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難波日香蚊

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難波日香蚊(『前賢故実』より)

難波 日香蚊(なにわ の ひかか、生年不明 - 推定454年安康天皇元年2月))は、『日本書紀』などに伝わる古代日本の豪族吉士。『古事記』には彼に関する記載は存在しない。名は日香香とも記される。

出自

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新撰姓氏録』「河内国皇別」によると、難波吉士(難波連・難波忌寸)氏は「大彦命之後也」とされており、阿倍氏と同族であるとされている。「吉士」という称号は元々は、古代朝鮮において「王」・「首長」を意味するものであり、日本では渡来人の称号として用いられ、「姓」や「氏」ともなったものである。『古事記』中巻には、難波吉師部の祖だとする伊佐比宿禰(いさい の すくね)が忍熊王の将軍に任命されたとあり、『日本書紀神功皇后摂政元年2月条には麛坂皇子・忍熊王の武将に、吉師の祖先と称する五十狭茅宿禰(いさち の すくね)が東国の兵を興したとある。

記録

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日本書紀』巻十三によると、推定454年大草香皇子(おおくさか の みこ)は根使主(ねのおみ)の讒言(ざんげん)を信じた安康天皇により殺されてしまった。この時に、皇子に仕えていた日香蚊とその2人の子供たちは、皇子が無実の罪で殺されたことを悲しんで、日香蚊は皇子の首を抱き、二人の子供たちは皇子の足をとらえて、以下のように唱えたという。

「吾(わ)が君、罪旡(な)くして死(し)にたまふこと、悲(かな)しきかな。我(やつがれ)父子(かぞこ)三人(みたり)、生(い)きてまししときには事(つか)へまつり、死(し)にますときに殉(したが)ひまつらはずは、是(これ)(やつこ)だにもあらず」

そう言って、自刎して、皇子の屍のかたわらで死んでいった。軍兵たちはみなこれを見て悲しみのなみだを流した、という[1]

『書紀』巻第十四によると、推定470年、前の月に呉織・漢織および衣縫の兄媛・弟媛らを連れて来日した呉(くれ、中国の南朝、現在の華南)の使節を接待していた雄略天皇は、根使主を呉人らの共食者(あげたげびと)に選んでいた。しかし、このことがきっかけで根使主の十数年前の「嘘」が露顕してしまい、根使主は攻め滅ぼされた。そして天皇は日香蚊の子孫を捜し回り、を与えて、大草香皇子の名にちなみ、「大草香部吉士」と名乗らせた、という[2]

『書紀』巻第二十九によると、子孫の草香部吉士大形は681年天武天皇10年正月)に「難波連」の氏姓を授けられた。683年には草香部吉士氏全体も、「連」の姓を与えられた[3]。「八色の姓」制定により、685年、難波連氏は、「忌寸」の姓を授与されている[4]

脚注

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  1. ^ 『日本書紀』安康天皇元年2月1日条
  2. ^ 『日本書紀』雄略天皇14年4月1日条
  3. ^ 『日本書紀』天武天皇12年10月5日条
  4. ^ 『日本書紀』天武天皇14年6月20日条

参考文献

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関連項目

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