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藤原盛隆

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
藤原 盛隆
時代 平安時代末期
生誕 不詳
死没 不詳
改名 盛隆→時光→盛隆
官位 正四位下修理権大夫
主君 近衛天皇後白河天皇二条天皇六条天皇高倉天皇安徳天皇後鳥羽天皇
氏族 藤原北家勧修寺流
父母 父:藤原顕時、母:藤原信輔の娘
兄弟 行隆盛方盛隆有隆時光、顕運、道顕、藤原是憲室、領子
不詳
時長
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藤原 盛隆(ふじわら の もりたか)は、平安時代末期の貴族。一時的に時光に改名するが盛隆に復した。藤原北家勧修寺流権中納言藤原顕時の子。官位正四位下修理権大夫

経歴

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修理亮近衛天皇六位蔵人を経て、従五位下叙爵し、仁平4年(1154年甲斐守に任官する。保元2年(1157年)従五位上に叙せられ、 保元3年(1158年後白河院院政を開始すると、判官代を務めた。

その後、後白河院判官代を務める一方で、仁安元年(1166年木工頭、仁安2年(1167年右衛門権佐嘉応2年(1170年)左衛門権佐を歴任するが、承安3年(1173年)解官された。のち、官界に復帰して、治承3年(1179年)には春宮・言仁親王の春宮権大進にも任ぜられている。また、この頃に時光改名するが白河院の院宣により元の盛隆に復した[1]

治承4年(1180年)言仁親王が践祚安徳天皇)すると刑部少輔に遷る。のち、修理権大夫を務め、位階正四位下に至った。

官歴

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系譜

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尊卑分脈』による。

脚注

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  1. ^ 『尊卑分脈』
  2. ^ 『本朝世紀』
  3. ^ 『宇槐記』
  4. ^ a b c 『兵範記』
  5. ^ 『平安遺文』3138
  6. ^ 『山槐記』
  7. ^ a b 『山槐記除目部類』
  8. ^ 『検非違使補任』
  9. ^ a b 『玉葉』
  10. ^ 『玉葉』治承4年3月5日条

参考文献

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