(1823年)から文政12年(1829年)に刊行したとする説などもある[2]。
出典
[編集]- ^ “北斎年譜”. 島根県立美術館の浮世絵コレクション. 島根県立美術館. 2022年9月26日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年9月3日閲覧。
- ^ 磯崎 2021, p. 124.
- ^ 日野原 2019, pp. 166–167.
- ^ 日野原 2019, p. 212.
- ^ a b 日野原 2019, p. 168.
- ^ 三好達也 (2019年3月29日). “北斎の冨嶽三十六景 「駿州片倉茶園ノ不二」はどこを描いた?”. Yahooニュースオリジナル The PAGE. LY Corporation. 2022年5月14日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年8月11日閲覧。
- ^ a b 安村 2010, p. 45.
- ^ a b 版画芸術 2024, p. 51.
- ^ 日野原 2019, p. 169.
- ^ “冨嶽三十六景《駿州片倉茶園ノ不二》”. 文化遺産オンライン. 日本文化庁. 2024年8月11日閲覧。
参考文献
[編集]- 安村敏信「北斎 冨嶽三十六景の旅 天才絵師が描いた風景を歩く」『太陽の地図帖』 5巻、平凡社、2010年。ISBN 978-4-582-94532-4。
- 日野原健司『富嶽三十六景』岩波書店、2019年。ISBN 978-4-00-335811-5。
- 磯崎康彦「北斎の風景・風俗版画」『福島大学人間発達文化学類論集』 34巻、福島大学人間発達文化学類、2021年、124-109頁 。
- 『版画芸術』 203巻、阿部出版、2024年。ISBN 978-4-87242-579-6。