観音寺 (四日市市垂坂町)
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観音寺 | |
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本堂 | |
所在地 | 三重県四日市市垂坂町1266 |
位置 | 北緯35度0分30.6秒 東経136度36分41.7秒 / 北緯35.008500度 東経136.611583度座標: 北緯35度0分30.6秒 東経136度36分41.7秒 / 北緯35.008500度 東経136.611583度 |
山号 | 垂坂山 |
宗派 | 天台宗 |
本尊 | 元三大師(良源) |
創建年 | 延長6年(928年) |
開基 | 船木良見 |
正式名 | 垂坂山観音寺 |
別称 | 垂坂のお大師さん |
札所等 |
伊勢西国三十三所観音霊場 第26番 東海近畿地蔵霊場 第1番 東海四十九薬師霊場 第10番 |
公式サイト | 四日市市の癒しのお寺「垂坂山観音寺」公式サイト |
法人番号 | 4190005008999 |
観音寺(かんのんじ)は、三重県四日市市垂坂町にある、天台宗の寺院。山号は垂坂山(たるさかさん)。本尊は元三大師。
歴史
[編集]弘仁6年(815年)、最澄が聖徳太子自作の薬師如来を安置し、堂宇を建立したのが始まりと伝わる[1]。
延長 6年(928年)延暦寺中興良源の大乗受戒に際し、伊勢国朝明郡の領主船木良見の援助により、垂坂の地に伽藍を建立した。寺域の規模は、現在の観音寺が奥の院にあたり、東西南北におよそ2 kmにもおよぶ壮大なものであり、境内には54の坊や院があり、伊勢天台別院として栄えたと伝わるが、天正3年(1575年)8月、織田信長の軍勢に攻められ焼失している[1][2]。
元禄4年(1691年)桑名藩主松平定重が、郡代野村増右衛門を奉行として再興されたもので、現在の本堂は昭和に新しく建てられているが、山門や鐘楼は往時の姿を今に伝えているという[1][2][3]。明治6年(1873年)に一度廃寺となるが、明治16年(1883年)に復興されて現在に至る。なお、東方向には五島製糸場跡がある。
文化財
[編集]重要文化財
[編集]三重県指定有形文化財
[編集]- 木造誕生釈迦仏立像(1躯) 昭和30年(1955年)4月18日指定[6][7]。
- 木造地蔵菩薩坐像(1躯) 昭和31年(1956年)5月2日指定[8][9]。
- 木造薬師如来立像(1躯) 昭和40年(1965年)6月8日指定[10][11]。
- 絹本著色仏涅槃図(1幅) 昭和32年(1957年)3月29日指定[12][13]。
四日市市指定有形文化財
[編集]年中行事
[編集]- この節の加筆が望まれています。
アクセス
[編集]- 東名阪自動車道 四日市東インターチェンジより南へ約2km
- 近鉄名古屋線 霞ヶ浦駅より北西へ約3km。
参考文献
[編集]- 大矢知歴史研究会『歴史のまち ふるさと大矢知』2008年、118・119頁他。
- 冨永航来『東海四十九薬師巡礼』朱鷺書房、2000年、54 - 57頁。
- 四日市市編『四日市市史 第四巻 史料編文化財』1989年、518・519頁他。
- 四日市市編『四日市市史 第五巻 史料編民俗』1995年、787・788頁。
脚注
[編集]- ^ a b c 大矢知歴史研究会『歴史のまち ふるさと大矢知』119頁。
- ^ a b 冨永航来『東海四十九薬師巡礼』54 - 57頁。
- ^ 四日市市『四日市市史 第四巻 史料編文化財』518・519頁他。
- ^ みんなで、守ろう!活かそう!三重の文化財・四日市・三重地域 (2010年5月16日閲覧。)
- ^ 四日市市『四日市市史 第四巻 史料編文化財』192・194頁。
- ^ みんなで、守ろう!活かそう!三重の文化財・木造誕生釈迦仏立像 (2010年5月16日閲覧。)
- ^ 四日市市『四日市市史 第四巻 史料編文化財』186頁。
- ^ みんなで、守ろう!活かそう!三重の文化財・四日市・三重地域 (2010年5月16日閲覧。)
- ^ 四日市市『四日市市史 第四巻 史料編文化財』188・189頁。
- ^ みんなで、守ろう!活かそう!三重の文化財・木造薬師如来立像 (2010年5月16日閲覧。)
- ^ 四日市市『四日市市史 第四巻 史料編文化財』166頁。
- ^ みんなで、守ろう!活かそう!三重の文化財・絹本著色仏涅槃図 (2010年5月16日閲覧。)
- ^ 四日市市『四日市市史 第四巻 史料編文化財』211 - 213頁。
- ^ a b 四日市の指定・登録文化財 (2010年5月16日閲覧。)
- ^ 四日市市『四日市市史 第四巻 史料編文化財』518・519頁。
- ^ 大矢知歴史研究会『歴史のまち ふるさと大矢知』2008年、132・133頁。