西尾忠永
時代 | 安土桃山時代 - 江戸時代前期 |
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生誕 | 天正12年(1584年) |
死没 | 元和6年1月14日(1620年2月17日) |
改名 | 忠康、忠永 |
戒名 | 月海岫雲清光院 |
墓所 | 神竜寺(現・茨城県土浦市)、遍光寺(駿河国田中)、龍眠寺(遠江国横須賀) |
官位 | 主水(主水正)、従五位下丹後守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家康 |
藩 | 武蔵国原市藩藩主→上野国白井藩藩主→常陸国土浦藩藩主 |
氏族 | 酒井氏→西尾氏(後期東条吉良氏庶流) |
父母 |
父:酒井重忠、母:山田重辰の娘 養父:西尾吉次 |
兄弟 | 酒井忠世、酒井忠季、忠永、酒井忠正 |
妻 | 正室:西尾吉次の娘 |
子 | 忠照、女子(酒井忠世養女)、女子(稲垣重昌室、のち木下俊治に嫁す)、忠知、女子(増田道意某妻) |
西尾 忠永(にしお ただなが)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将、大名。武蔵国原市藩藩主、上野国白井藩藩主、常陸国土浦藩藩主。横須賀藩西尾家2代。はじめ忠康[1][2]。主水[1](主水正[3])。
生涯
[編集]天正12年(1584年)、徳川氏の家臣・酒井重忠の三男として三河国西尾で生まれる[1][2]。母は山田重辰の娘[1]。実兄に江戸幕府大老・酒井忠世がいる。
徳川家康に仕え、2000石の所領を与えられた[1]。慶長4年(1599年)、西尾吉次の娘を娶った[1]。同5年(1600年)9月、関ヶ原の戦いに従軍した[1]。
慶長8年(1603年)11月25日、従五位下丹後守に叙任[1]。のち奏者を務める[1]。その後、岳父・吉次の養子となった[1]。慶長11年(1606年)8月、吉次が死去したため、同年10月7日、遺領(武蔵国足立郡原市5000石、美濃国内7000石)を継いだ[1](原市藩)[4]。
慶長19年(1614年)10月、大坂冬の陣のとき供奉し、元和元年(1615年)の大坂夏の陣にも従軍した[1]。
元和2年(1616年)、上野国群馬郡内で2万石を領し、白井城を居所とした[1][2](白井藩)[5]。
元和4年(1618年)8月、常陸国新治郡内に2万石で移封となり、土浦城城主となった[1][3][2](土浦藩)[6]。同5年(1619年)、それまで
元和6年(1620年)1月14日、土浦で死去[1][9]。37歳[1]。法号は月海岫雲清光院[1]。土浦・神龍寺に葬られた[1][9]。のち、駿河国田中の遍光寺に改葬し、さらに遠江国横須賀の龍眠寺に移った[1]。
系譜
[編集]- 父母:
- 正室:西尾吉次の娘
- 側室:某氏
- 女子:家臣・増田道意某の妻