豆卒

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豆 卒
各種表記
ハングル 두졸
漢字 豆 卒
発音: {{{nihonngo-yomi}}}
日本語読み: とう そつ
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豆 卒(とう そつ、生没年不詳)は、鮮卑族系高句麗人軍人[1][2]

人物[編集]

豆卒の息子の豆善富墓誌中国河南省洛陽市から出土しており、墓誌は開封市博物館が所蔵している。墓誌によると、豆卒の祖先は、北魏末高句麗亡命し、高句麗で高位の政治的地位を有した一族だった[3]

豆卒の祖先は、平陵(陝西省咸陽市)で暮らしていたが、漢代に雁門太守を務めていた17代祖先の統が戦乱を避けて朔野に逃れ、その地で代々暮らし、北魏代に紇豆陵氏を賜姓された[4]。その後、豆卒の5代祖先である北魏将軍紇豆陵歩藩が、北斉高歓に敗れて敗死したことから一族は高句麗に亡命し、「豆」をとした。その後、唐の高句麗出兵の際に豆卒が兄弟とともに唐に投降し、唐に移住した。豆卒は唐から優遇されて官僚に採用され、「犁木二州□□諸軍事」と「紫金魚」を授かる[4]

考証[編集]

中国系移民の高句麗亡命は、北中国の政治的混乱と関連がある。西晋末期の混乱、東魏西魏の対立などの軍事的・政治的混乱の際に継続的に高句麗への亡命が発生している。このことは高句麗が北中国の政治・軍事的混乱から自由ではなかったことを示している[1]

高句麗に亡命した中国系移民の故国での地位は、国王(馮弘)、政府高官(慕容評)、地方官(崔毖江果)とその属僚(冬寿宋晃)、豪族韓詳)、一般の民などほぼすべての階層が包括されている[1]。これらの中国系移民たちは、故国を脱出し、新移住地へと「亡命」した形態を帯びており、自らの権力基盤を失い、高句麗に亡命した豆卒祖先一族もこれに属する[1]

脚注[編集]

参考文献[編集]