藤原盛隆
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時代 | 平安時代末期 |
---|---|
生誕 | 不詳 |
死没 | 不詳 |
改名 | 盛隆→時光→盛隆 |
官位 | 正四位下、修理権大夫 |
主君 | 近衛天皇→後白河天皇→二条天皇→六条天皇→高倉天皇→安徳天皇→後鳥羽天皇 |
氏族 | 藤原北家勧修寺流 |
父母 | 父:藤原顕時、母:藤原信輔の娘 |
兄弟 | 行隆、盛方、盛隆、有隆、時光、顕運、道顕、藤原是憲室、領子 |
妻 | 不詳 |
子 | 時長 |
藤原 盛隆(ふじわら の もりたか)は、平安時代末期の貴族。一時的に時光に改名するが盛隆に復した。藤原北家勧修寺流、権中納言・藤原顕時の子。官位は正四位下・修理権大夫。
経歴
[編集]修理亮や近衛天皇の六位蔵人を経て、従五位下に叙爵し、仁平4年(1154年)甲斐守に任官する。保元2年(1157年)従五位上に叙せられ、 保元3年(1158年)後白河院が院政を開始すると、判官代を務めた。
その後、後白河院判官代を務める一方で、仁安元年(1166年)木工頭、仁安2年(1167年)右衛門権佐、嘉応2年(1170年)左衛門権佐を歴任するが、承安3年(1173年)解官された。のち、官界に復帰して、治承3年(1179年)には春宮・言仁親王の春宮権大進にも任ぜられている。また、この頃に時光に改名するが白河院の院宣により元の盛隆に復した[1]。
治承4年(1180年)言仁親王が践祚(安徳天皇)すると刑部少輔に遷る。のち、修理権大夫を務め、位階は正四位下に至った。
官歴
[編集]- 時期不詳:正六位上
- 久安6年(1150年) 12月22日:修理亮[2]
- 仁平元年(1151年) 正月27日:見六位蔵人[3]
- 時期不詳:従五位下
- 仁平4年(1154年) 正月23日:甲斐守[4]
- 保元2年(1157年) 10月22日:従五位上[4]
- 永暦2年(1161年) 2月26日:見後白河院判官代[5]
- 応保2年(1162年) 正月27日:去守?[6]
- 仁安元年(1166年) 10月10日:木工頭、止守、見正五位下[7]
- 仁安2年(1167年) 8月1日:右衛門権佐、検非違使宣旨[4]
- 嘉応2年(1170年) 7月26日:左衛門権佐?[8]
- 承安3年(1173年) 8月18日:停権佐[9]
- 時期不詳:盛隆から時光に改名
- 治承3年(1179年) 11月18日:春宮権大進(春宮・言仁親王)[9]
- 時期不詳:時光から盛隆に改名
- 治承4年(1180年) 3月4日:刑部少輔、元東宮権大進、見正五位下[7][10]
- 時期不詳:修理権大夫
- 文治5年(1189年) 正月18日:正四位下、見修理権大夫
系譜
[編集]『尊卑分脈』による。