藤原経家 (非参議)
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時代 | 平安時代後期 - 鎌倉時代初期 |
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生誕 | 久安5年(1149年) |
死没 | 承元3年9月19日(1209年10月19日) |
別名 | 六条三位 |
官位 | 正三位、非参議 |
主君 | 近衛天皇→後白河天皇→二条天皇→六条天皇→高倉天皇→安徳天皇→後鳥羽天皇→土御門天皇 |
氏族 | 藤原北家末茂流六条藤家 |
父母 | 父:藤原重家、母:藤原家成の娘 |
兄弟 | 経家、顕家、有家、保季、資家、成円、仁快、中山兼宗室 |
妻 | 難波頼輔の娘、藤原光忠または源定房の娘 |
子 | 経重、家衡、家方、家季、承快、覚経、九条良輔室、藤原頼房室 |
藤原 経家(ふじわら の つねいえ)は、平安時代後期から鎌倉時代初期にかけての公卿・歌人。六条を号し、六条三位とも称された。
経歴
[編集]久寿元年12月(1155年2月)に叙爵。永暦元年(1160年)右衛門佐を務め、応保2年(1162年)従五位上に叙される。
阿波権介を経て、二条天皇の崩御後も永万2年(1166年)従四位下・中務権大輔に叙任されるなど昇進を見せた。承安4年(1174年)正四位下に昇り、近江介、右衛門佐を歴任。寿永元年12月(1183年1月)に宮内卿、元暦2年(1185年)には内蔵頭を務め、文治5年(1189年)に従三位に叙され公卿に列した。建久9年(1198年)には正三位に進んだ。
承元2年(1208年)閏4月15日七条北東洞院の西辺りから火災が発生。大風が吹き、経家の邸も火に巻き込まれ焼失した[1]。同年9月に出家。翌承元3年(1209年)9月19日に赤痢病のため61歳で薨去[2]。
歌人としても活躍し別雷社歌合や六百番歌合などに出詠。勅撰和歌集にも歌が残る。
官歴
[編集]※以下、『公卿補任』の記載に従う。
- 久寿元年12月28日(1155年2月1日):従五位下(公嘉門院返上年々未給叙之)
- 永暦元年(1160年)4月3日:右衛門佐
- 応保2年(1162年)正月5日:従五位上(佐労)
- 長寛3年(1165年)正月23日:阿波権介、12月30日:昇殿
- 永万2年[3](1166年)5月19日:中務権大輔(以佐相轉平忠度)、従四位下(臨時)
- 仁安3年(1168年)11月13日:近江介兼字(去年任中務権大輔之時無兼字)、10月20日:従四位上(大嘗會国司)
- 承安4年(1174年)正月5日:正四位下(皇嘉門院當年御給)
- 治承5年(1181年)4月6日:近江介、右衛門佐、11月14日:正四位上
- 寿永元年12月10日(1183年1月5日):宮内卿
- 元暦2年(1185年)6月10日:内蔵頭
- 文治5年(1189年)7月10日:従三位
- 建久9年(1198年)11月21日:正三位(臨時)
- 承元2年(1208年)9月7日:出家